第2話「土の味」
馬車ではなかった。
私を運んだのは、罪人を護送するための鉄の檻だった。
床は木で、隙間から地面が見える。屋根は荒い金網で、雨の日は容赦なく濡れる仕組みになっていた。座ることもできず、立つこともできず、ただ膝を抱えてうずくまるしかない高さ。
一日目、水が一杯。
二日目、水が一杯。
三日目、水を持ってきた兵士が、私の顔を見て舌打ちをした。
「公爵令嬢様の顔が拝めると思って楽しみにしてたのによ。もう人間の顔じゃねえ」
そう言って、彼は柄杓の水を私の足元にぶちまけた。
私は黙って、檻の床板に染みた水を、指先で拭って舐めた。
木屑と、泥と、誰かの靴の匂いがした。
——これが土の味、と私は知らない言葉を覚えるように思った。十九年、銀の食器でしか飲み食いしたことのない舌で。
四日目、護衛の隊長らしき男が檻の前に立った。
「おい、家畜」
私は顔を上げなかった。
「殿下のご温情だ。今ここで詫び状を書けば、修道院送りに格下げしてやる。一生外に出られんが、屋根のある場所で死ねるぞ」
私は、ようやく顔を上げた。
そして、首を横に振った。
「……どうしてだ」
「修道院の屋根の下で死ぬのも、辺境の空の下で死ぬのも、同じ『死ぬ』です。それなら、私は空が見える方を選びます」
隊長は、しばらく私を見ていた。
それから、何も言わずに檻に背を向けた。
その夜、私の檻の隅に、こっそりと小さなパンの欠片が一つ、置かれていた。
——人間というのは、不思議だ。家畜と呼んだその口で、家畜にパンを差し入れる。
五日目の昼過ぎ、檻の揺れが止まった。
「ここが、ヴェルデン領との境界だ」
隊長の声。私は檻の隙間から外を見た。
道は、ない。崖だった。眼下に、灰色の谷と、痩せた森。風だけが、ひゅう、と鳴いている。
「殿下の命令は『辺境に運べ』だ。境界線は越えた。あとは自分で歩け、家畜」
兵士たちが檻の鍵を外す。私は這い出るように地面に降りた。膝が震えた。立ち上がろうとして、よろけた。
「一応、これだけはくれてやる」
隊長が、私の足元に小さな包みを投げた。乾いたパンと、塩の小袋。
そして——彼は一瞬、何かを言いかけ、結局言わずに、踵を返した。
兵士の一人が、最後に私に唾を吐いた。
ドレスの肩口に、生温かいものが落ちる感触。私は動かなかった。
馬車が去っていく音を聞きながら、私は包みを胸に抱いた。
そして、谷の方へ一歩、踏み出した。
——その瞬間、足元の砂利が崩れた。
落ちる、と思ったのは一瞬。
体が斜面を転がり、岩で肩を打ち、頬を切り、ドレスの裾が裂け、髪に小枝が絡んだ。視界が回転し、空と地面の区別がつかなくなった。
——ああ、これで終わる。
不思議と恐怖はなかった。十九年、いつかこうなる予感だけは、ずっとあった気がする。
体が止まったのは、谷底の苔むした岩の上だった。
空が見えた。曇り空。雲の切れ間から、薄い光。
口の中に、血と土の味。
さっき覚えたばかりの「土の味」を、もう二度目に味わっていることに、私は少しだけ笑ってしまった。
そして、視界の隅。
——一頭の、痩せた山羊が、私を見下ろしていた。
灰色の毛並み。片方の角が折れていて、目だけが妙に黒い。
その山羊は、首を傾げるように私を見て、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
まるで「お前もか」と、言ったように聞こえた。
意識が遠のいていく。
最後に聞こえたのは、山羊の鳴き声でも風の音でもなかった。
砂利を踏む、重い足音。
そして——低く、掠れた、男の声。
「……生きてるか」
私は、答えられなかった。
答えの代わりに、私の指が、ほんの少しだけ、動いた。




