第12話「魔力のない令嬢は、辺境で静かに国を見殺しにする」
春が、本当に来た。
畑には、私が秋に蒔いた豆の若芽が出ていた。あの十七粒のうち、十二粒が無事に芽吹いた。残りの五粒は、たぶん、土の中で別の何かになったのだろうとマルタ婆さんは言った。
ヤンは、もふと一緒に、村中を駆け回っていた。子山羊だったもふは、もう中山羊くらいの大きさになっていて、ヤンを乗せようとしてはバランスを崩して転んでいた。
マルタ婆さんは、新しい薬草の苗床を作っていた。今年は、もっと種類を増やすのだという。「あんたの手で育てれば、王都じゃなくても売れる場所が見つかるさ」と笑った。
老猟師の夫婦は、罠の修理をしていた。元鍛冶屋のおじいさんは、新しい鍬の柄を削っていた。
廃村は、廃村のままだった。
けれど、確かに、人が生きている村だった。
◇
ヨナスは、その日、いつもより早く畑を切り上げた。
「エルナ」
「はい」
「歩けるか」
「もちろん」
「少し、村の外まで出よう」
私は、外套を取って、ヨナスについていった。
村を出て、小さな丘を一つ越えた。その丘の向こうに、私の知らない場所があった。
——花畑だった。
名前も知らない、白と紫の小さな花が、丘の斜面一面に咲いていた。
「……これは」
「春になると、ここだけ咲く。誰も知らない場所だ。俺と、グレタしか、知らなかった」
ヨナスは、花畑の真ん中まで歩いていって、私を振り返った。
そして、外套の内側から、何かを取り出した。
小さな、木でできた、輪だった。
「金もない。宝石もない。魔法もかかっていない」
ヨナスの声は、いつもより少しだけ早口だった。緊張、というより、決意を逃がさないように喋っているようだった。
「ただの、楓の木だ。この村の、北の森で取れた木を、冬の間、削っていた。あんたが小屋で泣いていた夜、俺が外で削っていたのは、これだ」
私は、ヨナスの手のひらの上の、小さな木の輪を見ていた。
削り跡が、まだ少し荒い、不器用な作りの輪だった。
けれど、その輪の内側には、小さな、本当に小さな模様が彫られていた。
——蔦の模様だった。
私が、ヤンの袖口に刺繍したのと、同じ模様だった。
「あんたが、ヤンの服に刺繍してたのを、覚えてた」と、ヨナスは言った。
「……覚えていてくれたのですか」
「忘れる方が難しい」
ヨナスは、私の左手を取った。
「俺は、字も上手く読めない。畑と山羊しか、教えてやれない。あんたの育ちにふさわしい暮らしも、できない。——それでも、あんたを、ここで一緒に生かしてやりたい」
「……」
「俺の名前を、もう一度、呼んでくれるか」
私は、息を吸った。
雪解けの空気が、胸いっぱいに広がった。
春の風が、丘の上の花を揺らした。
「ヨナスさん」
私は、彼の名前を呼んだ。
「ヨナス」
私は、もう一度、今度は「さん」を付けずに、呼んだ。
「私に、ちょうどいいです」
ヨナスの手が、震えながら、その小さな木の輪を、私の左の薬指に通した。
ぴったり、ということはなかった。少し緩かった。けれど、抜け落ちるほどではなかった。
ヨナスの不器用さが、ちょうどいい不器用さで、私の指に収まっていた。
私は、その指輪を、もう一方の手で包んだ。
木は、温かかった。冬の間、ヨナスの手のひらの中で削られていた木は、人間の体温を覚えていた。
「……ヨナス」
「ああ」
「私、もう、王都の薔薇園の匂いを、思い出せないの」
「いいことだ」
「いいことなのですか」
「忘れていい匂いと、覚えていたい匂いは、別だ。あんたは、覚えていたい匂いを、これから増やしていけばいい」
ヨナスは、ぼそりと言って、私を、ほんの少しだけ、不器用に、抱き寄せた。
抱きしめる、というには遠かった。
けれど、彼の体温は、私の額に確かに伝わった。
薪と、土と、薬草の青い匂い。
——これが、私の覚えていたい匂いだった。
◇
その夜、村ではささやかな祝いの席が設けられた。
マルタ婆さんが「祝いだよ! 祝い! あたしは結婚式の準備が大好きなんだよ!」と勝手に決めて、村中の住人を呼び集めた。老猟師の夫婦が干し肉を出し、元鍛冶屋のおじいさんが秘蔵の果実酒を出した。ヤンは私に小さな花の冠を編んで持ってきた。
グレタは、相変わらず性悪な顔で、皆の輪の外で草を食んでいた。
もふは、ヤンの腰にくっついて、ヤンが食べるパンを横取りしようとして叱られていた。
マルタ婆さんが、私の前に立って、薬草茶を差し出した。
「お嬢さん。あんたが来てくれて、この村は、もう一度、村になったよ」
「マルタさん、それは——」
「あたしらは、あんたを拾ったんじゃない。あんたが、あたしらを拾ってくれたんだ」
私は、薬草茶の椀を、両手で包んだ。
青い匂いが、立ち上った。
一口、飲んだ。
春の薬草は、冬のものより、ずっと優しい味がした。
ヨナスが、少し離れた場所で、私を見ていた。
火のそばで、不器用な笑みを浮かべていた。
私は、その笑みに、もう一度笑い返した。
◇
王都はもうない。
公爵家もない。
婚約者だった男は、修道院の壁の中で、自分の信じた言葉に殺されていく。
継母は、屋敷を追われ、行方は誰も知らない。
——けれど、それは、私の物語ではない。
私の物語は、辺境にある。
廃村ヴェルデンの、小さな畑の隅にある。
山羊小屋の屋根の上にある。
ヨナスの不器用な木彫りの指輪の、楓の木目の中にある。
マルタ婆さんの薬草茶の、青い匂いの中にある。
ヤンの袖口の、白い刺繍の蔦の模様の中にある。
そして、誰かが私の名前を、ただの「エルナ」として呼んでくれる、その声の中にある。
魔力のない令嬢は、辺境で静かに国を見殺しにした。
そしてその手で、初めて自分のための春を、土から掘り起こしたのだった。




