第11話「国が、勝手に滅びました」
春が来た。
雪が解け、畑の土が顔を出し、グレタが小屋の扉に角を打ちつける朝の儀式が、また始まった。
私は、去年の春、まだこの村にいなかった。去年の春、私はまだ王都の薔薇園を歩いていた、あの「公爵令嬢エルナ」だった。
それから一年も経たないのに、私はもう、薔薇園の匂いを思い出せなくなっていた。
代わりに思い出すのは、薬草の青い匂いだった。
◇
親衛隊が去って二か月ほど経ったある日、村に新しい客が来た。
王国の親衛隊ではなかった。
北の隣国——シェルテン王国の伝令だった。
銀の鎧。青い外套。そして、肩に縫われた、見慣れぬ三日月の紋章。
「ヴェルデン領の代表者と、お会いしたい」
ヨナスが、村の代表として前に出た。
伝令の男は、ヨナスを見て、少し戸惑った顔をした。羊飼いの服装の男が、領の代表だと名乗ったのだから、無理もない。
「失礼ですが、貴公が領主代理で」
「廃領に領主はいない。村長代理だ。話を聞こう」
伝令の男は、姿勢を正して、巻物を取り出した。
「シェルテン王国王立伝令所より、ご報告申し上げる。——レギンファルド王国は、本年三月十七日をもって、内乱状態に陥り、四月二日に首都が陥落、王太子ディートヘルムは廃位、現在は北部のとある修道院にて幽閉中である」
私は、息を吸うのを忘れた。
マルタ婆さんが、薬草鎌を取り落とした。乾いた音が、雪解けの水たまりに響いた。
「魔力資源の枯渇により、王国の維持機能が崩壊。地方領主たちが王家を見限り、シェルテン王国に併合を申し出た結果、レギンファルド王国は消滅。本日より、旧レギンファルド領は全てシェルテン王国の北部新領となる」
伝令の男は、ヨナスに巻物を差し出した。
「ただし、辺境ヴェルデン領は、地理的に新領主の管轄から外れる。シェルテン王国は、ヴェルデン廃村に対して『自治集落』としての地位を認め、税は当面免除する。これは、貴公らへの正式な通知である」
ヨナスは、巻物を受け取った。
文字が読めない、と昔ヴァルター卿に告げた男は、いま、その巻物を、何度も、何度も見ていた。
◇
伝令が去った後、村人たちは集まって、しばらく言葉を失っていた。
マルタ婆さんが、最初に口を開いた。
「……国が、滅んだのかい」
「ああ」と、ヨナス。
「あたしらは、もう、レギンファルドの民じゃないのかい」
「シェルテン王国の自治集落、らしい」
「自治って、何だい」
「税を取られないってことだ」
「それは、ありがたいねえ」
マルタ婆さんは、それだけ言って、自分の小屋に戻っていった。
老猟師の夫婦も、元鍛冶屋のおじいさんも、それぞれ何も言わずに散っていった。
ヤンだけが、私のそばに残って、私の手を握っていた。
「ねえさん、国が滅んじゃったんだって」
「そうみたいね、ヤン」
「ねえさんの国だったの?」
「……ええ。私の生まれた国だったわ」
「悲しい?」
私は、ヤンの問いに、しばらく答えられなかった。
それから、正直に答えた。
「分からないの」
ヤンは、私の手を、もう一度ぎゅっと握った。
子どもの手の温度が、私の手のひらに伝わった。
◇
その夜、私は一人で井戸のそばに立っていた。
春の夜気は、冬よりも冷たく感じられることがある。雪が解けかけている分、空気の中に水が多くて、体に染み込むのだ。
私は、月を見上げていた。
私が王都の薔薇園で見ていたのと、同じ月のはずだった。
けれど、違う月のように見えた。
——殿下は、修道院に幽閉された。
ヴァルター卿の言葉を、私は思い出していた。「魔力なき者を娶るは家畜と寝るに等しい」と言ったあの方が、今は、自分自身が魔力を失った国で、修道院に幽閉されている。
思想の死、というものが、どういうものか、私には分からない。
けれど、おそらく、それは——人が、自分の信じてきた物差しが、自分自身を罰する瞬間を見ることなのだろうと思った。
殿下は、自分の口で「家畜」と呼んだその場所に、自分が降りていく日を、迎えた。
それを、私が望んだわけではない。私は、何もしなかった。
私はただ、辺境で薬草を摘み、山羊の乳を搾り、ヨナスのシャツを繕っていただけだ。
国は、勝手に滅びた。
私の手には、何の血も付いていない。
——けれど。
けれど私は、知っている。
私が辺境にいなかったら、王国はもう少しだけ持ちこたえていたのかもしれない。私が王都に戻っていたら、子どもたちは凍えなかったかもしれない。クルトの妹は、温かい風呂に入れたかもしれない。
私は、戻らない方を選んだ。
だから、私の手は、決して、白くはない。
「エルナ」
背後から、声がした。
ヨナスだった。彼は、私の隣に立った。何も言わずに、ただ、私と並んで月を見上げた。
「……ヨナスさん」
「ああ」
「私は、悪い人間でしょうか」
「悪くない」
「即答ですね」
「悩む必要がない」
ヨナスは、月を見たまま、続けた。
「あんたが王都に戻れば、王国は救われたかもしれない。それは、あんたを犠牲にするという意味だ。——犠牲にされるべき人間は、この世にはいない。だから、戻らないことは正しい」
「でも、子どもたちが」
「子どもを救うのは、子どもの親の仕事だ。あんたじゃない」
「……」
「あんたが背負わなくていいものを、あんたに背負わせようとした連中が悪い」
ヨナスの声は、低く、揺らぎがなかった。
「これで、誰もあんたを連れに来ない」
私は、月から目を離して、ヨナスの横顔を見た。
彼は、まだ月を見ていた。
灰色の目に、月が映っていた。
「はい」
私は、答えた。
それしか、答えようがなかった。




