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魔力のない令嬢は、辺境で静かに国を見殺しにする  作者: 九葉(くずは)


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第11話「国が、勝手に滅びました」

春が来た。


雪が解け、畑の土が顔を出し、グレタが小屋の扉に角を打ちつける朝の儀式が、また始まった。

私は、去年の春、まだこの村にいなかった。去年の春、私はまだ王都の薔薇園を歩いていた、あの「公爵令嬢エルナ」だった。

それから一年も経たないのに、私はもう、薔薇園の匂いを思い出せなくなっていた。

代わりに思い出すのは、薬草の青い匂いだった。



親衛隊が去って二か月ほど経ったある日、村に新しい客が来た。


王国の親衛隊ではなかった。

北の隣国——シェルテン王国の伝令だった。

銀の鎧。青い外套。そして、肩に縫われた、見慣れぬ三日月の紋章。


「ヴェルデン領の代表者と、お会いしたい」


ヨナスが、村の代表として前に出た。

伝令の男は、ヨナスを見て、少し戸惑った顔をした。羊飼いの服装の男が、領の代表だと名乗ったのだから、無理もない。


「失礼ですが、貴公が領主代理で」

「廃領に領主はいない。村長代理だ。話を聞こう」


伝令の男は、姿勢を正して、巻物を取り出した。


「シェルテン王国王立伝令所より、ご報告申し上げる。——レギンファルド王国は、本年三月十七日をもって、内乱状態に陥り、四月二日に首都が陥落、王太子ディートヘルムは廃位、現在は北部のとある修道院にて幽閉中である」


私は、息を吸うのを忘れた。

マルタ婆さんが、薬草鎌を取り落とした。乾いた音が、雪解けの水たまりに響いた。


「魔力資源の枯渇により、王国の維持機能が崩壊。地方領主たちが王家を見限り、シェルテン王国に併合を申し出た結果、レギンファルド王国は消滅。本日より、旧レギンファルド領は全てシェルテン王国の北部新領となる」


伝令の男は、ヨナスに巻物を差し出した。


「ただし、辺境ヴェルデン領は、地理的に新領主の管轄から外れる。シェルテン王国は、ヴェルデン廃村に対して『自治集落』としての地位を認め、税は当面免除する。これは、貴公らへの正式な通知である」


ヨナスは、巻物を受け取った。

文字が読めない、と昔ヴァルター卿に告げた男は、いま、その巻物を、何度も、何度も見ていた。



伝令が去った後、村人たちは集まって、しばらく言葉を失っていた。


マルタ婆さんが、最初に口を開いた。


「……国が、滅んだのかい」

「ああ」と、ヨナス。

「あたしらは、もう、レギンファルドの民じゃないのかい」

「シェルテン王国の自治集落、らしい」

「自治って、何だい」

「税を取られないってことだ」

「それは、ありがたいねえ」


マルタ婆さんは、それだけ言って、自分の小屋に戻っていった。

老猟師の夫婦も、元鍛冶屋のおじいさんも、それぞれ何も言わずに散っていった。

ヤンだけが、私のそばに残って、私の手を握っていた。


「ねえさん、国が滅んじゃったんだって」

「そうみたいね、ヤン」

「ねえさんの国だったの?」

「……ええ。私の生まれた国だったわ」

「悲しい?」


私は、ヤンの問いに、しばらく答えられなかった。

それから、正直に答えた。


「分からないの」


ヤンは、私の手を、もう一度ぎゅっと握った。

子どもの手の温度が、私の手のひらに伝わった。



その夜、私は一人で井戸のそばに立っていた。


春の夜気は、冬よりも冷たく感じられることがある。雪が解けかけている分、空気の中に水が多くて、体に染み込むのだ。

私は、月を見上げていた。

私が王都の薔薇園で見ていたのと、同じ月のはずだった。

けれど、違う月のように見えた。


——殿下は、修道院に幽閉された。


ヴァルター卿の言葉を、私は思い出していた。「魔力なき者を娶るは家畜と寝るに等しい」と言ったあの方が、今は、自分自身が魔力を失った国で、修道院に幽閉されている。

思想の死、というものが、どういうものか、私には分からない。

けれど、おそらく、それは——人が、自分の信じてきた物差しが、自分自身を罰する瞬間を見ることなのだろうと思った。


殿下は、自分の口で「家畜」と呼んだその場所に、自分が降りていく日を、迎えた。

それを、私が望んだわけではない。私は、何もしなかった。

私はただ、辺境で薬草を摘み、山羊の乳を搾り、ヨナスのシャツを繕っていただけだ。

国は、勝手に滅びた。

私の手には、何の血も付いていない。


——けれど。

けれど私は、知っている。

私が辺境にいなかったら、王国はもう少しだけ持ちこたえていたのかもしれない。私が王都に戻っていたら、子どもたちは凍えなかったかもしれない。クルトの妹は、温かい風呂に入れたかもしれない。

私は、戻らない方を選んだ。

だから、私の手は、決して、白くはない。


「エルナ」


背後から、声がした。

ヨナスだった。彼は、私の隣に立った。何も言わずに、ただ、私と並んで月を見上げた。


「……ヨナスさん」

「ああ」

「私は、悪い人間でしょうか」

「悪くない」

「即答ですね」

「悩む必要がない」


ヨナスは、月を見たまま、続けた。


「あんたが王都に戻れば、王国は救われたかもしれない。それは、あんたを犠牲にするという意味だ。——犠牲にされるべき人間は、この世にはいない。だから、戻らないことは正しい」

「でも、子どもたちが」

「子どもを救うのは、子どもの親の仕事だ。あんたじゃない」

「……」

「あんたが背負わなくていいものを、あんたに背負わせようとした連中が悪い」


ヨナスの声は、低く、揺らぎがなかった。


「これで、誰もあんたを連れに来ない」


私は、月から目を離して、ヨナスの横顔を見た。

彼は、まだ月を見ていた。

灰色の目に、月が映っていた。


「はい」


私は、答えた。

それしか、答えようがなかった。

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