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魔力のない令嬢は、辺境で静かに国を見殺しにする  作者: 九葉(くずは)


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10/12

第10話「家畜にも、断る口があります」

ヴァルター卿が去ってから、十一日が過ぎた。


雪は深くなり、村は白い静寂に沈んでいた。

私は、毎朝畑に出ることはできなくなった。代わりに、小屋の中で薬草の選別をした。マルタ婆さんに教わりながら、葉の状態、香りの強さ、乾燥の具合を一袋ずつ見分けていく。

ヨナスは、毎朝、村の入口に立った。

一人で、ただ立った。雪の中、灰色の外套を羽織って、地平線の向こうを見ていた。

私は、何も言わなかった。彼が何のためにそうしているのか、訊くまでもなかった。



十二日目の昼過ぎ、馬の足音が聞こえた。


一頭ではなかった。複数。

私は薬草の袋を置いて、戸口へ向かった。


「エルナ、出るな」


ヨナスの声が、戸の外から飛んできた。


「いいえ。出ます」

「エルナ」

「これは、私の話です」


私は、外套を羽織って、戸を開けた。

雪の村の中央に、騎馬の一団が止まっていた。先頭にヴァルター卿。その後ろに、十二騎の親衛隊。

親衛隊長の言葉は嘘ではなかった。彼は、本当に兵を連れて戻ってきた。


しかし——その十二騎の兵士たちは、どこか様子がおかしかった。

馬は痩せていた。鎧の金具に光るはずの魔力の輝きがなかった。一人の兵士の腰に下がった魔導剣は、鞘から抜かれているにもかかわらず、刃が鈍く曇っていた。


——魔力が、足りていない。


王宮直属の親衛隊の装備でさえ、この有様なのだ。

王都の状況が、私の想像よりも遥かに悪いことを、私はその一目で悟った。


「エルナ様」


ヴァルター卿が、馬上から礼をした。


「再びのご無礼、お許しください。これが、最後のお願いとなります」


ヨナスが、私とヴァルター卿の間に立った。

けれどヴァルター卿は、ヨナスに目を向けなかった。彼は、ヨナスの肩越しに、私だけを見ていた。


「王都は、限界にございます」


彼の声は、震えていた。


「井戸は涸れ、魔導灯は消え、貴族の屋敷は灯火管制を敷いております。王宮の地下魔力炉は、出力が三割を切りました。あと一月持つか持たぬか、というところでございます」

「……」

「子どもたちが、凍えております」


私の心臓が、一度だけ、強く鳴った。


「魔力に頼った暖房しか持たぬ家の子どもが、薪の使い方を知らぬまま、凍えております。年寄りが、魔力切れの井戸の代わりに雪を溶かして飲み、腹を壊しております。——これは、王太子の罪ではございません。我ら王国全体の、千年の怠慢の結末でございます」

「卿は、それを私に背負わせるおつもりですか」

「いいえ」


ヴァルター卿は、首を振った。

そして、もう一度、馬を降りた。雪の上に、片膝をついた。

親衛隊長の鎧が、雪に沈む音がした。


「私は、エルナ様にお詫びを申し上げに参ったのです」


——え、と私は声に出さずに呟いた。


「兵を連れてまいったのは、殿下のご命令でございます。しかし、私個人の使命は別にございます。私は、エルナ様に、お詫び申し上げねばならぬのです」

「……何を、ですか」

「あの大広間、あの婚約破棄の日。私は、護衛として広間の隅に立っておりました。殿下のお言葉を、聞いておりました。『家畜と寝るに等しい』と。——私はあの時、何も申し上げませんでした」


ヴァルター卿の声は、もう、震えていなかった。

ただ、深く、低かった。


「私は王命に従う者です。殿下のお言葉を遮る権限は、私にはございません。それは正しい。しかし、——後日、あの場面を思い返すたびに、私は、自分の沈黙が、あの時の殿下の言葉と同罪であったことを、知りました」


雪が、彼の肩に積もり始めていた。


「私は親衛隊長として、エルナ様を王都にお連れする任を帯びております。しかし、私個人としては、エルナ様にこう申し上げたいのです。——どうか、お戻りにならないでいただきたい」


私は、息を止めた。


「お戻りになっても、エルナ様の体質を理由に、王国はエルナ様を『道具』として扱うでしょう。聖女と呼びながら、檻に入れるでしょう。私は、それを見たくないのです。——あの大広間で沈黙した私の、せめてもの償いとして」


ヴァルター卿は、雪の上で、深く頭を下げた。

親衛隊長が、罪人のように頭を下げていた。

私の足元の雪の上に。



私は、しばらく動けなかった。

動けないまま、ヨナスを見た。

ヨナスは、私を見ていた。何も言わずに。けれど、その灰色の目が、——私が何を選んでも、自分はそれを支えるという意思を、声よりも明確に告げていた。


私は、ヴァルター卿の前に進み出た。

彼の前で、自分も雪の上に、片膝をついた。

親衛隊長が顔を上げた。驚いていた。


「ヴァルター卿。お顔を上げてください」

「エルナ様」

「私からも、お返ししなければならないことがあります」


私は、自分の声が、不思議なほど落ち着いていることに、自分で驚いていた。


「あの大広間で、私を『家畜』と呼んだ殿下のお言葉に、私は何も言い返しませんでした。それは、貴族令嬢として正しい振る舞いでした。——しかし、あの場で私は、自分自身を裏切っていたのです。私は、あの時、怒るべきだったのです」

「……」

「あなたが沈黙の罪を背負っておられるなら、私もまた、自分への沈黙の罪を背負っております。だから、私たちは、お互いに頭を下げる必要はありません」


私は、ヴァルター卿の手を取った。

騎士の手だった。剣の柄で固くなった手。


「卿。一つだけ、お願いがあります」


「何なりと」

「王都にお戻りになったら、私が言ったとお伝えください。——『家畜にも、断る口があります』と」


ヴァルター卿の目に、初めて、人間的な何かが宿った。

微笑のようなものだった。


「しかと、お伝えいたします」



親衛隊は、その日、村に一泊することを許された。

ヨナスが許したのではない。私が許した。

マルタ婆さんが薬草茶を振る舞い、老猟師の夫婦が干し肉を分けた。兵士たちは、最初は警戒していたけれど、やがて、村の暖炉のそばで、何年ぶりかの温かい食事に、ほとんど涙ぐむようにして食べていた。


一人の若い兵士が、私のそばに来て、深く頭を下げた。


「エルナ様。——私は、王都生まれです。両親と、まだ幼い妹がおります。妹は、もう十日も、温かい風呂に入っておりません」


私は、その兵士の手を取った。


「卿のお名前は」

「クルト、と申します」

「クルト。お持ち帰りなさい」


私は、薬草茶の袋を、彼の手に押し付けた。


「これは、お薬ではありません。けれど、温かい湯で淹れて、家族で飲んでいただければ、ほんの少しだけ、心が温まります。それしか、私には差し上げられません」


クルトは、薬草茶の袋を、騎士の宝物のように両手で受け取って、頭を下げた。

何度も、何度も。



親衛隊が去った後の夜、私は小屋の暖炉の前で、ヨナスと向き合っていた。


「ヨナスさん」

「ああ」

「私は、選びました。ここにいます」

「ああ」

「でも、王都の子どもたちのことは、忘れたくはないのです」

「……」

「私には、王国を救う力はありません。私の体質が本当にそんな影響を持つのか、私自身、分かりません。けれど、薬草を育てることは、できます。茶を作ることはできます。それを、王都に届けることは、できます」


ヨナスは、しばらく沈黙していた。

それから、ぽつりと言った。


「あんたは、優しいな」

「優しい、のでしょうか」

「優しい人間しか、自分を捨てた相手の子どもを心配しない」

「……」

「俺は、優しくない。あんたが頷いた瞬間、俺は王都の子どもを見殺しにする側に立った」


ヨナスは、暖炉の火を見つめていた。

灰色の目に、火が映っていた。


「でも、それでいい。俺は、あんたを失わない方を選ぶ。——王都の子どもたちには、すまない」

「ヨナスさん」

「悪役らしくていいだろう。これで」


ヨナスが、初めて、本当の意味で、笑った。

唇の端を歪めた、不器用な、けれど確かな笑みだった。


私は、その笑みを、生涯忘れないだろうと思った。

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