第1話「家畜にも、名前があります」
大広間の天井は、いつ見ても遠かった。
まるで神の住まう場所だと、幼い頃の私は本気で信じていた。あの天井から金色の光が降ってきて、選ばれた者の頭の上にだけ、ふわりと留まるのだと。
——魔力という名の、神の祝福が。
けれど今、その天井の下で私の手のひらは、冷たい水晶の上にただ置かれているだけだった。
「……反応、なし」
試官の声が震えている。気の毒に、と私は他人事のように思った。十九年生きてきて、私は知っている。人は、自分の手で誰かを終わらせる時、まずその声から壊れていくのだと。
「もう一度だ。もう一度測れ」
苛立たしげに告げたのは、私の婚約者——王太子ディートヘルム殿下だった。
銀の髪に、氷のような目。完璧な貴族の見本のような彼が、今は唇の端を歪めて笑っている。
その笑みの意味を、私は知っていた。期待していたのだ。この測定で、私の魔力が完全な「ゼロ」だと証明されることを。
二度目の測定。
水晶は、何の色も帯びなかった。
「やはりか」
ディートヘルム殿下の声に、隠しきれない歓喜が滲んだ。
私は静かに手を下ろし、両膝を揃え、ドレスの裾を持ち上げて深く一礼する。淑女の礼。十二年の家庭教師の鞭で覚えた角度。
顔を上げると、広間の貴族たちの視線が一斉に私に突き刺さった。憐憫、嘲笑、そして何より——安堵。
(ああ、リヒテンベルク公爵家の長女が「家畜」で、本当に良かった)
そう言っている目だった。私たちの娘でなくて良かった、と。
「エルナ・フォン・リヒテンベルク」
殿下の声が、広間に響く。
「我がレギンファルド王国は、魔力なき者を貴族と認めない。これは法ではなく、神の定めである。よって貴公との婚約を、ここに破棄する」
知っていた。
「のみならず、貴公はリヒテンベルク公爵家からも除籍される。家名も、爵位も、本日この瞬間より、貴公のものではない」
知っていた。
「魔力なき者を娶るは、家畜と寝るに等しい。私はそのような屈辱を受ける道理がない」
——家畜。
その言葉だけが、不思議と耳の奥に残った。怒りでも悲しみでもなく、ただ、ああこの方は本気でそう信じているのだな、という観察だけが、私の中に静かに記録されていく。
殿下にとって、魔力なき者は人ですらない。それは彼の悪意ではなく、彼が受けてきた教育の結論だった。
だから私は、今夜、この方を恨むことすらできないのだろうと思った。
視界の端で、継母ジークリンデが扇の影から微笑んでいた。
——ようやく終わったわね。
彼女の唇が、そう動いたのが見えた。
「ご決定、承知いたしました」
私の声は、自分でも驚くほど凪いでいた。
「ただ一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
殿下が片眉を上げる。許す、というより、面白がる目で。
「家畜にも、名前がございます」
広間が、しんと静まり返った。
「グレタ、ベルタ、フリッツ。村の山羊や牛にも、農夫は名前を付けます。家畜は、名で呼ばれて初めて家畜となるのです。——殿下が今お呼びくださった『エルナ』という名を、私は最後の祝福として、頂いて参ります」
私はもう一度、深く礼をした。
顔を上げる必要は、もうなかった。
引きずられるように広間を出る時、私の背中に投げかけられた殿下の言葉は、こうだった。
「家畜の行き先は、辺境ヴェルデン領と決まっている。野垂れ死にも、王国への最後の貢献となろう」
——辺境ヴェルデン。
地図の端、魔獣の領域と接する廃領。
私は心の中で、ようやく息を吐いた。
(王都から、できるだけ遠い場所がいい)
そう願っていた自分に、初めて気付いた夜だった。




