第18話 水面に跳ねる
管理された水の匂いが、私の鼻を優しく撫でた。白端の廃漁港から漂う強い磯の香りとは根本的に違う香り。
そして薄暗い空間の中、光を反射する水槽はどこか幻想的なものだった。ガラス一枚隔てたそこには、人はいられぬ魚の世界が広がっている。
「目ぇ輝かせちゃって。水族館に来るのは初めて?」
「初めてじゃないよ。たださほど興味があったわけでもないから、大きくなってからはなかなかね」
そう言いながら、視線を朝倉さんの方に戻した。名前だけは聞いたことのある魚から、名前すらも初めて聞くような魚まで。私の知らない世界が、ただ一つの施設にこれだけ詰まっている。
まるで宇宙だと、そう思った。水は青く、暗く輝き、夜空に浮かぶ星のように水生生物が気持ち良さそうに泳いでいる。喰い喰われる者達が、ここでは仕切られた自由の中で確かに生きていた。
「朝倉さんは水族館には来るの? あまりそういうイメージもないけど」
ゆっくりと足を進めながら、今度は私が質問を返した。わざわざ来たがったということは、よく来るというわけでもないのだろう。そして来たがったということはつまり、相応の思い入れか何かがあるのかと思うのだが。
「好きなんだよ、魚」
「へぇ……そりゃまたどうして?」
「美味しいじゃん」
「あ、食べ物としてね」
彼女の斜め上の……いや、ある意味ストレートな答えに笑いつつも、妙に納得してしまった自分がいた。というのも、何事もきっかけというものは些細なものだったりするからだ。理由があることはイコール正義というわけでもない。
私達はただ飄々と、ただ足の赴くままに水族館を回った。海流に流されるプランクトンのように、あるいは流木のように。その動きに意味はなかった。
「あ、見て! 矢田くん! チンアナゴだ!」
「お……よく写真とかで見るまんまだ」
そのまま進もうとする私の腕を、彼女はグイッと引き留めた。何事かと思って指差す方を覗いてみると、なるほど。食べられるのかどうかは知らないけれど、極めて有名な魚がそこにはいた。
「チンアナゴの下半身ってウニみたいになってるらしいよ。針みたいなので身体を地中に固定してるんだって」
「えっ、そうなの? 矢田くん詳しいね」
「あ、ごめん。普通に嘘です」
「嘘かい」
肩を落としつつも楽しんでくれている彼女を視界の隅に捉えつつ、ふと説明文が目に入った。英名はガーデン・イール、つまり『庭園のうなぎ』というらしい。由来については書かれていないが、なんともおかしな名前だな。
「なんか面白いね、水族館って。何が面白いのかは不思議だけど……なんか、ね」
チンアナゴの水槽を離れ、唐突に彼女はそんなことを零した。私としても分からないことでもない。スポーツみたいな劇的な何があるわけでもないのに……それでも娯楽というと少し違う気もするけれど、私達の空間には今、静かな興奮があった。
「確かに、“楽しい”とは違うけど、気分が良いのかな。リラックスできるというかなんというか」
「チルだよ」
「あんま分かんないけど」
水族館の構造はよく分からないもので、人の流れに任せるしかできなかった。もっとも、朝倉さんはそれなりに案内図を読めていたのでさほど困ることもなかったが。
私は昔から見知らぬ地では右も左も分からなくなるタイプだが、閉鎖空間だと余計に迷子になってしまうのだと思い知った。となると私一人で水族館に来ることはないだろうな。
「あ、イルカのショーだってさ! これだけ見て行こうよ!」
「へぇ、イルカか。いいじゃん。行こう、行こう」
暗い空間は次第に光を取り込み、いつしか明るく大きな空間に変わった。腰を下ろして、視線を向ける。愛らしい灰色の生き物と、飼育員らしき人物がポツンとそこにいた。
「イルカって頭良いらしいじゃん? なんか言葉とかも使うんだって」
「あぁ、なんか……キュイッて感じのアレでしょ?」
「あははっ! なんか下手!」
別に真似をしたつもりはないんだけど、とそんな無粋なことを言うつもりはない。私は無自覚に口角を上げながら彼女を視界の隅に置いた。ショーを見て喜ぶなんて、人間のエゴだとは思う。それでもまぁ、いいじゃないか、エゴで。
「はぁ……スゴいね、イルカって。可愛いし、あんなに跳ねて……可愛いし」
「ははっ、ショーである必要もなかったかな」
そんなことを言うけれど、彼女が子どものように目を輝かせるのを見ると、ここに来た甲斐もあったものだなと思える。結局のところ、私が求めるのは巨大水槽でもイルカでもなく、それだったんだなと。
イルカが水面を跳ね、人を乗せ、そして広い水中を泳ぎ回る。当然だけれど、人間にはとても真似できないことを苦もなくやってみせた。灰色に輝く特徴的な肌は、確かに優雅で愛らしい。
「いやぁ〜いいもん見たな」
「生で見ると違うね、やっぱ」
私は中途半端に固まった背を伸ばし、潰れかけた声を放った。思いの外、上擦ってしまった声に内心驚きつつ、動揺は見せずにすぐさま姿勢を直した。
「他は何か…-見たいものは?」
「うーん……特にはないかな。もう堪能したよ」
「じゃあ最後にお土産でも買おう。ペンギンのぬいぐるみ買ってあげるよ」
いいの? と、やや食い気味な問いを軽く流しながら席を離れた。今度は私が前に立ち、彼女を導く。今回ばかりは、私も道に迷うことはなかった。それはきっと、私の心が密かに跳ねていたからだ。




