第17話 老猫は膝に夢につく
夏になってからというもの、私は白端駅に足を運ぶ機会が多くなった。遠出することがやや多くなった、ということもあるのだが、何かと待ち合わせの場所として都合が良かったのだ。
私としても待ち合わせ場所としてこれ以上の場はないとは思っていたが、夏の真下ではその考えも改めた方がいいのではないかとも思う。
「お、おーい。こっちだよ!」
「おはよう。なんか……今日はいつもより早くない?」
「久しぶりだから張り切っちゃった」
顔を傾けて笑う朝倉さんの表情は、この日差しよりもずっと眩しく見えた。4日か5日か、彼女と会わなかったのはそれくらいだった。その間も日記を取っていたけれど、時間がやけに長く感じたのはそのせいもあるだろうか。
「ほら、今日は水族館と映画も観に行くんでしょ? のんびりしてらんないよ」
「あっ、ちょっ」
私の返事を待たず……いや、有無を言わさずに引っ張る手の力は、私でも振り切れないほどに力強く頑固なものだった。影を並べながら、よくこの暑さに負けないなと感心してしまう。
私も無気力ではない……というか、これでもずっと楽しみにしていたというのに、彼女の手には敵わない。これが運動部と帰宅部の持つエネルギーの違いなのか。
「あ、そうだ。お盆はどうだった?」
「ん? あぁ」
電車に一定のリズムで揺られながら、その静寂に飽きたのか、彼女は尋ねてきた。前数日、世間一般にはお盆と呼ばれる期間だったらしい。全くと言っていいほど気にしていなかったが、思えばそうだったか。
「帰省はしたよ。じいちゃんに会いに」
「へぇ、おじいさんはどこ住みなの?」
「京都の山の方にね。もうヨボヨボだけど、ネコがいるからかな。元気だったよ」
「ネコちゃんか! 良かったね!」
明るい声が、静かに電車内を包んだ。父さんが車を走らせて何時間か、1年ぶりに会った祖父の姿はどこか寂しかったが、もう歳だからとさほど悲しくはならなかった。十分に生きて、満足していそうな顔をいつも見せてくれたから。
祖父の膝に乗った老猫もすっかり眠ってばかりになっていたけれど、あの子もたぶん、その生をまっとうできるだろう。わがままを言うならば祖父が生きている間は支えていて欲しいと思いつつ、あの子にも主人を失ってほしくはない。
どちらが先に天に昇るのか、考えたくはないけれど現実的な問題であって、私がそのどちらかを願うことはできない。叶うことなら同じようなタイミングで、とは思うが、なかなかそうもいかないだろう。
いずれか一方は取り残されてしまうのが現実だ。祖母が愛していたはずの祖父を残して逝ってしまったように、現実は人の情をいつも無視してしまう。
「朝倉さんも、どこか行ってたんじゃないの?」
「うん。私が生まれる前にポックリ逝ったおじいちゃんに線香上げてきたよ」
「反応に困るって……」
「ははっ、気にしなくていいのに。可愛い孫にいじられておじいちゃんもきっと笑ってるよ」
しみじみしてても変わらないよと、彼女の理屈は理解できるけれど。それはそれとして他人の私が笑える話でもない。そしてそれを理解した上で、朝倉さんはあえて意地悪な言い方をしているんだ。
「お盆ってさ、死んだ人の魂をお迎えする行事らしいね。私あんまり詳しくないけど」
そんな言葉でしみじみとした空気を作ったのは意図的なものか、あるいは……。電車内は冷房が汗を冷やすからまだマシだが、夏場にこんな気分になるものでもない。
「私が死んだら毎年矢田くんに会いに行ってあげよっか?」
「っ……んな縁起でもない」
「いつまでもうじうじしてたって仕方ないよ。何ならハッピーな方が長生きするもんだからね」
朝倉さんの言葉の、どこからどこまでが強がりなのか、やはり私には分からない。彼女の話は一理あるけれど、それは理屈でしかないのだから、必ず思うところはあるだろう。それでも私にできるのは、それも全て包み込むことだけなんだ。
「……でも、お盆に帰ってくるのって先祖の霊らしいよ」
「えっ……。ってことは私は矢田くんのご先祖様……?」
「順序が違うだろ」
天然なのか、わざとなのか。彼女に元気を貰っているのは間違いなく私だった。溢れんばかりの、底無しの元気。だからこそ、私は彼女の受け皿になりたい。
「僕が言えることなんてそんなないけどさ、無理はしないでよ。前にも言ったけど、何も僕は無理する君を見たいわけじゃ……」
「辛気臭いなぁ、もう。話題ミスったかな。……無理なんてしないよ。矢田くんの前なら、私はちゃんと泣けるもん」
「……っ」
彼女のその一言は、私の疑念を払うには十分すぎるものだった。そうだ、彼女は私が思っているよりもずっと強い。弱い一面はあるけれど、私では計りきれないくらいに。
けれど彼女は、彼女自身の弱さをちゃんと理解できている。そして私の器の形も、彼女は理解している。
だから私がするべきことは、彼女の涙を受け止めることで、彼女の笑顔を共有することだ。それが私と朝倉さんの関係であって、私の役割。それをやっと理解できた。
「もう、難しい顔して。ほら、もう着くよ」
「う、うん」
この前とは逆の立場。元気に漲っている朝倉さんが、どこか疲れたような私の手を引っ張ってホームに降ろす。私はそれに逆らわず、ただ彼女を受け入れる。
不甲斐ない、そう思わないこともないけれど、これが私だ。私が手を引っ張るのは、帰り道の、彼女が疲れたときだから。
「ほら、行くよ。急げば並ばなくてもいいかもしれないから!」
苦しい空の下、私達は肩を並べて水族館に向かった。汗が熱く、身体も熱い。ただその熱さが、確かな証でもあった。




