第16話 日没し月出づる
「はぁ〜……楽しかったね!」
「はい! また誘ってください!」
白端駅より3駅ほど手前、古澤と花井さんと、手を振って別れた。丸一日、日の光に監視されて、気力も体力もすっかり残ってはいない。電車の席が空いているのが唯一の救いだった。
ガタゴトと揺れる電車の音、揺り籠のように深い眠りに誘おうとしてくる。背を伸ばし、視線を少しだけ上げてそれに逆らった。
「楽しかったね、ほんと」
電車の揺れに合わせるように首を振っていた朝倉さんが、目を瞑ってそんなことを言った。無邪気さの中、垂れた前髪に隠されているその儚さに、胸の奥がチクリと痛んだ。
「なんてことないことだけど……来て良かったなって思うよ」
「なら良かったよ」
無理に彼女の意識を留めようとはせず、短く柔らかい声で応答した。“なんてことない”……そう、本当になんてことのないことだ。願えばいつでも実行できるような、そんな程度の。
「眠たくなるほど遊んで……疲れるくらいにたくさん食べて。贅沢だったね」
「贅沢じゃないよ。……でも、そう思ってくれたならそうなんだろうね」
彼女のふわふわと浮くような、話せば存在ごとどこかへ行ってしまいそうな柔らかい声。それはいつしか規則的に発せられる寝息に変わった。少し、ほんの少しだけ上がった口角を見ると、本当に幸せだったんだなと安心できた。
静かになった朝倉さんの隣で、私は扉の上の案内表示を見つめていた。その向こうには空を赤く照らす光が薄っすらと見える。
頭が重い。肩と、背中も重い。それが苦でもないのが、我ながら不思議な気分だ。幸福に起因する痛みと疲労、それは初めて経験するものだった。
「朝倉さん……もうすぐ着くよ」
「ん……早いね……」
白端駅の手前、アナウンスが聞こえてから彼女の肩を揺すった。重そうな瞼を擦り、立ち上がろうとする様子がどこか危なっかしい。
「疲れたでしょ。よかったらそれ、持つよ」
「うん……お願い」
私は朝倉さんの手荷物を受け取り、駅のホームに降りた。外から聞く電車の音は内から聞くそれよりもよっぽどうるさく、よっぽど寂しかった。下校時と同じような赤い空でも、今はそれが特別に見えた。
「ねぇ、朝倉さん。家まで送ろうか? そんな状態じゃ帰るのも大変でしょ?」
少し浮いていて覚束ない彼女の足取り、私はどこか危うさを感じていた。どこかで転んでしまわないか、ベンチに座ってそのまま眠ってしまわないか、と。私が隣に立っていれば、少なくとも危うい目には遭わないだろう。
「家……? ありがたいけど……そこそこ歩くよ?」
「だからこそだよ。帰りに何かあっても困るし」
「ん……そっか……」
朝倉さんから受け取っていた荷物を返さないまま、私は歩みを進めた。重い瞬きをする綺麗な横顔を眺めながら、周りに危険がないか、注意深く視線を回す。歩行者も少なく、歩道を走る自転車も見当たらないから、しばらくは大丈夫そうだ。
「今日は本当に疲れたね」
「うん」
「楽しかったね」
「……うん」
確かに満たされていて、そして同時に少し寂しそうな声色だった。気持ちは分からないこともない。今日が終わってしまうのだ。私もあの時間は、いつまでも続いてほしいと思えた。彼女にとっては特にそうだったろう。
しかしやはり、彼女の疲労は限界まで来ているようだった。もはや自分がさっきまで、何を話していたのかすら記憶にないような、そんな幼さが垣間見える。私が視線を外せば、今すぐにでも寝転がってしまいそうな……。
「ありがとね、送ってくれて。荷物も持ってくれてさ」
「ん? あぁ、ここがか」
手にぶら下がっていた重みが消え失せ、代わりに私は顔を上げた。黒を基調とした落ち着いた雰囲気の一軒家。朝倉さんはここに住んでいるのか。彼女のイメージには合っているようで、どこかズレているようにも感じる。
「ねぇ、矢田くん。私、本当に楽しかったんだ。ありがとう。あんなに楽しいのは初めてだったよ」
「それは良かった」
本当に……本当に良かった。外から見ても楽しんでいるようには見えたけれど、心のどこかで退屈さを感じていたらどうしようかと、心配で仕方なかった。
「またね」
「うん、よく休んでね」
重そうな扉に消えていく朝倉さんを確認し、私は向きを変えた。空はすっかり薄暗く、月が黄色に輝いて見えた。
やって来た道を戻り、駅を越え、家に帰る。帰ったら風呂にでも入って、夕食を食べたらすぐに寝てしまおう。
けれど次第に脚が重くなっているのを感じ、致し方なく近くの公園のベンチに腰を落とした。朝倉さんの前だったから無意識に強がっていたからか、急に疲労の波が私の身体の自由を飲み込んでしまった。
「はぁ……」
ベンチの上で深く息を落とし、視線を薄暗い空に移した。歩き出そうと思えない。ここで少し寝て、気力を戻した方が良いだろうか。
いや、それはダメだ。朝倉さんにああ言った私が、“疲れたから”という理由で甘えるわけにはいかない。
「うっ……はっ」
欠伸の混ざった吐息とともに、私は再び膝を起こした。すでに体力には限界が来ている。目の前にベッドがあれば、私はすぐに夢の世界に落ちてしまうだろう。ならば私は、自らの脚でベッドの前に行くべきだ。
夕暮れの細波を聴きながら、苦しい足取りで家に向かった。太ももが重く、土踏まずが痛む。一刻も早く身体を沈めたい。それでも心地良さがあるのだから、人間の心と肉体はおかしなものだと、そう思ったことを覚えている。




