第11話 苺のクレープ
「じゃあ、何かあったら連絡させてもらいますね!」
「またね! 凛ちゃん!」
赤い空の下、花井さんの姿はだんだんと遠ざかり、いつしか薄い闇の中に消えていった。私と朝倉さんは手を振って彼女を見送った。
「気持ちのいい人だね」
「そうなんだよね。プレイは豪快なんだけど、話すとイメージと違うからさ。最初は私も意外だったよ」
表面は輝いて見えるけれど、色眼鏡を外してしまえばその本質はどこまでも普通。その点、彼女と朝倉さんは似たような人だった。
「さ、私達も帰ってクレープ屋さんに行こう!」
「そうだね。まぁゆっくり行こっか」
カラスか何かの鳴き声が喧騒の響く帰り道に目立っていた。斜めに差さった光が長身の影を落とす。
帰りの電車は、来たときよりもずっと短く感じた。緊張感が失われたせいか、それとも隣にいる朝倉さんと話していられるからかは分からない。……きっと両方だろう。
「あ、美味しいね」
「でしょ? クレープ食べるのは初めて?」
「まぁ……あんまり機会がないからね」
一緒にスイーツを食べに来るような友人はいなかったし、1人で楽しむほどの興味もなかった。けれど、ジューシーで甘酸っぱい苺とチョコの甘さ、それを包み込むような生クリームの完成された味を体験すると、私は損な人生を送っていたのだなと思う。
「僕って甘党だったんだなって思うよ。でもたくさんは食えないな。流石に重いや」
「そもそも何個も食べるものじゃないよ」
朝倉さんはそう言いながら口端に付いたクリームを指で拭った。彼女の軽やかな笑顔が重たいクレープと絶妙なバランスを作っていた。
「……これからのことを確認しようか」
「これからのこと?」
「簡単なスケジュールだよ」
首を傾げる彼女を見ながら、私はスマートフォンを取り出した。学校から送られている年間行事予定表を見せ、順番に指し示す。詳細ではないし、場合によっては変更もするだろうけど、おおよその参考にはなる。
「まず再来週、中間試験だね。それが終わればすぐに夏休みだよ」
「試験か……嫌だな」
朝倉さんならさほど困ることでもないだろうに、と思いつつクレープを一口齧った。少し重たい心が、この重さによって和らぐような気がする。
「今さら私が勉強する必要ってあるのかな?」
「……」
彼女の核心を突くような言葉に、私は一瞬止まった。先の短い彼女にとって、勉強とはさほど重要なことではないのかもしれない。そんなことに時間を割くより、好きなように時間を使いたいと、そう思うのはある種当然なことだろう。
「必要があるかと聞かれれば、ないのかもしれない。だから君が嫌だって言うなら僕はどうもしないよ」
勉強とは言ってしまえば未来への投資だ。将来困らないように、あるいは多くの選択肢を作れるように。それが勉強だ。
「でも君が今まで築いてきたものもあるでしょ? それはもしかしたら……仮面だったのかもしれないけどさ、それでも完全に捨てちゃうのはなんか勿体なくない?」
上手く言語化できるほど、私はしっかりとした意見へ持っていなかった。学力が彼女が表向きの“朝倉春奈”を演じるための武器だったとして、それを捨てることが良いのか悪いのかは分からなかった。
「矢田くんは試験勉強はした方がいいと思う?」
「なんとも言えない。けど、頑張って学年一位を取ってきたのは事実でしょ? それは別にどんな理由だとしても、悪いことじゃないって話。ステータスってのも別に悪いものじゃない」
彼女の努力が無駄だとは思いたくないし、思ってもない。それはそれとして、これからも頑張ってほしいと思うわけでもない。頑張らないでほしいと思うわけでもない。
「……だったらもうちょっとだけ、勉強はしようかな。代わりに終わったら、夏休みはいっぱい遊ぼうね」
「うん。そうだね。そうしよう」
クリームとチョコが曖昧に混ざっていたけれど、味は確かにクリームとチョコで存在していた。混ざりつつも、混ざりきってはいなかった。
「ふぅ……よし! じゃあお会計に……」
「今日はお疲れさま会だから、僕が奢るよ」
財布を開こうとする彼女の先に回るように、私は荷物を抱えて立ち上がった。朝倉さんは、選手達は私に色んな熱を見せてくれた。そのお礼もしたい。
「え、いや、自分の分は出すって。私が行くって言ったんだし」
「いいんだって。貰いっぱなしは居心地が悪いから」
「え、なんかあげたっけ?」
たくさん貰ったよ。私は彼女が席を離れるよりも先に会計に向かった。朝倉さんは“何を?”と詰め寄ってきたけれど、それをやんわりと受け流しつつ店を出た。
外はすっかり日が落ちて、紫色に落ちていた。これから次第に紺色に、そして真っ暗闇に変わるだろう。心の内を伝えるのは、闇に変わる少し前でいい。だから今は、まだいい。
「気をつけて帰るんだよ。暗いから足元に気をつけて、疲れもあるだろうから転ばないように……」
「親か、君は」
優しい声のツッコミをしたと思ったら、彼女はすぐに向きを変えた。一歩、また一歩と家に向かって歩き出す。不思議と彼女の脚からは疲れが見えなかった。
またね、響かない声でそう残して私も帰路についた。薄暗闇の小さな通り、街灯の灯りの下を確認しながら丁寧に歩く。
「またね」
背後の暗闇から、そんな返事が聞こえたような気がした。




