第10話 明るい声
「たはーっ! 負けちゃったね!」
「……なんか思ってた反応と違って安心したよ」
少し赤みがかった空の下、コートを後にした朝倉さんと、帰路につきながら話していた。試合からそれなりの時間は経ったわけだが、それはそれとして予想とは違った反応だ。
「あんまり聞くのもなんだけと……悔しくはないの?」
「悔しいよ。でも悔いはないかな」
「そっか」
彼女の表情からは、確かに清々しさが感じられた。思うところはあるだろうけれど、きっと満足はできたのだろう。ならいい。私が口を出すようなことではない。
「今日で部活は最後なんでしょ? せっかくなんだし、そっちと一緒に帰らなくていいの?」
「挨拶は簡単に済ませてきたから大丈夫だよ。親が迎えに来てるって言って抜け出しちゃったしね」
何も嘘をつく必要はないだろうに、そんな言葉は心に留めた。夕飯の準備でもしているのか、どこからか煮物の香りがする。
「なんかお腹空いたね。矢田くん、あれ行こうよ。あのぉ……クレープ!」
「……疲れてないの?」
「身体を労うんだよ」
疲れを知らないのか、彼女はいつも通りのハキハキとした、そして輝くような声で話した。私は日光に晒されただけで疲労が山のようにのしかかっているというのに……。
財布の中にはそれなりの現金は入っている。電子マネーもある。クレープの相場を知らないけれど、困ることはないだろう。
「分かった。じゃあ行こう。この辺にあるの?」
「分かんないけど、白端の方にはあるからそっちに行こ」
「じゃあまずは電車か」
駅までは徒歩で10分程度、そこから乗り換えなしでもう10分。待ち時間も合わせて30分はかからない。
飲み干したペットボトルをゴミ箱に捨てて、駅に向かう。その最中、背後から軽やかに地面を叩く音が一定のリズムで近づいてきた。
「春奈さん!」
「ん? ……あ、凛ちゃん!」
今日知ったばかりだけれど、忘れるわけがない。花井凛、今回の大会の優勝者だ。しかし彼女から発せられる声は力強いプレーとは違い、どこか細く淑やかな音色だった。
「ねぇ、春奈さん。今日の大会が最後って……本当ですか?」
「……うん。最期だよ」
花井さんは試合のときよりも肩を上下させていた。全力で朝倉さんを探していたんだ。この広い公園内を、たぶんいつよりも一生懸命に。
息も途切れ途切れに、けれど少しずつ落ち着かせながら言葉を続けた。
「何で……なんですか? まだ2年じゃないですか。あなたならもっと……もっと上を目指せたんじゃないですか?」
寂しそうな、希望を失ったような表情だった。幻滅した、というような顔ではない。ただ何か、一つの指針が失われることを恐れているような……。
しかし、責めるつもりはないけれど、彼女の言葉が苦しかった。事情を知らないからこそ、どんな刃物よりも深く刺さる。仕方ないことだと思いつつも、朝倉さんにそんなことを聞かないでくれと思ってしまう。
「……テニスが嫌いになったから、とかじゃないよ。何事もなければ部活も続けたと思うし」
「ならなおさら……」
「凛ちゃんなら、隠すようなことじゃないよ。でも、話したところで私はもうテニスは続けない。どうしても聞きたいって言うなら教えるけど……凛ちゃんに背負わせたいことでもないかな」
朝倉さんの言葉は、やはりどこまでも正直だった。誤魔化さないし、嘘も吐かない。否定もしないけれど、やんわりと距離を置く。
彼女が私と会ってなければ、あるいは花井さんに共有していたかもしれない。心を許せる友として、そして悩みも弱みも何もかもを吐露できる相方として、花井さんに話していたかもしれない。
けれど彼女は他校の生徒だ。物理的に距離がある。簡単に時間を共有できる相手ではない。だからこそ、重荷になってしまうかもしれない。だから朝倉さんは、花井さんには積極的には話したがらなかった。
「……分かりました。聞きたいけど……これ以上は聞きません。ただ一つ……」
「何か?」
花井さんは表情を崩した後、再び顔を引き締めた。もう肩は揺れていなかった。
「そちらはもしかして……彼氏さんとかですか?」
「へ!? べ、別にちが! ち、ちちち、違、違うよ!」
唐突な質問に朝倉さんは殴られた。私も一気に心臓が痛くなるのを感じたけれど、すぐ隣にそれ以上に混乱している人を見ると落ち着かざるを得なかった。
「違いますよ。僕は矢田優希、朝倉さんの友達です」
「そ、そう! 友達よ!」
単純に友達と表現するのはどこか不自然な感じがするけれど、今はこれでいい。恋仲というわけではないし、これ以上適切な表現はないだろう。
「あ、そうでしたか! すみません、勘違いをしちゃって……。私、紅林高校の花井凛っていいます!」
「知ってますよ。試合は見てましたから。遅れましたけど、優勝おめでとうございます」
やはり試合中の力強い雰囲気とは一切が異なっていた。女の子らしい高く柔らかい声に、言葉の節々から感じられる丁寧さと、年相応の幼さが同居していた。
あれほどスゴい選手が、実際には同年代の普通の女の子だということを思い知らされる。もっとも、それは朝倉さんにおいても一緒なのだが、私は彼女に慣れてしまったらしい。
「優希さんはその……春奈さんの引退の理由をご存知なので?」
「まぁ……一応」
何が一応なのかは分からないが、そんな無難な返事が無意識に零れ落ちた。
「良かったら、連絡先交換しませんか? 春奈さんのことで、お話を聞きたくなるかもしれないので」
「え、まぁ僕はいいけど……」
「私は構わないよ。私の情報は一切を矢田くんに任せてもいいって思ってるから」
それはそれでどうなんだ、と思いつつ、右のポケットからスマートフォンを取り出した。数少ない連絡先に、一つ、新たに追加された。将来、私達の記憶を共有する、数少ない人物の1人だ。




