第9話 泥に濡れた救済
〈歓楽の霧〉——帝都の喧騒を象徴するその劇場は、今や宗派の最奥部へと繋がる異界の門と化していた。
戻ってきた「紅蓮の踊り手」を、劇場内の重苦しい沈黙が迎える。回収部隊が放った追跡の残響と、彼女自身の「赤い幻想」がもたらした混乱は、まだ完全に収まってはいない。
彼女はその混乱の隙を突き、劇場の地下に張り巡らされた魔力伝導路に手を触れた。
その瞬間、彼女の内側に閉じ込められたカリーナの意識が、人形の持つ「高度情報処理システム」としての機能を強制的に起動させる。
(……読み込める。宗派の思考、術式の記録、そしてこの身体に刻まれた、忌まわしい記憶のすべてを……!)
肉体が宗派の呪縛によって自律行動を制限されている一方で、その脳——演算中枢は、かつてないほどに研ぎ澄まされていた。彼女は、ガイウスとジオンが地下室でたどり着いた「原石暦」の真実、そして「泥のバグ」の正体を、外部ネットワークとの微かな共鳴から瞬時に解析し、補完していく。
(……そうか。わたしたちは、救われるべき人間ですらなかったんだ……)
解析の結果が、カリーナの意識を戦慄させる。
「紅蓮の踊り手」のベースとなった肉体。それは、かつて「調査班」としてシステムに干渉し、泥に飲み込まれた研究者たちの末路。その細胞一つ一つに、世界の管理システムから溢れ出した「死ねない呪い」がエラーデータとして書き込まれている。
致命傷を負っても、泥が欠損部を埋め、無理やり「完全体」へと引き戻す。それは生命の輝きではなく、ゴミ箱に捨てられるはずのデータが無限に復元され続けるような、悍ましい停滞だった。
宗派が求めていた「治療」の正体も、既に彼女の演算結果の中にあった。
それは、彼女という「高密度のバグ」を触媒にして大規模な儀式を行い、泥のエネルギーを一気に吸い上げることで、一時的な清浄を得ようとする場当たり的な処置。その結果として待っているのは、人形という道具の完全な損壊と、さらなる泥の拡散でしかない。
しかし、カリーナの意識は、その絶望の中に唯一の勝機を見出す。
(父様が血をもって私を認めてくれた。ガイウス様とジオン様が、世界のバグを暴いてくれた……。そして、宗派の中にも、この終わらない悪夢を本当に終わらせようとしている者たちがいる……!)
人形の無機質な指先が、ドレスの裾で密かに蠢いた。
カリーナの決意。それは、宗派が望む「偽りの救済」ではなく、この世界を覆う泥をシステムレベルで修正し、すべての人々に「正当な死(解放)」を取り戻すこと。
(行くべき道は、一つだけ。宗派の儀式を阻止し、泥のバグを元に戻す。そして……この不完全な生命を終わらせ、今度こそ、本当の安らぎへ向かうこと……!)
「紅蓮の踊り手」の瞳に、赤い回路のような光が走る。
彼女はまず、自分の身体を雁字搦めにしていた「シャドウシルクの糸」へと干渉を始めた。
外側から解こうとすれば締め付けられるその呪いの糸を、彼女はあえて内側から「バグの一部」として取り込み、その制御コードを物理的に焼き切っていく。
バチッ、という不可視の火花。
劇場の奥底で、宗派の術師たちが異変を察知するよりも早く、彼女は自分を監視する網の目を、自らの「不完全な意志」で食い破り始めた。




