第5話 連携と覚醒
「標本73号」
術師の吐き捨てたその無機質な記号が、彼女の意識の奥底、凍り付いた記憶の湖を叩き割った。
(――やはり、気づいていない。この冷たい檻の中で、まだ生きていることを……!)
「紅蓮の踊り手」と呼ばれ、魂の残骸を器に詰め込まれた肉人形。彼女の意識は、肉体を縛る無数の呪印と、神経に絡みつくシャドウシルクの糸によって、長い間、深い霧の底に沈められていた。宗派の命令には絶対に従わなければならず、まばたき一つ、呼吸一つでさえも、彼女の自由にはならなかった。
だが、術師の言葉は逆説的に彼女に力を与えた。宗派は知っていたのだ。この人形の中に、まだ抗おうとする不完全な生命が残っていることを。そして、その生命が父ギィやガイウスと同じ「自由になりたい」という熾烈な意志を共有していることを。彼らはそれを恐れ、何重もの枷で縛り上げていた。
(追いつめられている。ガイウス様が、命を賭して道を切り拓いてくれた……。なのに、まだ、この人形の身体に怯えているの?)
彼女の視界に、必死に自分を守ろうとして膝をつく、老いた父の背中が映る。その震える肩を見た瞬間、彼女の内側で「何か」が弾けた。
「紅蓮の踊り手」の、虚ろだった硝子玉のような瞳。そこに、一瞬、激しい火花のような強い光が宿った。それは紛れもなく、かつてギィが愛した娘の、生命力に溢れた眼差しだった。
身体を支配する宗派の命令系統は、依然として冷徹に機能している。「標本を回収せよ」「敵を排除せよ」――脳裏に響く無機質なノイズ。しかし、彼女の意識はその命令を拒絶するのではなく、「利用」することを選択した。
宗派の制御下にない、唯一の空白地帯。それは、人形としての動作の「目的」そのものを、土壇場で書き換えること。
「……あ、……ぁ……」
彼女の指先が、ドレスの影に隠されていた、薔薇の棘を模した不吉な形状の短剣を握りしめた。本来ならば、それは父ギィや、自分を連れ出そうとする者を葬るために振るわれるはずの武器だった。
術師が勝利を確信し、冷笑を浮かべた瞬間だった。
「紅蓮の踊り手」の身体が、物理法則を無視したような鋭い踏み込みを見せる。だが、その切っ先は、目の前の術師には向かわなかった。
「ウィスパー・ダンス」
それは、彼女の細い喉から漏れた、祈るようなささやき。
人形の強靭な筋力と、娘の執念が一点に集中する。彼女は自分の意思で、人形の腕を捻じ曲げるようにして、短剣を石畳の地面へと全力で振り下ろした。
ガシャン――!
火花と共に地面に突き立てられた短剣。その瞬間、衝撃波と共に鮮血のような深紅の霧が周囲一帯に噴出した。
「な……っ!? 何をした!」
術師たちの叫びは、すぐに絶望の呻きへと変わる。
発動したのは、彼女の内に秘められた絶大な魔力と、絶望の記憶が結晶化した大魔術「赤い幻想(Red Illusion)」。
深紅の霧に包まれた回収部隊の者たちは、幻覚の中で己の最も忌まわしい過去、犯した罪、そして殺めてきた犠牲者たちの怨嗟の声に引きずり込まれていった。最強の捕縛術を誇る術師たちが、己の心の内側から湧き上がる恐怖に耐えきれず、泡を吹いてその場に崩れ落ちていく。
静まり返った路地裏。霧の中で、踊り手はゆっくりと顔を上げた。
その頬を一筋の涙が伝う。人形に涙を流す機能などないはずなのに、それは温かく、彼女の生を証明していた。
「逃げて……お父様……!」
それは、かすれ、震え、今にも消えてしまいそうな細い声。しかし、宗派の命令ではなく、彼女自身の魂から紡がれた、数年ぶりの「娘としての言葉」だった。
「あ……ああ、ああ……! カリーナ、なのか……!?」
ギィは目を見開き、信じられないものを見るように彼女を見つめる。
彼女は微笑もうとしたが、人形の顔はまだうまく動かない。それでも、彼女の身体からは、先ほどまでの無機質な冷気は消え去っていた。
「わたしは……もう、ただの標本じゃない。お父様を助けて、ガイウス様の道を……守る……」
彼女は再び短剣を引き抜いた。
赤い霧の向こう側から、さらなる追手の気配が近づいている。だが、今の彼女に迷いはなかった。人形としての圧倒的な身体能力と、娘としての不屈の魂。その二つの力が、矛盾しながらも一つの旋律を奏で始める。
彼女は、自分たちを救うために闇に消えたガイウスの、その復讐の火を絶やさぬため。そして、再び「人間」として父と向き合う日のため。
紅蓮のドレスを翻し、彼女は襲い来る闇の軍勢へと、鮮やかな死の舞を舞い始めた。




