第3話 影の追跡者
降り始めた細かな雨が、石畳を鈍く光らせている。帝都の華やかな表通りとは対極にあるこの場所は、捨てられた残飯とカビの臭いが立ち込め、迷路のように入り組んでいる。逃げるには適しているが、同時に逃げ場を失う死地でもあった。
劇場裏でガイウスが宗派の追手と刃を交え、鉄の火花を散らしている頃、帝都の入り組んだ路地裏では、二つの人影が影を縫うように走っていた。
「……こっちだ! もう少しで、奴らの手の届かない場所へ行ける!」
先を走る男、ギィ・パロモは、荒い息を吐きながら叫んだ。その手は、かつて慈しんだ娘のものと同じはずの、細い手首を固く握りしめている。だが、その肌の温度は驚くほどに低く、まるで作られたばかりの陶器のように滑らかで、生気が感じられない。
彼の後ろを追う「紅蓮の踊り手」の足取りは、異常なほど軽やかだった。ぬかるんだ地面を走っているはずなのに、泥が跳ねる音すらしない。その動きは、宗派が施した呪縛に命じられるままの機械的な精緻さと、内側にわずかに残る「娘の意思」が悲鳴を上げているかのような不自然な揺らぎを孕んでいた。そのちぐはぐな優雅さは、見る者の心に言い知れぬ不安を抱かせる。
ギィは走る足を止めず、隣を走る彼女の横顔を盗み見た。月光に照らされたその顔は、たしかに愛する娘の面影を残している。しかし、その瞳には光がなく、自分の呼びかけに応える言葉も持っていない。
(ガイウスは言った。彼女は道具にされているだけだと。連れ出せば、また昔のように……)
ギィは自分に言い聞かせる。今、彼女が何も語らないのは、あまりに過酷な仕打ちを宗派から受けてきたせいだ。温かい食事を与え、安全な場所で眠れば、いつかまた「父さん」と笑ってくれる。そう信じることで、彼は心を引き裂こうとする恐怖をねじ伏せていた。
しかし、ギィが知らない残酷な真実は、雨のしずくのように静かに彼女の身を侵食していた。
一つは、目の前の「紅蓮の踊り手」は既に生命体ではないということ。彼女は、かつての娘の亡骸から「不要な心」と「痛み」を削ぎ落とし、宗派の秘術によって継ぎ接ぎされた、美しき肉の人形に過ぎない。彼女の体内を巡るのは血ではなく、呪力で変質した黒い泥。彼女が時折見せる微かな躊躇も、魂の叫びではなく、システムの不具合が生むノイズのようなものだった。
そしてもう一つ、彼らの背後には、逃れられぬ「見えない糸」が続いていた。
彼女が纏う紅蓮のドレス。その意匠として編み込まれた「シャドウシルク」の糸は、闇の中で燐光を放ち、宗派の追跡者たちの羅針盤となっていた。裏切り者を、そして流出した「最高傑作」を、世界の果てまで追い詰め、回収するための呪いの標識。
「行こう……あと少しだ……」
ギィの震える声が路地に消える。その背後、曲がり角の闇から、赤い光を宿した追跡者の瞳がじっと二人を見つめていることにも気づかずに。




