第2話 その夜の帳
湿った石造りの壁には、ねっとりとした苔が這い、空気には古い血と獣の脂が混ざったような不浄な臭いが立ち込めている。ステンドグラスから漏れる光は、救いというよりは監視の目のように冷たく、逃亡者たちの背中を刺す。
影の中に立つ男は、かつての栄華を思わせる上質な外套を纏っているが、その身のこなしには拭いきれない「血の匂い」が染みついている。
「……相変わらず、吐き気のする祈りの声だ」
男は物陰に潜み、冷ややかな瞳で聖堂を見上げていた。手元には、不自然なほど鮮やかな紅色の瓶。彼が営む店で「最高級の薔薇ワイン」として売られているものだが、その中身は食の細い「彼女」のために、彼が密かに調合した滋養強壮の秘薬に近い。
「おい、こっちだ。……動けるか」
男は、震える彼女の肩を抱き寄せ、暗がりの回廊へと引き込む。彼女の肌は透き通るほど白く、今にも崩れ去ってしまいそうだった。
「これを飲め。君の喉でも通るように、薔薇の香りで誤魔化した。……道具としてしか見ていない連中に、その命までくれてやる必要はない」
彼女が弱々しく瓶を受け取ると、男は自嘲気味に口角を上げた。
「俺の家は、あの宗派に食いつぶされた。父の命も、弟との絆も……すべてな。今の俺はただの酒売りだが、復讐の準備だけは、この熟成されたワインよりも長く時間をかけてきたんだ」
追手の足音が近づく。男は、あらかじめ手配していた男——行方不明の娘を捜し続ける父、ギィパロモを呼び寄せた。
「ギィパロモ、約束通り彼女を連れてきた。……この娘は、君の娘ではない。だが、今の彼女には帰る場所も、守ってくれる親もいない。……頼む、連れて行ってくれ」
「あんたはどうするんだ」と問うギィパロモに、男は暗い情熱を宿した瞳で、かつての聖堂を振り返った。
「俺には、まだ飲み干さなければならない『苦い酒』が残っている。……弟には、すべてが終わるまで会うつもりはない。濡れ衣を晴らしたところで、奴を捨てた事実は変わらんからな」
男はそれだけ言い残すと、抜き放った剣の銀光を闇に散らし、追手たちの待つ方へと静かに、だが確実に踏み出した。




