第6話 死の世界の洗礼:闇の行軍と追跡者の嗅覚②
「ガウッ!!」
闇を裂いて飛びかかってきた黒い塊。
ワイルド・ドッグだ。
体長1メートル超。狼に近い骨格と、筋肉の塊のような顎を持つ猛獣。その口からは、腐肉を漁った直後特有の、強烈な腐臭と熱気が漂っている。
オレの動体視力は、その牙が肉に食い込むまでの0.5秒を、スローモーションのように捉えていた。
回避はしない。
闇の中でステップを踏めば、足場の悪い泥に足を取られるリスク(転倒確率15%)がある。それに、ここで避ければ、背後のリーズが無防備になる。
(……許容範囲だ)
オレは左腕の筋肉を瞬時に硬化させる。
ガブゥッ!!
鈍い音。
鋭い牙が、オレの前腕に突き立てられた。
普通の人間(CON10)なら、この一撃で橈骨とうこつを粉砕され、動脈を引きちぎられて即死コースだ。
だが、オレの腕から伝わってきたのは、骨が砕ける音ではなく、犬の顎が限界まで開ききって軋む音だった。
《被ダメージ判定:3(刺突)》
《耐久力(CON)18によるダメージ軽減……軽微》《現在HP:14 → 11》
「……硬いか?」
オレは冷徹に呟いた。
牙は皮膚を貫通し、真皮層で止まっている。分厚い筋肉の鎧が、それ以上の侵入を物理的に拒絶していたのだ。
痛みはある。熱した釘を打ち込まれたような鋭い痛みだ。
だが、戦闘継続に支障なし。
犬の方が困惑したように喉を鳴らす。獲物の肉が噛み切れないという想定外のエラー。
そのコンマ数秒の硬直が、コイツの命運を尽きさせた。
「食事が硬くて残念だったな」
オレは噛みつかせたままの左腕を強引に振り上げ、遠心力を乗せて地面の岩盤へ叩きつけた。
ドゴォォォン!!
グシャリ、という湿った破砕音。
即死。
だが、休む暇はない。
右から一匹、正面から一匹。残りの犬が同時に飛びかかってくる。
「リーズ! しゃがめ!」
オレは叫びながら、右手のナイフで空間座標を切り裂く。
右の犬の鼻先を掠め、正面の犬には泥を蹴り上げて「目潰し」を食らわせる。
連携が崩れる。
だが、これらは全て「前座」だ。
オレの背筋が、氷水を浴びせられたように冷たく粟立った。
《警告:高脅威反応、接近》
《種別:オーク・ハンター》
《攻撃動作:刺突チャージ》
「トールさん、後ろ……ッ!!」
リーズの悲鳴。
彼女の【暗視】能力のない目にも、闇の奥から迫る巨大な質量が見えたのだろう。
犬の相手をしている隙を狙っていた「本命」が動いたのだ。
「ブモォォォォッ!!」
オークだ。
手には粗雑だが穂先の鋭い投擲槍。
奴は投げるのではなく、槍を構えたまま突進してきた。闇に乗じて音もなく接近し、オレの背中――つまり、後ろに隠れているリーズごと串刺しにする一撃。
距離3メートル。
回避は……間に合わない。
オレが避ければ、槍は後ろのリーズを貫く。彼女のHP6では即死だ。
(……選択肢は一つか)
思考時間、0.1秒。
オレは身を翻し、真正面から槍を受け止めにいった。
受ける場所は一つ。人体の構造上、最も筋肉が厚く、かつ致命的な臓器がない場所。
オレは左肩を突き出した。
ズドッ!!
重い衝撃。そして、焼けるような激痛。
穂先が鎖骨の下を滑り、三角筋を裂き、肉を深々と抉って骨に食い込む。
「ぐ、ぅ……ッ!!」
《被ダメージ:9(刺突・クリティカル)》
《警告:HP低下(危険域)》
《現在HP:11 → 2》
視界が明滅する。
HPバーが一気に3割近くまで削り取られた。
脂汗が噴き出す。熱い。痛い。
だが、意識は飛ばない。アドレナリンが脳を覚醒させ、痛みを「情報」へと変換する。
槍はオレの左肩に突き刺さったまま止まった。
オークがニタリと笑う気配がした。勝ったと思ったのだろう。奴は槍を引き抜き、次の一撃でトドメを刺そうと腕に力を込めた。
だが。
抜けない。
「ブゴッ……?」
オークが目を見開く。
槍が、まるで岩盤に埋め込まれたかのように、ビクともしない。
オレが「抜かせない」ために、左肩の筋肉を全力で収縮させ、万力のように刃を噛んでいるからだ。
「捕まえたぞ……豚野郎」
オレは血に濡れた歯を見せて笑った。
STR18 対 STR15。筋力判定。オレの勝ちだ。
オレは刺さったままの槍の柄を右手で鷲掴みにし、強引に自分の方へ引き寄せた。
グンッ!
予期せぬ引っ張りに、オークの体勢が崩れ、オレの目の前まで引きずり出される。
ゼロ距離拘束。
オレの両手は塞がっている。
だが、オレの後ろには「砲台」がいる。
「リーズ! 今だ!!」
オレは叫んだ。
「魔法だ! 一番速くて、一番確実なヤツを撃ち込め!!」
「えっ!? で、でも……暗くて、よく見えません……!」
リーズの声が震える。
当然だ。この暗闇、しかもオレとオークが揉み合っている乱戦状態。
下手に撃てば誤射フレンドリーファイアする。狙いを定める時間もない。
だからこそ、オレはこの魔法を指定した。
レベル1ソーサラーが習得できる中で、唯一無二の絶対性能を誇る呪文。
「狙う必要はない!」
オレは槍をさらに引き込み、オークの顔面を正面に捉えさせた。
「【マジック・ミサイル(魔法の矢)】だ! イメージしろ、必中の追尾弾を!!」
その言葉が、彼女の迷いを断ち切った。
マジック・ミサイル。
回避不可能。抵抗不可能。視界に入った敵を自動追尾し、確実に物理的衝撃フォースを与える、魔術師にとっての「絶対の切り札」。
「……穿!!」
リーズが杖を突き出した。
詠唱などない。彼女の魔力炉が唸りを上げ、純粋な魔力が形を成す。
ヒュン、ヒュン、ヒュンッ!!
闇の中に、三筋の青白い光が生まれた。
それは矢の形をしていた。蛍のように輝き、しかし弾丸のような速度で空間を駆ける。
オレの頬を掠め、脇をすり抜け、まるで意志を持つ蛇のように空中で軌道を変える。
オレを避けた光の矢は、吸い込まれるようにオークの胸板と眉間へと殺到した。
ドォン! ドォン! ドォン!!
爆発音ではない。
重いハンマーで鋼鉄を叩いたような、重厚な衝撃音が三連打。
防御無視の必中魔法。
「ガッ、ギィ……ッ!?」
オークの悲鳴が途切れる。
一発目が胸骨を砕き、二発目が心臓を潰し、三発目が眉間を貫通して脳を破壊した。
物理的な風穴が開く。
背中から青い光が突き抜けたのが見えた。
《ダメージ計算:(1d4+1) × 3 = 計 12ダメージ(Force)》
《対象は死亡しました》
ズズゥン……。
オークの巨体が力を失い、オレにのしかかるように崩れ落ちた。
オレは死体を突き飛ばし、槍を引き抜いた。
「ぐ、ッ……ぅ……」
槍が抜けた瞬間、堰を切ったように鮮血が噴き出す。
視界が白く明滅する。
HP2。瀕死だ。
膝から崩れ落ちそうになる身体。
(……まだだ。まだ、終わっていない)
オレは倒れかけた身体を、意思の力で無理やり踏みとどまらせた。
視界の隅で、生き残った野犬たちが逃走態勢に入っているのが見えた。
ボス(オーク)を失ったことで、連携が崩れ、恐怖が支配したのだ。
だが、逃がさない。
オレは左肩を押さえながら、自身の内側にある「生命力の貯蔵庫プール」へアクセスする。
ファイターだけが持つ、戦場での生存本能。
「……【底力】ッ!!」
オレは短く吠え、深く息を吸い込んだ。
ドクンッ!!
心臓が大きく跳ねる。
脳内麻薬とアドレナリンが過剰分泌され、損傷した血管を強制的に収縮させる。
熱い。
傷口が焼けるように熱くなり、失われた体力が湧き水のように溢れ出してくる感覚。
《スキル発動:底力》
《HP回復:1d10 + 1 = 8回復》
《現在HP:2 → 10 / 14》
「……ふぅーっ……」
長く、熱い息を吐き出す。
視界の明滅が収まる。足に力が戻る。
傷は塞がってはいないが、出血は止まり、戦闘可能なレベルまでバイタルが回復した。
オレは血に濡れたナイフを握り直し、泥を蹴った。
逃げようと背を向けた野犬たちへ向かって、爆発的な加速で距離を詰める。
「経験値(XP)を持ち逃げさせるかよ」
一匹目。
背後から首筋を掴み、そのまま勢いを利用して地面に叩きつけ、頚椎をへし折る。
二匹目。
逃げ遅れた個体の胴体を蹴り上げ、転がったところに石を振り下ろす。
キャン、という短い悲鳴が闇に吸い込まれ、すぐに静寂が戻った。
完殺。
《戦闘終了》
《経験値獲得:200(オーク + 野犬×3)》
《レベルアップ要件を完全に満たしました》
オレは返り血を拭いもせず、システムウィンドウを確認して口元を歪めた。
これでいい。
この森にある全ての脅威は、オレが強くなるための糧リソースだ。一匹たりとも無駄にはしない。
「……トール、さん……」
へたり込んだリーズが、信じられないものを見る目でオレを見上げていた。
瀕死の重傷を負いながらも即座に立ち上がり、逃げる犬すら逃さず殲滅したオレの姿は、オーク以上に恐ろしい「狩人」に見えたかもしれない。
「ナイスショットだ、リーズ」
オレは肩の痛みを無視して、彼女に向かって親指を立ててみせた。
「お前のおかげで、大漁だ」




