第5話 死の世界の洗礼:闇の行軍と追跡者の嗅覚①
ドォォォン……ガチャン。
背後で重い閂かんぬきが落ちる音が、森の静寂に吸い込まれていく。
それは、オレたちが文明の庇護下から完全に切り離され、法も秩序も通用しない「食物連鎖」の底辺へと放り出されたことを告げる合図だった。
目の前には、どこまでも続く漆黒の闇。
頼りになるのは、リーズの杖先に灯る頼りない魔法の明かりだけだ。
「……うぅ、寒いです……」
リーズが身を震わせ、防寒には程遠い麻の服を掻き合わせる。
彼女の吐く息が白い。
夜の森の気温は一桁台まで下がっているだろう。湿気を含んだ冷気は、衣服の繊維をすり抜けて肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。
栄養失調から回復したばかりの彼女(HP:6)には、この気温だけで体力を削られる過酷な環境だ。
「体温を無駄にするな。口を閉じて歩け」
オレは前だけを見て歩き続ける。
冷たい言葉だが、事実だ。
オレの【耐久力(CON)18】の肉体は、この程度の寒さを「涼しい」程度にしか感じていない。皮膚の表面温度を最適化し、内臓を守る熱循環システムが正常に稼働しているからだ。
だが、リーズは違う。彼女の消耗は、そのままパーティの火力低下に直結する。
「……はい。すみません」
リーズは素直に頷き、オレの背中の影を踏むようにして付いてくる。
その小さな足音だけが、ピチャリ、ピチャリと泥を叩く。
オレは歩きながら、視界の端に表示されているステータスバーを監視していた。
【リーズ:状態】
MP消費率:0.5 / min (【ライト】維持中)
疲労度:軽微
(燃費は悪くない。だが、この明かりは諸刃の剣だ)
【ライト(灯火)】の青白い光は、半径10メートルほどを照らし出している。
おかげで足元の木の根や、泥濘ぬかるみの深さを視認できるが、同時にこちらの位置を森全体に宣伝しているようなものだ。
深海魚が発光器で獲物を誘き寄せるように、この光に引かれて「何か」が来る可能性は高い。
30分ほど歩いただろうか。
不意に、風向きが変わった。
ツン、と鼻をつく臭い。
腐葉土の湿った匂いではない。もっと生々しく、鼻の奥に油膜が張り付くような不快な悪臭。
鉄錆の臭いと、洗っていない獣の脂の臭いだ。
(……空気が変わったな)
オレは足を止めずに、意識のアンテナ(受動知覚)を後方へと向けた。
静かすぎる。
夜行性の虫の音も、フクロウの声もしない。あるのは、湿った風が葉を揺らす音だけ。
森の生態系が、何かに怯えて息を潜めている証拠だ。
《受動知覚:警告(Alert)》
《後方100メートル。複数の接近反応あり》
《移動速度:高速ダッシュ》
視界のマップに、赤い光点が複数浮かび上がる。
オレは舌打ちを噛み殺した。
村人たちの追っ手ではない。彼らに夜の森へ入る度胸はない。
ならば、答えは一つだ。
『次元を超えた知識』が、闇の向こうにある脅威の情報を、冷酷なデジタルタグとしてオレの網膜に焼き付ける。
【敵対種:ワイルド・ドッグ】 × 3
脅威度:1/4
特性:【連携】味方が近くにいると攻撃有利。
状態:興奮、飢餓
【敵対種:オーク・ハンター】 × 1
脅威度:1
特性:追跡、夜目
装備:粗雑な投擲槍
「……来たか」
やはり、昼間のオークには「相方」がいたか。あるいは、血の匂いを嗅ぎつけたハイエナどもを従えてのリベンジマッチか。
数は4。
移動速度比較。
オレ(DEX16)なら振り切れるかもしれない。だが、リーズ(DEX10)は確実に追いつかれる。
逃走は選択肢にない。ここで背中を見せれば、狩猟本能を刺激された犬どもにふくらはぎを食いちぎられて終了だ。
「リーズ、止まれ」
オレは短く命じた。
「え……?」
「明かりを消せ」
「で、でも……真っ暗に……」
「いいから消せ。死にたくなければな」
オレの声音に含まれた剣呑さを察知したのか、リーズは慌てて杖を振った。
フッ。
光が消える。
世界が漆黒に塗りつぶされる。
さっきまで見えていた自分の手さえも見えない、物理的な闇の閉鎖空間。
「ひっ……」
リーズが息を呑み、オレの腕にしがみついてきた。小刻みに震えている。
人間にとって、視覚を奪われることは死に等しい恐怖だ。
「動くな。呼吸も殺せ」
オレは彼女の手を引き、近くにあった巨木の根元へと誘導した。
背後は幹で守られている。左右は太い根が壁になっている。
前方180度のみを警戒すればいい「天然の要塞」だ。
オレはリーズを背中の後ろ、幹との隙間に押し込んだ。
「オレの後ろから出るな。……指示したら撃て」
「は、はい……!」
リーズが杖を構える気配がする。
オレは腰のナイフを抜き、逆手に構えた。もう一方の手には、道中で拾っておいた拳大の石塊を握り込む。
闇の中で目を凝らす。
肉眼では何も見えない。
だが、オレの脳内には『メタ・ナレッジ』によって構築された3Dマップが展開されている。
赤色のワイヤーフレームで描かれた四つの影が、木々を縫うように接近してくる。
距離50メートル。
距離30メートル。
ガサッ……。
茂みが揺れた。
風に乗って、獣の荒い息遣いと、泥を踏む湿った足音が聞こえてくる。
グルルル……という、腹の底に響く重低音の唸り。
彼らはすでにオレたちの位置を特定している。包囲網を縮め、飛びかかるタイミングを計っているのだ。
(……視覚がないのは不利だが、情報データはこちらが上だ)
オレは心拍数を制御し、呼吸を極限まで浅くした。
恐怖はない。
あるのは、「向こうから勝手にやって来た経験値(XP)」を、どう効率よく回収するかという計算だけ。
右前方、12メートル。犬A。
左前方、15メートル。犬B。
中央奥、20メートル。オーク。
そして――
《警告:左側面、死角より接近中》
オレの耳が、泥濘ぬかるみを蹴る微かな音を捉えた。
囮おとりを使って注意を引きつけ、死角から本命が喉笛を狙う。狼や野犬が得意とする狩りの定石セオリー。
「……計算通りだ」
オレは左腕を前に出し、あえて隙を作った。
闇を切り裂いて、最初の牙が迫る。




