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アイギスの盾~異世界サバイバル・ストラテジー~  作者: たっく


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第2話 文明への接触:メタ・ナレッジの覚醒

日が落ちると同時に、世界は死んだ。


比喩ではない。 現代日本において「夜」とは、単に太陽が沈んだだけの時間帯を指す言葉だった。街灯があり、コンビニの看板が輝き、遠くの道路を走る車のヘッドライトが常にどこかを照らしている。そこには必ず「光」という逃げ場があった。 だが、この世界エストルドの夜は違う。 それは、空間そのものを黒いインクで塗りつぶしたような、物理的な「視界の遮断」だった。


「……なるほど。これが『真の闇』か」


オレは太い樫の木の枝の上、地上五メートルほどの高さで背中を幹に預けながら、自分の手のひらを目の前にかざした。 見えない。 鼻先数センチにあるはずの手の輪郭さえ、濃密な闇に溶けて認識できない。 視覚情報が完全に遮断されたことで、他の感覚器官が強制的に感度ゲインを上げさせられる。 肌にまとわりつく湿気。気温が急激に下がり、汗ばんだシャツを冷たく張り付かせる不快感。そして、闇の底から響く、正体不明の衣擦れのような音。


ガサッ……、カサリ……。


風の音か、夜行性の捕食者が獲物を探して徘徊する足音か。 オレの【耐久力(CON)18】の肉体は、この環境を「生存不可能」とは判定していない。寒さは肌を刺すが、深部体温を奪うほどではない。硬い樹皮の凹凸も、背中の筋肉がクッションとなって痛みを感じさせない。 だが、精神的な圧迫感プレッシャーは別だ。 光のない世界で、ただ心臓の鼓動だけを聞きながら朝を待つ時間は、永遠のように長く感じられた。


グゥゥゥ……。


腹の虫が鳴いた。 生存本能が、エネルギーの枯渇を警告している。 オレは手探りで腰のポーチを開け、昼間にゴブリンの死体から回収した「それ」を取り出した。 正体不明の干し肉。 小汚い布に包まれた、石ころのように硬い肉塊だ。


鼻を近づける。 ツンとくるアンモニア臭と、古い脂が酸化したような饐すえた臭い。そして、微かに漂う鉄錆(血)の香り。 衛生局が見たら即座に廃棄命令を出し、店ごと営業停止にするレベルの代物だ。オレの現代人としての理性が「これは食べ物ではない」と警鐘を鳴らしている。


「……感情論で語るな」


オレは闇に向かって小さく呟き、自分自身に言い聞かせた。 今のオレに必要なのは、味覚的な満足ガストロノミーではない。熱量カロリーだ。 STR18の筋肉を維持し、明日も活動するための燃料。 リスクはある。だが、餓死のリスクと食中毒のリスクを天秤にかければ、答えは明白だ。


ガリッ。


オレは肉塊を奥歯で噛み砕いた。 硬い。まるで古タイヤを噛んでいるようだ。 唾液を混ぜ、強靭な顎の力ですり潰していくと、口の中に最悪の風味が広がった。獣臭さと、強烈な塩気、そして舌が痺れるようなエグみ。 えずきそうになる喉の反射を、意志の力でねじ伏せる。


(咀嚼回数30。……嚥下えんげ)


ゴクリ、と飲み込む。 異物が食道を通り抜け、胃袋へと落下する。 その直後だった。


《判定:耐久力セーヴ(難易度10)……成功》 《毒性中和プロセス:開始》


胃の腑がカッと熱くなった。 それは不快な痛みではなく、溶鉱炉が火を噴いたような力強い熱だった。 オレの超人的な消化器官が、毒素を分解し、タンパク質と脂質を貪欲に吸収していく。不味い肉が、純粋なエネルギーへと変換され、指先まで力が満ちていくのが分かる。


「……不味いが、機能的だ」


オレは残りの肉を無表情に平らげ、水を一口飲んだ。 満腹ではないが、飢餓感は消えた。 オレはナイフを逆手に持ったまま腕を組み、浅い微睡まどろみへと意識を沈めた。 長い夜が始まった。


***


鳥のさえずりと共に、意識が覚醒した。 瞬間、オレは体勢を変えずに眼球だけを動かし、周囲をスキャンする。 樹上に敵影なし。地上に大型獣の痕跡なし。 朝日が木々の隙間から差し込み、昨夜の漆黒が嘘のように瑞々しい森の姿を照らし出していた。


「……生存報告サバイバル・チェック、クリア」


オレは木から降り、軽く体をほぐした。 関節のキシみもない。筋肉痛もない。CON18の回復力は、劣悪な環境での睡眠ダメージを完全に無効化キャンセルしていた。 さて、移動だ。 そう思って視界の端にあるシステムウィンドウを閉じようとした時、ふと違和感を覚えた。


メニューの最下部。 昨日は気づかなかった――あるいは、レベルアップの要件を満たしかけたことで解放されたのか――薄暗いグレーアウトした項目の端に、微かに明滅するアイコンがあった。


【ユニークスキル:???(未解析)】


「……隠しコマンドか?」


オレはその項目を指先でタップした。 普通のゲームなら「権限がありません」と弾かれるか、あるいは課金を要求されるところだ。 だが、オレの指が触れた瞬間、視界にノイズが走った。


ザザッ……! 世界が一瞬、歪んだ。 木々の緑色が、空の青色が、一瞬だけ剥がれ落ち、その下にある無機質なワイヤーフレーム(骨組み)と、膨大な文字列の奔流が見えた気がした。


《認証:個体名トールを確認》 《魂の規格外領域(Out of Bounds)への接続を確立》 《スキル【次元を超えた知識メタ・ナレッジ】を解放します》


「メタ・ナレッジ……?」


オレが呟くと同時に、視界が正常に戻った。 いや、戻ったのではない。「解像度」が変わった。 今まで「何となく」見えていた風景の上に、薄いAR(拡張現実)のような情報レイヤーが重なって見える。


オレは足元に転がっている石ころを拾い上げた。 昨日までは、ただの「石」という名前しか表示されていなかった。 だが今は違う。


【アイテム:花崗岩の欠片】 ランク:コモン 硬度:4 投擲ダメージ:1d4 (打撃) 解説:どこにでもある石。投擲に適した重心を持つ。


詳細情報スペックが見える。 それだけではない。オレは腰のナイフを抜いた。ゴブリンから奪った、赤錆だらけの粗悪品だ。


【武器:ゴブリンの粗悪なナイフ】 攻撃力:1d4 現在耐久値:3 / 10 隠し特性:【不潔な刃】命中時、CONセーヴ(難易度11)に失敗すると「病気:破傷風」を付与する。 備考:あと3回硬いものを叩けば破損ブレイクする。


「……『あと3回で壊れる』ことまで分かるのか」


オレは思わず口元を歪めた。 これは「鑑定」なんて生易しいものではない。 「破傷風のリスク」という確率パーセンテージ。「耐久値」という不可視のパラメータ。 この世界の住人が、経験と勘でしか知り得ない「裏側のルール(世界律)」を、オレだけが数値として閲覧できている。


戦慄にも似た興奮が背筋を駆け上がる。 この能力の本質は「情報の非対称性」だ。 相手のHPが見える。弱点が見える。武器がいつ壊れるか分かる。 それはつまり、この理不尽なデス・ワールドにおいて、オレだけが「攻略本ガイドブック」を片手にポーカーをしているようなものだ。


「チート(反則)というよりは、管理者権限デバッグモードか」


派手な魔法も、空を飛ぶ力もない。 だが、この力があれば、オレは「勝てる敵」とだけ戦い、「負ける敵」からは確実に逃げることができる。 生存確率の計算式が、劇的に書き換わった音がした。


グゥゥゥ……。 再び腹が鳴る。思考のリソースを割いたせいか、昨晩の干し肉だけではエネルギーが足りないらしい。


「まずは水と食料だ。……この眼があれば、見つけるのは難しくないはずだ」


オレは視界にフィルターをかけるように意識を集中した。 検索ワード:【食料】。 すると、視界の端にある茂みが、わずかに青白くハイライトされた。


《反応あり:可食性植物》


「便利すぎて笑えるな」


オレはナイフを腰に戻し、確信を持って歩き出した。 不安はない。 この世界はもはや、オレの掌てのひらの上にある情報の羅列に過ぎないのだから。


***


『次元を超えた知識メタ・ナレッジ』による誘導に従い、オレは藪をかき分けて進んだ。 視界の先、棘のある低木に、赤い果実が数個実っているのが見える。


見た目は野イチゴに近い。 朝露に濡れて艶やかに光るその赤色は、空腹の胃袋を刺激するには十分なビジュアルだ。 もし昨日のオレなら、毒がないか警戒しつつも、一か八かで口にしていただろう。 だが、今のオレには「真実」が見える。


【対象:蛇苺ヘビイチゴの亜種】 分類:可食性果実 カロリー:極低 味覚評価:劣悪(強い渋みと酸味) 市場価値:0.01 銅貨 備考:腹の足しにはならないが、ビタミンCの補給にはなる。


「……市場価値、0.01銅貨」


オレは溜息交じりにその数値を読み上げた。 100個集めてようやくパン屑一かけら。 つまり、この世界の経済において、これは「商品」として成立しない雑草扱いということだ。 採集にかかる労力コストと、得られる栄養価リターンが見合っていない。


「まあいい。贅沢を言える立場じゃない」


オレは棘に注意しながら――DEX16の指先は棘など容易に回避する――果実を摘み取り、口に放り込んだ。


ブチッ。


噛み砕いた瞬間、口内に広がったのは果実の甘みではない。 舌の水分を一瞬で奪い取るような強烈な渋みと、青臭い酸味だった。まるで渋柿と酢を混ぜて凝縮したような味が、喉の奥を直撃する。


「……ッ、不味い」


反射的に吐き出したくなる衝動を、意志の力でねじ伏せる。 これは食事ではない。燃料補給だ。 味覚センサーのエラーなど無視しろ。


《摂取確認:微量のビタミンを獲得》 《満腹度:2%回復》


「2%か。焼け石に水だな」


オレは無表情で残りの果実をむしり取り、次々と口へ運んだ。 味わってはいけない。噛んで、飲み込む。ただの作業だ。 10個ほど食べたところで、ようやく胃袋の主張が少し収まったが、徒労感だけが残った。


やはり、肉だ。 それもゴブリンの干し肉のようなゴミではなく、まともな動物性タンパク質が必要だ。 あるいは――


《パッシブ・スキル【聞き耳】:反応あり》 《方向:北北東。距離:800メートル》 《音源パターン:木材を加工する音、人の声》


オレの耳が、森の雑音の中から異質なノイズを拾った。 カーン、カーンというリズミカルな硬い音。 そして、獣の唸り声ではない、言語による会話の断片。


「……文明の音だ」


人がいる。 それは「助け」を意味すると同時に、新たな「リスク」の発生も意味する。 だが、この不味い蛇苺を主食にして泥水をすする生活よりは、交渉の余地があるはずだ。


「方針変更。接触コンタクトを試みる」


オレは渋みの残る口の中に溜まった唾を吐き捨てると、音のする方角へ向かって歩き出した。 手には、予備の石ころを握りしめて。 この世界の人間が、話の通じる相手である確率は何%か。 『メタ・ナレッジ』でも、「人の心」までは数値化できない。ここからは、オレ自身の判断力が試される領域だ。


数百メートルほど進んだだろうか。 森の空気感が変わった。 それまで鬱蒼と茂っていた原生林の木々が、ある境界線を境に唐突に姿を消したのだ。


視界が開ける。 だが、それは「解放感」をもたらす類のものではない。 切り株だ。 無造作に伐採され、根だけを残して放置された無数の切り株が、まるで墓標のように広がっている。地面は踏み固められた形跡がなく、泥と雑草が入り混じった荒地となっていた。


「……なるほど。そういうことか」


オレは巨木カバーの影に身を隠し、その光景の意味を脳内で解析する。 これは林業による計画的な伐採ではない。 もっと切迫した、軍事的な理由によるものだ。 集落の周囲にある木々を切り払うことで、外敵――ゴブリンや野獣――が身を隠す場所を奪い、弓矢による射線ライン・オブ・ファイアを確保するための「クリアリング(清掃)」だ。 つまり、ここから先は「狩場」ではなく「キルゾーン(殺害地帯)」ということになる。


オレは慎重に足を運び入れた。 足元の泥が、以前よりも粘り気を帯びている。一歩進むごとに、神経を研ぎ澄ます。


《受動知覚:警告》 《前方3メートル。地面に不自然な盛り上がりを探知》 《メタ・ナレッジ:隠蔽されたオブジェクトを透過表示します》


視界の端で、システムログが赤く点滅した。 オレはその場で凍りついたように足を止め、目を凝らす。 一見すると、ただ枯れ葉が積もっているだけの地面。肉眼では絶対に見抜けない。 だが、オレの視界には、その枯れ葉の下に隠された凶悪な構造が、赤いワイヤーフレームとして透過表示されていた。


【オブジェクト:簡易トラバサミ(大型)】 種別:機械式罠 解除難易度(DC):13 ダメージ:2d6 + 出血(移動速度半減) 状態:稼働中アクティブ 備考:バネ部分に赤錆あり。破傷風のリスク高。


「……殺す気満々だな」


狩猟用ではない。熊、あるいはオークのような大型の二足歩行生物の脛すねを砕くために設置されたものだ。 しかも、一つではない。 視界を広げると、切り株の影や、通りたくなるような獣道の入り口、泥のくぼみなどに、同様の赤いタグがいくつも浮かび上がった。


地雷原だ。 この集落は、外部からの来訪者を歓迎していないどころか、「森から近づく者はすべて敵」と認識している。 もし、何の警戒心もなく「あ、村だ!」と駆け寄った冒険者がいれば、今頃その足首を砕かれ、錆びた鉄の味を噛み締めながら泥の中で絶叫していただろう。


「解除は……リスクが高いな」


解除スキル(スライハンド)を持っていないオレが触れれば、判定に失敗して指を飛ばされる可能性がある。 オレは足元の小石を拾い、トラバサミの位置から大きく離れた場所へと投げた。 罠を作動させて位置を知らせる愚は犯さない。 ただ、罠の配置パターンから、安全なルート(安全地帯)を逆算する。


(右、左、そして中央の切り株の上。……ここが正規ルートか)


まるで平均台の上を歩くような慎重さで、見えない死の道を縫うように進んでいく。 DEX16のバランス感覚と、メタ・ナレッジによる完全な視覚情報。 この二つがなければ、即死していた。


300メートルほど進み、最後の切り株の陰から顔を出した時、オレはその全貌を目撃した。


そこにあったのは、平和なファンタジー世界の村などではない。 「砦」と呼ぶのが相応しい、武装された収容所のような集落だった。


村の周囲を覆っているのは、先端を鋭く尖らせた丸太の柵パリセード。高さは3メートルほどあり、簡単によじ登れるものではない。 丸太の表面は黒ずみ、所々に深い爪痕や、焦げ跡が残っている。 そして、入り口付近に建てられた櫓やぐらの上には、弓を持った人影があった。


オレは目を細め、その人影に「フォーカス」を合わせた。


【人間ヒューマン:村の自警団員】 レベル:1 HP:6 / 8 状態:疲労(中)、栄養失調(軽)、極度の緊張


(レベル1……一般人か。だが、目は死んでいない)


男は油断なく周囲を見回していた。 その表情に、平和ボケした様子は微塵もない。常に「何かが来る」ことを想定し、神経をすり減らしている人間の顔だ。 彼の手にある弓の弦は、いつでも引けるように指が掛けられている。


オレは冷静に戦力分析アセスメントを開始する。 この村は、極限状態にある。 畑が見えるが、作物は痩せ細り、枯れかけている。食料自給率は、生存ラインを割り込んでいると見ていいだろう。 そこへ、どこの馬の骨とも知れない男オレが現れたらどうなるか?


「歓迎」? あり得ない。


「商売」? 銅貨一枚すら持っていない人間に売るものはない。


最も高い確率は、「口減らしのための即時排除」だ。 余所者に食わせる飯はない。ならば、殺して身ぐるみを剥ぐか、あるいは奴隷として売り飛ばすか。 彼らにとって、オレは「人間」ではなく「リソースを奪う害獣」に分類される。


(生存戦略の観点からは、接触を避けて森で暮らすのが安全策セーフティだ)


だが、それはジリ貧の道だ。 不味い蛇苺と、いつ遭遇するか分からない魔物に怯えながら、泥の中で眠る生活。それでは、いずれ「事故ファンブル」が起きて死ぬ。 文明圏へのアクセスは必須だ。情報、装備、そしてまともな食事。 それらを得るためには、この針鼠のように警戒心を尖らせた村の中に入る必要がある。


「……交渉材料チップが必要だ」


オレはポケットの中の石ころを弄びながら思考する。 金はない。信用もない。 今あるのは、異常に高い身体能力と、この『メタ・ナレッジ』による情報だけ。


彼らが何を欲しているか。 何に困っているか。 それを見極め、解決策ソリューションを提示する。 ビジネスの基本だが、相手が弓を構えている状態での商談プレゼンは、命がけのギャンブルになる。


どう仕掛けるか。 オレが思考を巡らせていた、その時だった。


カン、カン、カン、カン!!


突如として、村の中から激しい鐘の音が鳴り響いた。 時報ではない。不規則で、焦燥感を煽るような連打。


「敵襲か?」


オレは反射的に身を低くした。 櫓の上の兵士たちが、血相を変えて叫んでいる。 だが、彼らの視線は森(オレの方角)ではなく、村の正面入り口から伸びる街道の方角へ向けられていた。 風に乗って、土煙と共に近づいてくる「何か」が見える。


オレの視界にある『メタ・ナレッジ』が、その脅威を赤いタグとして補足した。


【敵性集団接近:オーク(Orc)小隊】 推定脅威度(CR):中 目的:略奪


「……なるほど」


オレは口元だけで笑った。 これはピンチではない。 「需要」の発生だ。 彼らには解決できない暴力。それを、オレが代行する。 それこそが、最もシンプルで、最も高価な「商品」になり得る。


「予定変更だ」


オレは隠れていた切り株の陰から、あえてゆっくりと立ち上がった。 石ころを握りしめ、システムウィンドウに表示される「オーク」の接近予測地点を見据える。 村人たちが見ている前で、その「商品価値」を証明するために。


オレは静かに、戦場となる泥濘ぬかるみへと足を踏み出した。


***


地面が揺れていた。 比喩ではない。物理的な振動だ。 森の奥から近づいてくる質量のある足音が、泥濘ぬかるみを介してオレの足裏へと直接伝わってくる。


「ブモォォォ……ッ!」


重苦しい咆哮と共に、街道の彼方から姿を現したのは、身長2メートル近い巨漢だった。 緑色の皮膚は豚のように脂ぎって光り、口からは黄色く変色した牙が二本、上を向いて突き出している。 筋肉と脂肪の塊だ。 粗末な皮鎧を身につけ、手には血のこびりついた巨大な石斧バトルアックスを握っている。


オレの視界に、赤いタグが追従する。


【敵対種:オーク(斥候)】 脅威度(CR):1 推定HP:15 筋力(STR):16 特殊能力:怒り(HP減少時に攻撃力上昇)


「……なるほど。これが『銅ランク』の壁か」


オレは冷静にスペックを比較コンペアする。 ゴブリンとは次元が違う。一般人(HP4)なら、あの一撃をかすめただけで肉塊に変わる質量だ。 さきほどの冒険者崩れが逃げ出したのも無理はない。彼らの装備とレベルでは、勝率2割以下だ。


オークは閉じられた村の門の前で立ち止まり、苛立ったように鼻を鳴らした。 獲物(人間)の臭いがするのに、手が出せない。そのフラストレーションをぶつけるように、石斧で丸太の柵を叩きつける。


ドォォン!! ミシミシッ……。


「ヒィッ……!?」 「撃て! 矢を撃てぇ!!」


櫓やぐらの上から悲鳴交じりの指示が飛ぶ。 ヒュン、ヒュン。 数本の矢が放たれるが、恐怖で手が震えているのか、大半は狙いを外して泥に突き刺さる。一本がオークの肩に当たったが、硬い筋肉と脂肪の層に阻まれ、浅く刺さっただけで弾き返された。


「グルァァァァッ!!」


痛みよりも怒りが勝ったようだ。 オークは充血した目で櫓を睨み上げ、石斧を背負うと、柵を素手でよじ登ろうと手を掛けた。 あの巨体で侵入されれば、村は終わる。


(……計算終了フィックス)


オレは隠れていた茂みから、無造作に歩み出た。 距離は20メートル。 不意打ち(スニークアタック)を狙う必要はない。 これは「商品価値のプレゼンテーション」だ。怯える村人たちに見せつける必要がある。


「おい、豚野郎」


オレは低く、よく通る声で呼びかけた。 オークの動きが止まる。 巨大な頭がゆっくりと回り、オレを補足した。


「ブゴッ……?」


獲物が向こうから歩いてきたことに、一瞬の困惑。 だが、すぐに嗜虐的な喜悦へと変わる。 オークにとって、武器らしい武器も持たない人間など、歩く餌に過ぎない。


「グルァッ!」


オークが柵から手を離し、地面を蹴った。 戦車のような突進。 泥を撒き散らしながら、一直線に迫ってくる。速い。巨体に似合わぬ瞬発力だ。


だが、オレの目メタ・ナレッジには、その突進の軌道が赤い予測線ラインとして見えている。


(STRは16。オレの方が高い。だが、質量差ウェイトがある。正面からの押し合いはリスクだ)


距離10メートル。 オレはポケットから花崗岩を取り出し、アンダースローで放った。 狙いは眉間ではない。


ビュッ! ガィィンッ!


《遠隔攻撃判定:命中(Hit)》 《ダメージ計算:1d4 + 投擲修正(+3) = 6ダメージ》


「ブギッ!?」


全体重が乗った前進脚の右膝。その皿パテラを、硬質の石が砕いた。 オークの体勢が大きく崩れる。 つんのめるように前傾姿勢になる巨体。


その瞬間、オレは加速した。 【敏捷力(DEX)16】のトップスピード。 すれ違いざま、オークが苦し紛れに振り回した裏拳を、紙一重で回避スウェーする。 ブンッ! 風圧が頬を叩くが、当たらなければダメージはゼロだ。


懐に入った。 オレは右手のナイフを逆手に持ち、オークの無防備な喉元へと突き立てた。


《近接攻撃判定:クリティカル・ヒット(Critical Hit)》 《ダメージ計算:1d4 + 筋力修正(+4) = 8ダメージ》


ズブゥッッ!!


肉を裂き、気管を貫通する感触。 ゴブリンのナイフは切れ味が悪い。だが、オレの【筋力(STR)18】が、強引に刃を押し込んだ。 オークの目が見開かれ、断末魔が漏れるはずの喉から、ヒューヒューという空気の漏れる音だけが響く。


だが、まだだ。 生命力(HP)の高いオークは、これだけでは死なない。暴れる前に、機能を停止させる。


オレは突き刺さったナイフから手を離し、オークの腕を両手で掴んだ。 背負い投げの要領で回転させる。 相手の前方への慣性と自重を利用し、さらにオレの筋力を上乗せして地面へと叩きつける。


ズドォォン!!


重い響きと共に、オークが泥の中に沈む。 オレは間髪入れずに倒れた巨体の上に馬乗りになった。 首から生えているナイフの柄を掌底で叩き込み、さらに奥へ、延髄へと到達させる。


《近接攻撃判定(致命打):命中(Hit)》 《ダメージ計算:1d4 + 筋力修正(+4) = 5ダメージ》


グチャリ。


オークの太い四肢が一度だけ大きく痙攣し、そして動かなくなった。


《戦闘終了。勝利》 《経験値(XP)獲得……100》


静寂が戻った荒野で、オレは息を一つ吐き、血のついたナイフを引き抜いた。 脂と血でヌルリとしている。 オレは立ち上がり、ナイフを振って汚れを落とした。 そして、ゆっくりと門の方を振り返る。


櫓の上の兵士たちは、ぽかんと口を開けてこちらを見ていた。 称賛の声はない。 あるのは、理解不能なものを見る「恐怖」の眼差しだ。


「……やはりな」


オレはオークの死体の足首を掴むと、ズルズルと引きずって門の前まで運んだ。 100キロ近い巨体だが、STR18のオレには米俵程度の重さだ。


門の前、5メートルの位置で死体を放り出す。 ドサリ、という音が交渉開始のゴングだ。


「害獣は処理した」


オレは櫓を見上げ、事務的に告げた。


「報酬は金貨でとは言わない。水と寝床、そして情報を要求する。――開けろ」


沈黙。 数秒の後、門の隙間から小声で相談する声が聞こえ、やがて重い閂かんぬきの外れる音がした。


ギィィィ……と、不快な音を立てて門が開く。 現れたのは、武装した自警団員たちに守られた、一人の初老の男だった。 痩せこけて頬骨が浮き出ているが、その目は油断なく光っている。村長だろう。


村長は、まずオレを見て、次にオークの死体を見た。 そして、その視線は死体に長く留まった。喉が動くのが見えた。 食欲だ。彼らは飢えている。


「……見事な手際だ」


村長の声はしゃがれていた。


「だが、勘違いするなよ、余所者ストレンジャー。我々は助けてくれなどと頼んではいない」


「事実として助かっただろう。このままなら柵を突破されていた」


「かもな。だが、お前が来なくても、あと数本の矢を使えば倒せていたかもしれん」


典型的な買い叩きだ。恩を売らせまいとする防衛本能。 村長は冷ややかな目でオレを値踏みした。ボロボロの服、怪しげな風体。


「この村はギリギリなんだ。見ての通り、畑は死にかけ、備蓄もない。お前のような正体不明の男に食わせる飯も、払う金もない」


周囲の村人たちも、敵意を隠そうとしない。 「帰れ」「疫病神め」「また口が増えるのか」。 そんな囁きが聞こえる。


「飯はいらん」


オレは即答した。村長が眉を動かす。


「……なんだと?」


「オレが要求するのは『安全な壁の内側』という空間だけだ。食料は自分で調達する。水は井戸を使わせてもらうが、その対価はこのオークでどうだ?」


オレは足元の死体を顎でしゃくった。


「肉は食えるだろう。皮は防具の補修に使える。牙も売れる。……オレが入場料として払うには、十分すぎる額だと思うが?」


村長の目が、計算高い光を帯びた。 彼は素早くオークの肉付きを確認し、損得勘定を弾く。 このオーク一匹で、村の数日分の食料になる。しかも、オレへの食料提供はゼロでいいという。リスクは「オレを中に入れること」だけだ。


村長は深く息を吐き、周囲の兵士に目配せをした。


「……いいだろう。取引成立だ」


村人たちが安堵と欲望の入り混じった溜息を漏らす。 村長は一歩下がり、道を空けた。


「入れ。ただし、条件がある」


「言ってみろ」


「村の中央区へは立ち入り禁止だ。井戸の使用は朝と夕の二回のみ。……それと、寝床だが」


村長は、村の端にある、ひときわボロボロの建物を指差した。


「あの『納屋』を使え。あそこなら空いている」


その言葉が出た瞬間、周囲の村人たちがギクリと体を強張らせ、顔を見合わせた。 何人かが気まずそうに視線を逸らす。


(……訳あり物件か)


『メタ・ナレッジ』で見ても、建物自体に魔法的な反応はない。 だが、そこには明らかに「人が近づきたがらない理由」がある。村八分にされた場所。あるいは――


「構わん。屋根があれば十分だ」


オレは短く答え、オークの死体を彼らに引き渡した。 村人たちが群がり、死体を解体場へと運んでいく。その必死な様子は、ハイエナの群れを連想させた。


警備兵の一人に促され、オレは村の中へと足を踏み入れた。 内側から見る村は、外見以上に荒廃していた。 道端に座り込む子供たちは腹が膨れ(飢餓特有の症状)、虚ろな目でオレを見ている。 活気などない。あるのは「死なないための停滞」だけだ。


案内された納屋は、村の最奥、森に面した場所にあった。 隙間風が吹き込み、壁は腐りかけている。


「……ここだ。中には『先客』がいるが、気にするな」


警備兵は嫌悪感を露わにし、扉の鍵を開けると、逃げるように去っていった。 まるで、汚染物質でも扱うかのような態度だ。


オレは扉の前に立ち、システムのログを確認した。


《受動知覚:内部に生命反応1》 《状態:極めて危険(Unstable)》


「……なるほど。これが『呪い』の正体か」


オレは軋む扉を押し開けた。 中は薄暗く、カビと藁の匂い、そして微かな「オゾン臭」が漂っていた。 雷が落ちた直後のような、肌を粟立たせる帯電した空気。


オレは足を踏み入れる。 ここが、この世界での最初の拠点。 そして、まだ見ぬ「資産アセット」との出会いの場所だ。

【管理者ステータス】(第2話終了時点)

名前: トール

レベル: Lv.1

クラス: ファイター

HP: 14 / 14


装備:

メイン: ゴブリンの錆びたナイフ(耐久値: 2/10)

サブ: 石ころ × 3

防具: ボロボロの衣服

装飾: なし


能力値:

STR:18 / DEX:16 / CON:18 / INT:13 / WIS:10 / CHA:8


経験値 (XP):

現在: 150 (次Lvまで 150)


所持スキル:

戦闘スタイル(防御)、底力(Second Wind)


【パーティメンバー】

なし

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