第13話 初仕事・泥沼の快進撃③
バルグの街が茜色に染まる黄昏時。
メインストリートを行き交う人々の流れが、ある一点を避けるように不自然に割れていた。
「……うっぷ。なんだこの臭いは?」
「下水か? 誰か肥溜めにでも落ちたのかよ」
道行く人々が鼻をつまみ、顔をしかめて道を空ける。
その中心を歩いているのは、全身を黒緑色のヘドロと、乾いて張り付いたスライムの体液でコーティングされた、二つの人影だった。
オレと、リーズだ。
酸でボロボロになった服は見る影もなく、肌の露出した部分は赤く爛れ、髪は泥で固まっている。
歩くたびに、ブーツの中からグチュッ、グチュッという不快な水音が響き、アスファルトの石畳に黒い染みを点々と残していく。
「と、トールさん……。みんな見てます……。すごく嫌な顔で見てます……」
後ろを歩くリーズが、消え入りそうな声で呟く。
彼女は恥ずかしさのあまり、泥だらけのローブのフードを目深に被り、オレの背中に隠れるようにして歩いている。
年頃の少女にとって、公衆の面前で「汚物」として扱われる屈辱は、オークとの戦闘以上に精神を削るものだろう。
「胸を張れ、リーズ」
オレは重い麻袋を肩に担ぎ直しながら、堂々と言い放った。
「この臭いは『恥』じゃない。……『労働の対価』だ」
オレは鼻腔を刺激する硫黄と腐敗臭をあえて深く吸い込んだ。
確かに臭い。だが、それはオレたちが誰もやりたがらない「3K労働」を完遂し、市場の隙間を独占した証拠だ。
清潔な服を着て、手ぶらで歩いている連中よりも、今のオレたちの方が経済的には遥かに美しい。
「でもぉ……うぅ、早くお風呂に入りたいです……」
「まずは換金だ。……この重りを『数字』に変える」
オレたちは、冒険者ギルド「戦鬼の鉄床」の重厚な扉の前に立った。
中からは、一日の仕事を終えた冒険者たちの喧騒と、ジョッキがぶつかる音が漏れてくる。
オレは躊躇なく、その扉を押し開けた。
ギィィィィ……バンッ。
扉が開くと同時に、ホール内の熱気が外へと溢れ出し――そして、一瞬にして凍りついた。
「…………あ?」
入り口近くのテーブルで飲んでいた戦士が、ジョッキを止めてこちらを凝視する。
次の瞬間、彼の顔色が青ざめ、口元を押さえた。
「うぐっ……!? くっさ!! なんだテメェら!?」
「ドブの臭いだ! 窓を開けろ! 鼻が曲がるぞ!」
怒号にも似た罵声が飛び交う。
数百人の視線が突き刺さる。そのすべてが「不快」「軽蔑」「排除」の色を帯びている。
木級の新人冒険者が、あろうことかギルドに悪臭を持ち込んだ。
彼らにとって、それは許されざるマナー違反であり、格好のいじめの対象だ。
「おいおい、乞食のお出ましだぜ」
「汚ねえなぁ。ギルドはゴミ捨て場じゃねえんだぞ」
嘲笑の波が押し寄せる。
リーズが小さく悲鳴を上げ、さらに縮こまる。
だが、オレは止まらない。
雑音は無視だ。
オレが見ているのは、ホールの奥にある受付カウンターと、そこに座る「査定役」だけだ。
オレはカウンターまで一直線に歩いた。
冒険者たちが、まるで伝染病患者を見るかのように慌てて椅子を引き、道を空ける。
モーゼの海割れならぬ、汚物の海割れだ。
「……い、いらっしゃいませ……? た、頼もしい新人が戻ってきたようですね」
受付のカウンターに行くと、昼間の女性職員が引きつった笑顔で迎えてくれた。
彼女も鼻を少しピクつかせているが、そこはプロだ。業務を放棄したりはしない。
「依頼完了だ。確認してくれ」
オレは肩の麻袋をカウンターに――汚さないように持参した革シートの上に――ドスンと置いた。
重い音が響く。
中身がぎっしりと詰まっている音だ。
「はい、では査定いたします。……中身はスライムの核ですね?」
彼女が手袋をはめ、袋の口を開ける。
中からジャラジャラと溢れ出したのは、緑色に輝く宝石のような結晶体。
「……え?」
職員の手が止まった。
一つ、二つと数え始めるが、袋の底が見えない。
「10、20……50……ま、まだあるんですか?」
「全部で128個あるはずだ。数え直してもいいぞ」
「ひゃ、128個!? いえ、重さで分かりますが……!」
カウンターの奥がざわつく。
通常、スライム駆除の依頼は「5〜10個」持ち帰れば十分な成果だ。
物理攻撃が効きにくい相手を、酸の海で長時間狩り続けるなど、正気の沙汰ではないからだ。
それを、登録初日の新人が、桁違いの数を持ち込んだ。
「……か、確認いたしました。すべて破損なし、良質な核です」
職員は震える手で計算機(そろばんのような道具)を弾いた。
パチパチという音が、オレたちにとっては勝利のファンファーレに聞こえる。
「単価は大銅貨1枚。合計で大銅貨128枚……銀貨換算で、銀貨12枚と大銅貨8枚になります」
「銀貨……!?」
後ろで聞いていたリーズが息を呑む。
銀貨1枚=日本円で約1万円。
つまり、合計12万8千円。
日給としては破格どころではない。鉄ランクのパーティが一週間かけて稼ぐ額を、たった数時間で叩き出した計算になる。
「……支払いは銀貨で頼む」
「か、かしこまりました。……こちらが報酬です」
革袋に入った銀貨が、カウンターに置かれる。
その輝きは、銅貨の鈍い光とは違う。
魔除けの効果を持つという銀の、冷たく美しい輝き。
それが12枚。
オレたちの生存権を、物理的に証明する重み。
「おい、マジかよ……」
「あの新人、初仕事で銀貨稼ぎやがったぞ」
「魔法使いの嬢ちゃんが凄腕なのか?」
周囲の冒険者たちの視線が変わった。
嘲笑や軽蔑ではない。「嫉妬」と「警戒」の色だ。
オレたちがただの木っ端ではないことを、成果(数字)で証明した瞬間だった。
「行くぞ、リーズ」
オレは銀貨を受け取り、呆然としているリーズの背中を叩いた。
「あ、はいっ! ……銀貨、すごいです……本物です……」
「ここから経費を引く。……まずは『人間らしい生活』を取り戻すぞ」
オレたちは悪臭を撒き散らしながら、しかし来た時とは違う、堂々たる足取りでギルドを後にした。
背中に刺さる視線は痛いほどだが、それはもう嘲笑ではない。
オレたちがこの街で、初めて「数字」で実力を証明した瞬間だった。
***
外に出ると、夜の帳が下りていた。
オレは懐の銀貨の重みを感じながら、次なる投資先――宿屋「踊る熊亭」の方角を見据えた。
「お断りだよ! うちの敷居を跨ぐんじゃない!」
宿屋「踊る熊亭」。
扉を開けた瞬間、恰幅の良い女将が仁王立ちでオレたちの行く手を阻んだ。
彼女は鼻をつまみ、ハエを追い払うように手を振っている。
「なんだいその臭いは! 肥溜めで水浴びでもしてきたのかい!? 他の客の迷惑だ、とっとと出て……」
「……交渉の時間だ」
オレは女将の罵声を遮り、懐から取り出したばかりの銀貨を一枚、親指で弾いた。
キィィィン……
硬貨が空中で回転し、鈍い銀色の残像を残して、女将の目の前にあるカウンターに落ちた。
チャリッ、という乾いた音が、宿屋の喧騒を一瞬だけ切り裂く。
「……あ?」
女将の視線が、オレの汚れた服から、カウンターの銀貨へと吸い寄せられる。
銀貨1枚。
この宿の素泊まりなら、一週間は泊まれる額だ。
それを、たった一泊のために提示した。
「一番いい部屋。一番熱い湯。そして、このボロ服の洗濯と乾燥。……食事は部屋まで運んでくれ」
オレは淡々と条件を告げた。
これはただの贅沢ではない。
「衛生環境の改善」と「疲労回復効率の最大化」のための必要経費だ。
悪臭を放つままでは、まともな睡眠も取れず、明日のパフォーマンスに支障が出る。
「……ちっ。金払いがいいなら客は客だよ」
女将は素早く銀貨を鷲掴みにし、懐にねじ込んだ。
現金の力は偉大だ。生理的嫌悪感さえも、ビジネスの論理で上書きできる。
「湯はすぐに沸かしてやる。……ただし、廊下を汚すんじゃないよ! 泥を一滴でも落としたら追加料金だ!」
「契約成立だ。……行くぞ、リーズ」
「は、はいっ! ……お風呂、お風呂ぉ……」
リーズが涙目でついてくる。
彼女の限界はとっくに超えていた。
ただ「熱いお湯」という報酬だけが、彼女の足を動かしていた。
1時間後。
オレたちは宿の2階にある、上級客室のテーブルを囲んでいた。
「……生き返りました……」
リーズが、湯上がりの頬を紅潮させ、夢見心地で呟く。
ヘドロと酸で固まっていた銀髪は、洗いたての絹糸のようにサラサラと輝き、彼女本来の美しさを取り戻していた。
肌の爛れも、レベルアップによる再生と清潔な環境のおかげで、赤みが引いている。
安っぽい貸し出し用のチュニックを着ているが、今の彼女はどこかの深窓の令嬢と言われても通じるだろう。
オレもさっぱりとした気分だ。
皮膚にこびりついていた腐敗臭は、強い石鹸と熱湯によって完全に除去された。
今は石鹸の香りと、テーブルの上に並べられた料理の湯気が、部屋を満たしている。
「食事だ。……補給を急げ」
テーブルには、湯気を立てる「羊肉と根菜のポトフ」、表面がパリッと焼かれた「白パン」、そして新鮮なチーズと果実水が並んでいる。
昨日の黒パンとは雲泥の差だ。
「い、いただきますっ!」
リーズが白パンを手に取る。
ちぎった瞬間、ふわりと小麦の甘い香りが漂う。
彼女はそれをポトフのスープに浸し、口へと運んだ。
「んぅ……ッ!!」
リーズの動きが止まる。
そして、大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「……おいしい……柔らかいですぅ……」
「よく噛んで食え。胃が驚くぞ」
オレも肉を口に運んだ。
ホロホロに煮込まれた羊肉の脂が、舌の上で溶ける。
塩味と野菜の甘み。
脳の報酬系が強烈に刺激される。
CON19の肉体が、栄養素を貪欲に吸収し、細胞の一つ一つに行き渡らせていく感覚。
(……やはり、文明的な食事は必須だ)
オレはエール(麦酒)で喉を潤しながら、再確認した。
精神の安定にかかるコストは、決して無駄ではない。
この一食が、明日の死地での集中力を生むのだ。
食後。
空になった皿が下げられると、オレは革袋から残りの銀貨を取り出し、テーブルの上に積み上げた。
チャリン、チャリン……。
銀貨11枚と、大銅貨4枚。
ランプの灯りに照らされ、鈍く輝く金属のタワー。
リーズがそれを、信じられないものを見るような目で見つめている。
「……これ、全部私たちのものなんですよね?」
「そうだ。……だが、勘違いするな」
オレは銀貨の山を崩し、テーブルの上に広げた。
「これは『貯金』じゃない。『次の弾薬』だ」
「弾薬……?」
「金は持っているだけでは意味がない。インフレや盗難のリスクに晒されるだけだ。……オレたちはこれを全額、明日の『装備更新』に投資する」
オレは羊皮紙を取り出し、羽ペンで図面を引き始めた。
トール流のポートフォリオ(資産配分)だ。
「まず、オレの武器だ。……あの錆びた槍はもう限界だ。スライム相手ですら柄が腐食しかけていた。次は『鉄製のメイス』か『ハルバード』を買う。予算は銀貨4枚」
「つ、次は私ですか?」
「ああ。……お前のローブだ。酸で穴だらけになったボロ布じゃ、防御力も魔力耐性もゼロだ。……『魔導師用のローブ』を新調する。予算は銀貨3枚」
「銀貨3枚!? そんな高い服、着たことないです!」
リーズが慌てて手を振る。
村娘の感覚では、銀貨3枚は大金だ。
だが、オレは首を横に振った。
「必要経費だ。お前が風邪を引いたり、流れ弾で死んだりしたら、オレの火力(DPS)がなくなる。……自分を安く見積もるな」
「トールさん……」
リーズが頬を染めて俯く。
オレの言葉を「大切にされている」と解釈したようだ。
まあ、間違いではない。資産防衛の一環だ。
「残りの銀貨4枚は、消耗品と当面の生活費だ。……ポーション、保存食、松明。それと……」
オレはリーズを見た。
彼女の手にある杖。初期装備の「樫の木の杖」だ。
まだ使えるが、彼女の魔力(CHA)の成長に追いついていない。
「……杖のメンテナンスも必要だな。魔石を埋め込んで出力を上げる」
「えっ、いいんですか? でも、お金が……」
「稼げばいい。……装備が良くなれば、より強い敵を、より速く狩れる。そうすれば、金の回転率(ROI)が上がる」
オレは銀貨を握りしめた。
この世界は、弱者から搾取するシステムで回っている。
強くなることだけが、搾取される側から搾取する側へ回る唯一の手段だ。
「明日は忙しくなるぞ。……買い物をして、装備を整えたら、次は『鉄級』への昇格試験を受ける」
「て、鉄級……! 私たちが、もう?」
「今回のスライム討伐で実績は十分だ。……これからは、もっと効率よく、もっと大規模に稼ぐ」
オレはランプを消した。
部屋が闇に包まれる。
だが、窓から差し込む月明かりが、清潔なシーツを白く浮かび上がらせていた。
「寝ろ、リーズ。……明日は早い」
「……はい。おやすみなさい、トールさん」
リーズがベッドに潜り込む衣擦れの音がする。
やがて聞こえてくる、安らかな寝息。
泥と悪臭にまみれた昨夜とは違う、平和で満ち足りた夜。
オレも目を閉じた。
ふかふかの枕に頭を沈める。
意識が闇へと落ちていく中で、オレの脳内では、すでに明日のショッピングリストと、攻略ルートのシミュレーションが始まっていた。
生存戦略、フェーズ1完了。
初期資金の確保と、生活基盤の確立。
次はフェーズ2――「戦力の拡充」と「社会的信用」の獲得だ。
(……悪くないスタートだ)
オレは微かな笑みを浮かべ、深い眠りへと落ちていった。
【管理者ステータス】
■トール レベル: Lv.3 クラス: ファイター
HP: 34 / 34
装備:
メイン: なし
サブ: なし
防具: 平服
装飾: なし
能力値:
STR:18 / DEX:12 / CON:19 / INT:16 / WIS:14 / CHA:10
所持スキル:
底力、受動知覚、次元を超えた知識、怒涛のアクション
【パーティメンバー】
■リーズ (Lv.3 / ソーサラー(竜の血脈))
HP: 14 / 14
装備: [樫の木の杖][平服][なし]
状態: 健康(満腹・清潔)




