第12話 初仕事・泥沼の快進撃②
「来たぞ。……頭上だ」
オレの警告とほぼ同時だった。
天井の苔むした石積みの隙間から、緑色の粘液の塊が、重力に従ってボタリと落ちてきた。
ベチャッ。
湿った衝突音が響く。
落ちてきたアシッド・スライムの一匹が、オレの左肩に直撃した。
《回避判定:失敗(Fail)》
瞬間、巻き付けていたボロ布から、白い煙と共にジュウウウッ……という嫌な音が立ち昇る。
強酸による化学腐食音だ。
「ヒッ……! ト、トールさん! 煙が!」
「騒ぐな。……表面の布が焼けているだけだ」
オレは冷静にダメージ計算を行った。
《ダメージ計算:1d4(酸) - 装甲軽減(3) = 0ダメージ(布が腐食)》
スライムの酸性度は推定pH1.5前後。
布一枚を貫通するのに約3秒。その下の層を食い破るのにさらに10秒。
皮膚への到達までは猶予がある。
初期投資した銅貨12枚分のボロ布は、期待通りの防護性能を発揮している。
だが、敵は一匹ではない。
ボトッ……ベチャッ、グチャッ……!
天井全体が剥がれ落ちるように、次々とスライムが降ってくる。
緑色の雨。
あるいは、汚泥の雪崩。
狭い下水道の通路は、瞬く間に蠢く粘液で埋め尽くされようとしていた。
「下がるな、リーズ」
オレは一歩も引かず、むしろ半歩前に出て、通路の幅いっぱいに身体を広げた。
「オレが栓になる。……お前は後ろで詠唱準備だ」
「で、でもっ! そんなにたくさん……!」
「いいから構えろ。……これは『集敵』だ」
オレはボロ布を巻いた両腕を広げた。
攻撃するためではない。
敵をオレの身体に「接着」させるためだ。
スライムたちにとって、通路を塞ぐ巨大な熱源は、障害物であると同時に極上の餌に見えるはずだ。
彼らは本能に従い、リーズの方へは向かわず、全てオレに群がってくる。
ヌルリ……。
足元から這い上がってきたスライムが、ブーツを覆い尽くし、脛へと登ってくる。
肩に乗った個体が分裂し、首筋へと垂れ下がる。
正面から飛びかかってきた個体が、胸板に張り付く。
「ぐっ……」
オレは歯を食いしばり、STR18の筋力で足を踏ん張った。
《抵抗判定:成功(Success)》
重い。
一匹あたり5キロとしても、10匹張り付けば50キロの負荷だ。
それが全身にまとわりつき、さらに酸で装備を溶かしてくる。
【警告:装甲耐久値低下】 【警告:継続ダメージ(DoT)発生】
ボロ布の第一層が溶け落ち、第二層が食い破られ、ついに酸がオレの表皮に到達した。
ジリジリとした熱さ。
その直後、神経を直接火箸で撫でられたような鋭い痛みが走る。
(……右腕、表皮溶解。左大腿部、軽度の化学熱傷。HP減少率、毎秒0.5%……)
《ダメージ計算:1d6(酸・集中) + 継続ダメージ = 4ダメージ》
脳内で冷静に被害状況をモニタリングする。
痛い。当然だ。
だが、CON18という異常な耐久値が、肉体の崩壊を際どいところで食い止めている。
普通の人間ならショック死しかねない激痛も、オレにとっては「耐えられる数値」でしかない。
「う、うわぁぁぁぁっ!!」
背後でリーズが絶叫した。
彼女の視点では、オレの姿は地獄絵図そのものだろう。
全身を緑色の粘液に覆われ、煙を上げ、肉が焼ける臭いを撒き散らしている男。
ホラー映画の犠牲者だ。
「と、トールさんが……溶けちゃいますぅ!! いやぁぁッ!!」
リーズが錯乱し、杖を取り落としそうになる。
無理もない。彼女はこの間まで村娘だったのだ。
だが、ここで彼女がパニックになれば、オレたちは全滅する。
「泣くなッ!!」
オレはヘドロと酸にまみれた顔を上げ、裂帛の気合いで怒鳴った。
《威圧判定:成功(Success)》
「見ろ、リーズ! ……オレはまだ立っている!」
「ひっ……!?」
「これは計算の上だ! 経費(HP)を払って、利益(勝利)を買っているんだ! ……オレの投資を無駄にする気か!?」
オレの声に、リーズがハッとして涙を拭う。
彼女は震える手で杖を握り直した。
「……ま、まだ、生きて……?」
「当たり前だ。……オレは死なん」
オレは首に巻き付こうとしたスライムを素手(ボロ布越し)で引き剥がし、地面に叩きつけた。
手のひらが焼け爛れるが、無視する。
《ダメージ計算:酸接触(1) = 1ダメージ》
「見ろ、敵はすべてオレに集まった。……一直線だ」
狭い通路。
オレという壁に群がるスライムたち。
それは、範囲魔法を撃ち込むために用意された、完璧な「的」だった。
一匹ずつ倒せば、武器の消耗も時間もかさむ。
だが、まとめて焼けば、コストは「魔法1発分」で済む。
「……ま、まとめて……?」
リーズの目に、理解の光が宿る。
恐怖が、戦術的な思考へと切り替わっていく。
オレがなぜ、馬鹿みたいに正面で耐えているのか。
その意図を理解した瞬間、彼女の魔力が高まった。
「……どいてください、なんて言っても、無理ですよね」
「ああ。……オレごと焼くつもりで撃て」
オレはスライムの重みに耐えながら、ニヤリと笑った。
足元の汚水が、魔力の余波で波紋を描く。
ヘドロの腐敗臭と、酸の刺激臭が充満する閉鎖空間。
そこに、新たな熱源が発生する。
リーズが杖を突き出す。
その先端に、紅蓮の炎が圧縮されていく。
彼女の才能。高い魔力適性。
それが今、生存本能というトリガーによって解放されようとしていた。
「トールさんが……熱くないように、すぐに終わらせますッ!!」
「いい火力(DPS)だ……来いッ!!」
オレは全身の筋肉を硬化させ、衝撃に備えた。
目前のスライムたちが、魔力の高まりを感知して怯むように震える。
だが、もう遅い。
逃げ場はない。
「【バーニング・ハンズ(燃える手)】!!」
《呪文行使判定:クリティカル(Critical)》
少女の叫びと共に、薄暗い下水道が真昼のように明るく照らし出された。
ゴウウウウウウウウッ!!
リーズの杖から放たれた扇状の炎が、狭い下水道の空気を一瞬で喰らい尽くし、爆発的な熱波となって押し寄せた。
視界が真白に染まる。
それは魔法というより、指向性のガス爆発に近かった。
「……熱いな」
オレは炎の渦の中心で、冷静に感想を抱いた。
事前に被っておいた下水(水分)が、瞬時に沸騰し、蒸気の膜となってオレの皮膚を覆う。
ライデンフロスト効果。
直火のダメージは軽減されるが、代わりに蒸し焼きにされるような高熱が全身を襲う。
《ダメージ計算:4d6(火炎・クリティカル) + 魔力修正 = 24ダメージ》 《抵抗判定:成功(半減) = 12ダメージ》
だが、オレに張り付いていたスライムどもにとっては、それは「死」そのものだった。
『ギィィィ……ジュッ、ボシュッ……!』
断末魔を上げる暇すらなかった。
水風船が破裂するように、スライムの体液が一瞬で沸騰・蒸発する。
粘液質の身体が炭化し、黒い煤となって崩れ落ちていく。
オレの身体を締め付けていた重みと、皮膚を焼く酸の痛みが、熱波と共に消し飛んだ。
(……殲滅確認。……被害軽微)
オレは顔を庇っていた腕を下ろした。
眉毛と髪の毛先がチリチリに焦げているが、CON18の皮膚は赤く火照っている程度だ。
銅貨12枚で買ったボロ布は完全に灰になったが、これは必要経費だ。
炎が収まると、そこにはもう、蠢く緑色の悪夢は存在しなかった。
代わりに、通路一面に立ち込める濃密な水蒸気と、鼻をつく焦げたタンパク質の臭い。
そして、足元のヘドロの中に散らばる、無数の輝きだけが残っていた。
「はぁ……はぁ……! ト、トールさん……!?」
蒸気の向こうから、リーズの悲鳴に近い声が聞こえる。
彼女は腰を抜かし、涙目でこちらを見つめていた。
黒焦げの壁、蒸発した汚水、そしてその中心に仁王立ちする男。
彼女の目には、オレが不死身の怪物か何かに見えているのかもしれない。
「……見事な火力(DPS)だ、リーズ」
オレは煤けた顔でニヤリと笑った。
喉が渇いている。高温の空気を吸い込んだせいで、気管がヒリヒリする。
「え……い、生きて……無事、なんですか……?」
「無事だ。……少しサウナが過ぎたがな」
オレは足元を見下ろした。
黒く炭化したスライムの残骸。その中に、緑色に光るビー玉のような結晶が残っている。
スライムの核だ。
一つにつき大銅貨一枚。
ざっと数えて、20個以上はある。
「……入れ食いだな」
これは掃除ではない。収穫だ。
オレはリーズに向かって手招きした。
「まだ終わっていないぞ。次が来る。……その前に回収だ」
「は、はいっ!」
リーズが慌てて立ち上がる。
彼女の顔から、恐怖が消えていた。
自分の魔法が、あの生理的に無理な敵を一掃できる「絶対的な洗剤」になると知ったからだ。
嫌悪感は、征服感へと変わりつつある。
オレたちは先に進んだ。
次なる獲物の群れを求めて。
この汚泥の海は、オレたちにとっては黄金の鉱脈に他ならない。
***
「……回収作業だ。ここからが本当の『仕事』だぞ」
オレはしゃがみ込み、まだ熱を帯びているヘドロの中に、躊躇なく素手を突っ込んだ。
ヌルリとした不快感。
指の間を、スライムの死骸であるゼリー状の炭化物と、都市の汚泥が混じり合った黒い液体がすり抜けていく。
普通の神経なら、悲鳴を上げて手を洗いに走るレベルの不潔さだ。
「ひっ……!?」
リーズが顔をしかめる。
生理的嫌悪感。当然だ。ここは街の排泄物が集まる場所であり、さらに強酸と焦げたタンパク質が混じった最悪の混合物だ。
だが、オレの指先は、泥の中に沈む「硬質な異物」を確かに捉えていた。
「何をしている、リーズ。お前も拾え」
オレは泥の中から核を掴み出し、腰の麻袋に放り込みながら言った。
カチリ、と硬い音がする。
「えっ……い、嫌です! 無理です! 素手なんて……!」
「計算してみろ」
オレは拾い上げた核を一つ、指先で摘んで見せた。
ヘドロまみれだが、ボロ布で拭えば、エメラルドのように美しい緑色の輝きを放つ結晶体だ。
「この核一つで、報酬は大銅貨1枚。……地上の相場で言えば、柔らかい白パンが3つ、具入りのスープが2杯食える額だ」
「……え?」
リーズの動きが止まる。
彼女の脳裏に、昨晩のゴムのような黒パンと、今朝の空腹で目が覚めた惨めな記憶がフラッシュバックする。
「ここには、ざっと20個以上の核がある。……全部拾えば、今夜は宿のふかふかのベッドで眠り、肉の入ったシチューを腹いっぱい食えるぞ」
「に、肉……シチュー……」
リーズがゴクリと喉を鳴らす。
彼女の中で、「生理的嫌悪」と「生存本能」が激しく天秤にかけられる。
「汚いと思うな。……これは『泥』じゃない。『換金前の硬貨』だ」
オレの言葉が決定打となった。
リーズはおずおずと近づき、顔をしかめながらも、震える指先をヘドロへと伸ばした。
「……うぅ……パンのため……お肉のため……」
「そうだ。……感情を殺せ。利益だけを見ろ」
オレたちは黙々と作業を続けた。
泥を掬い、指先の感触で硬い異物を探り当て、袋に入れる。
爪の間に汚泥が入り込む。臭いが皮膚に染み付く。
だが、袋が重くなるたびに、オレたちの「明日」が確実なものになっていく。
その後も、オレたちは作業を続けた。
地下水道は広大だ。進めば進むほど、新たなスライムの群れが現れる。
普通なら、酸による装備の消耗か、魔力切れ(ガス欠)で撤退を余儀なくされるところだ。
だが、オレたちにはその限界がない。
【戦術:永久機関】
1.オレが集める(ボロ布は溶けたら予備を巻く)。 2.リーズが焼く(ソーサラーの魔力回復機能でMPを維持)。 3.回収する。
このサイクルが完成していた。
恐怖は消え、単純作業特有の没入感(フロー状態)へと移行していく。
50匹。80匹。100匹……。
作業開始から2時間が経過した頃だった。
オレが105個目の核を袋に放り込んだ直後、身体の奥底でドクンと心臓が跳ねた。
疲労ではない。
もっと根源的な、魂の器が拡張される感覚。
《経験値閾値を突破》 《レベルアップ要件達成:Lv 2 → Lv 3》
オレの脳内に、無機質なシステムログが表示される。
通常、新人がLv3に上がるだけでも数十回の依頼達成が必要だ。
だが、今回は「格上の群れ」を「単独パーティ(2人)」で、しかも「異常な数(100体以上)」殲滅した。
リスクに見合うだけのリターン(経験値)が、一気に入ってきたのだ。
オレは【承認】を念じた。
瞬間、全身を駆け巡る熱い奔流。
酸で爛れていた皮膚が、急速に剥がれ落ち、その下から真新しい、より強靭な皮膚が再生していく。
筋肉の繊維がさらに太く、密になり、骨格が鋼鉄のように硬化する。
【トール:Lv3】 HP: 24 → 34 (大幅上昇) STR: 18 (維持) CON: 18 → 19 (耐久値上昇) クラス特徴:【戦士の類型】選択可能
身体が軽い。
連戦による疲労が完全に消え去り、全能感が満ちてくる。
生物としての「格」が一段階上がった実感。これなら、オーク相手でも素手で殴り殺せる確信がある。
「あ……ッ!?」
隣でリーズも短く声を上げ、その場に膝をついた。
彼女の身体が、薄暗い地下道で淡い光を帯びている。
「トールさん、私、なんか変です。……魔力が、溢れてきそうで……」
リーズが自分の手を見つめる。
彼女の中の「魔力回路」が拡張され、より太く、強靭なものへと作り変えられていくのが『メタ・ナレッジ』を通して視える。
消費していたはずのMPが、レベルアップに伴う全回復によって満タンまで巻き戻る。
「強くなったんだ。……我慢して稼いだ『ご褒美』だと思え」
「すごい……疲れが、全部なくなりました! これなら、もっといけます!」
リーズの瞳に、狩人の色が宿る。
魔力が尽きない砲台。
それはこの地下水路の生態系にとって、悪夢以外の何物でもないだろう。
「よし。……袋がいっぱいになるまで狩り尽くすぞ」
オレたちはさらに奥へと進んだ。
もはや作業ではない。一方的な蹂躙だ。
最終的に、麻袋が物理的に限界を迎えるまで狩り続け、オレたちが地上への梯子を登ったのは、日が傾きかけた頃だった。




