タイトル未定2025/11/02 15:58
1 雨の字
雨の字は、下手に書くと、ひとの顔みたいになる。
三本の点が、涙のように見えるからだろうか。あるいは、たまたま今日の雲が、私の目の高さに顔を吊しているからだろうか。
仕事の帰り道、信号待ちの人だかりの端で、青いビニール傘が擦り切れた犬みたいに伏せていた。骨の一本が少し曲がって、透明の膜が濡れたアスファルトに貼りついている。誰のものでもないふりをして、誰かに踏まれるのを待っている。
拾い上げると、柄の部分に小さく白いシールが貼ってあった。ボールペンで「7/17」と書かれている。私は日付に弱い。記念日でもない日付を見つけてしまうと、そこに意味を探したくなる。七月十七日。私が陽斗と別れて、ちょうど一年が経った日付。
ふつうなら偶然で片づけるところを、私は偶然を信じない。信じないからこそ、拾ってしまう。
歩き出して、傘を開いた。
瞬間、内側の膜に文字が浮かんだ。
——君の泣く顔は嫌いだ。
——あの日のことは事故だ。
——でも、君が謝らないから、僕ばかりが悪者になった。
雨粒が一滴落ちるたび、薄いインクがにじむように、言葉は濃くなっていった。ビニール傘の透明は、突出した秘密のために作られていたのだと思うほど、明瞭に。
わざと息を止める。読みたくないのに、目が勝手に追いかける。句点の位置、語尾の癖。「僕」という一人称。文字の右上がり。知っている。誰のものでもないふりをしたこの傘は、誰かのものだ。
陽斗。
口の中で彼の名前を転がすと、雨の音が少しだけ遠のいた。
私たちは二年前に出会って、一年前の七月十七日に別れた。河川敷のベンチで。汗で手のひらがべたつく夏の終わりに、私のほうから「もうやめよう」と言った。「やめる」という言葉が、恋の終わりのどの部分を指すのか、あのときの私はよく分かっていなかった。彼は黙って頷いた。何も責めない、何も助けない、あの無言の頷きが、ずっと私を責め続けている。
信号が変わった。渡りながら私は、傘の内側をもう一度見上げる。
——君を傷つけるつもりはなかった。
——僕は、ただ雨をやりすごしたかっただけだ。
雨を? やりすごす? 詩人みたいな言い回しは、彼の癖ではない。けれど、右上がりに崩れる「だ」の字は、まぎれもなく彼のものだ。
私は、青い傘をたたまずに、駅へ向かった。傘の内側に揺れる文字は、私ひとりのための字幕だ。誰にも読まれない場所で、誰にも聞こえないように告白される言葉。濡れた床に映る青の反射が、私の靴底を薄く冷やしていく。
ホームに降りる階段の途中で、ふと、柄の白いシールが指先に触れた。薄く剥がれかけている。私は親指で角を押さえ、もう一度日付を確かめる。七月十七日。
雨粒が大きくなる。傘の内側の文字が、濃く、深くなっていく。私は、濡れる人々の肩越しに、行き先表示板の数字を見た。あと五分で電車が来る。五分あれば、もう一度、全文を読むことができる。
私は読む。
読んでしまう。
読んで、濡れないでいる。
そして気づく。
——この傘に書かれた文字は、ペン先の引っかき傷みたいに浅い。ビニールの内側から書かれている。外からなら、雨でにじんで消えてしまう。
つまり、書いた人間は、傘の内側に頭を入れて、逆さに字を書いた。
私が初めて彼の部屋で見た、あの不器用な反転の練習。洗面所の鏡に向かって、左手で自分の名を書く遊び。右と左が入れ替わると、体が少し浮いた気がする、と言って笑った彼。
右上がりの癖は、そのときも変わらなかった。
私は、電車の風を頬に受けながら、確信した。
——これは陽斗の傘だ。
そして、——これは陽斗の謝罪だ。
私に必要だったのは、遅れて届く謝罪だった。遅いからこそ、読むに値する言葉。もう私が手放したはずの過去を、雨の粒にふくらませて、戻してくれるもの。
電車が入ってきた。私は傘をたたみ、乗り込む。窓に雨が打つ音を、胸の中にしまい込む。
数駅先で降りると、私はホームのベンチに腰をおろして、スマホを取り出した。陽斗の連絡先を選ぶ。去年の夏、最後にやり取りをしてから、画面はずっと死んだままだ。
文字を打つ。
《あなたの傘を拾いました》
送信ボタンの上で、指が止まる。
私は消す。
《あなたの謝罪を読みました》
また止まる。
私は、指を引っ込めて、代わりに傘を見た。青いビニールに、まだ薄く「僕ばかりが悪者になった」の行。私の喉が渇く。喉は渇くのに、舌は雨を味わっている。
送らない。
送らないほうが、言葉は濃いままだ。
2 既視感の文具店
翌日、雨は上がっていた。
私は傘を持って、駅前の小さな文具店に入る。昔からある店だ。小学二年の夏、自由研究のノートを買いに母と来て、表紙の色で泣いた店。赤がよかったのに、母は「女の子だから」といって桃色を買った。私の中の小さな反抗は、そのとき始まって、その後いちども終わらなかった。
店主は七十代ぐらいの女性で、声の角がやわらかい。私は傘を広げて見せるわけにはいかないから、訊き方を工夫する。
「ビニール傘の内側に書けるペンって、ありますか」
店主は眉を上げて、少し笑った。「おもしろいことをするのねえ」と言ってから、ペンの棚に私を案内する。
「水性の顔料インクで、乾けば雨でも落ちにくいのがこれ。けど、ビニール傘は表面に加工してあって、完全には定着しないのよ。雨が当たると、かえって字が浮き出ることがあるわね」
私はあいづちを打つ。店主は続ける。
「で、内側から書くでしょう? そのとき、鏡文字になるわよ。慣れてないと、右上がりが極端になったり、行間が詰まったりするの」
「右上がり……」
「そう。あなた、右ききね? 右ききが内側から書くと、自然に上へ持ち上がるの。不思議とね。左ききなら、逆に下がることが多い」
私は、棚の前で立ち止まったまま、指先だけが動く。ペンを一本手に取り、キャップを開ける。ほのかにアルコールの匂いがした。
「これ、去年の夏ごろに入れたんだけど、よく売れたのよ。若い人が傘を持ってきて、試し書きしていったわ。内側からね。……あら、あなた、どこかで見た顔」
私は顔を上げる。
「私、ここで何か買いましたか」
「いいえ、買ってはないの。傘を持ってきて、内側にね、小さな字で。たくさん。……いま思い出したわ。あのときも、雨上がりだった」
店主の目は、私の背中の青い傘を見ている。私の口の中が少し塩辛くなる。
「その人、どんな手でしたか」
「小さくて、指が細くて、爪に透明のコートを塗ってた。手の甲にホクロがひとつ。右手の、ここ」
店主は自分の手の甲を指さす。場所は、私のと同じ。
私は傘の柄を握り直す。
「女の人でした?」
「ええ。あなたくらいの年。……あら、やっぱり、あなたね。わたし記憶はいいほうなの」
私は笑い返すことができない。店主は悪気のない顔で、あっけらかんと続ける。
「あなた、傘の内側に、誰かに宛てて文字を書いてたの。ちゃんと、宛名まで。『君』って。楽しそうとは言えない顔だったけど、真剣で。わたし、止めようか迷ったけど、若い人は書いてすっきりするならそれでいいかと思って」
「宛名は、『君』だったんですね」
「ええ。……あら、違ったかしら」
私は首を横に振る。違わない。違わないのに、心臓が別の答えを探している。
店主は私にペンを握らせたまま、会計カウンターの下から古いレシートを取り出した。すみっこに、癖のある「だ」の字が並ぶメモ。
「そのとき、その子が『試し書き』って言って書いたの、捨てられなくてね。字の癖がきれいだったから。右上がりで」
私は、レシートの端の「だ」を見つめる。
内側から書いた字は、鏡に映したみたいに、少しだけ、息を止めている。
3 右上がりの癖
家に帰って、私は机の引き出しをあさった。去年の夏のノート。見つからない。手帳。見つからない。
かわりに出てきたのは、小さな録音用のボイスレコーダー。銀色の、古い機種。大学の卒論のインタビューで使ったまま、放ってあったもの。
充電して、再生ボタンを押す。
最初は、古いバス停のアナウンスや、講義の声。飛ばしていくと、夏の蝉の音が混ざった、私の声が出た。
《七月十五日。雨。——書くこと。書かないこと。どっちのほうが楽か、わからない》
《七月十六日。ペンのインクが浅い。濡れたら濃くなるって、店のおばあさんが言ってた》
《七月十七日。やめるのは、私。やめ続けるのも、私。君に謝らせるための傘。内側から書けば、外に出られない言葉になる》
私は、再生を止める。
胸の中で、誰かが階段を下りてきた音がした。足音は私のもので、靴は昨日の雨で少しだけ重い。
私は、去年の夏、確かにこの家で言葉を練習して、傘の内側に逆さの文字を書いた。
——君の泣く顔は嫌いだ。
——あの日のことは事故だ。
——でも、君が謝らないから、僕ばかりが悪者になった。
全部、私の言葉だ。
「僕」という一人称も、彼のものではない。私は、彼の声色を借りるのが上手かった。彼が言いそうな言い回しを集めて、傘の内側から、私に向けて投げ返した。
なぜそんなことをしたのか。
理由は単純だ。謝りたかったのだ。自分で自分に。
あの河川敷のベンチで、私は彼に「やめよう」と言った。言葉の意味を分からないまま。彼は黙って受け入れた。その沈黙が、私を赦してくれると思った。けれど、沈黙は赦しではない。私の耳が勝手に赦しにしただけだ。
赦しは、もらうものではなかった。
赦しは、与えるものでもなかった。
赦しは、書くものだった。書いて、自分に向けて読むものだった。
私は、青い傘を部屋の中で開いた。窓は閉めてある。雨はない。薄く、文字は見えるが、浅い。
私は浴室に移動して、シャワーのミストを弱く噴いた。
文字が、ふたたび浮かび上がる。
右上がり。句点の位置。行間の詰まり。
全部、私の癖。
私の書いた謝罪は、私にしか濃く見えないように作られていた。
私は、レコーダーの再生ボタンをもう一度押す。
《七月十七日。傘を捨てる。拾う人がいなければ、雨に消える。拾う人が私なら、私に返る》
《陽斗へ。君が悪者になるように、私が仕立てた物語を、今日でやめる。——これを、読む私へ》
《読む私へ。君の泣く顔は、私が嫌いだ。君を傷つけるつもりはなかった。君が謝らないから、私ばかりが悪者になった。……だから、謝ってください》
録音はそこで切れた。
私は、浴室の床にしゃがみ込む。膝に冷たい水が触れる。
謝ってください、は、命令形だ。命令は、相手を選ばない。私が私に命じることができるように、私は彼の声を借りた。
嘘は便利だ。便利な嘘は、救いかもしれない。
けれど、嘘が救うのは、たいていの場合、嘘をついた本人だけだ。
4 河川敷の証明
日曜の午後、雲の底が低く、川の匂いは少し泥っぽかった。河川敷のベンチは、去年も一昨年も変わらない。背もたれの鉄に刻まれた落書きも、変わっていない。「好き」の字はまだ残り、「嫌い」の字は半分消えている。
私はベンチに座って、傘を開いた。雨は降っていない。けれど、川風が浅い湿りを連れてくる。文字は、生き物のように薄く脈打つ。
歩道を、犬を連れたひとが通る。高校生の二人組が、自転車を押して話していく。「既読ついた?」という言葉が耳に残る。
私は、傘を閉じた。
自分で書いた謝罪を、もう一度、声に出して読んでみる。
「君の泣く顔は嫌いだ」
嫌い、は、彼の語彙にはあまりなかった。彼はいつも「苦手」や「避けたい」で済ませた。私にそれが優しさに聞こえて、私は図に乗った。
「事故だ」
事故、は、あの日の喧嘩のことだ。駅の階段で言い合って、私が背を向け、振り返ったとき、彼の腕が私の肩に当たって、スマホが落ちた。画面が割れて、私はそれを、彼に押しつけた。彼は財布を開いて、修理代を差し出した。
あれは事故だ。
事故なのに、私は事件にした。
事件にしておけば、役割が決まる。誰が被害者で、誰が加害者で、私はどちらに立って泣けばいいのか。泣き方を、外側の世界に委ねることができる。
私は、傘の柄に貼られた白いシールをはがして、裏を見る。小さな字で、さらに日付が書かれていた。
——7/17(返却)
返却?
誰に?
私に。
笑い声が、堤防のほうからした。子どもたちが紙飛行機を飛ばしている。紙飛行機は風に嫌われて、すぐに地面に落ちる。拾い上げた子は、もう一度、折り目をなぞる。
私は、傘の骨を一本、少しだけ広げた。
もしここで、この傘を川に投げたら、どれくらいで見えなくなるのだろう。
投げるのは、簡単だ。けれど、簡単なことほど、あとから面倒になる。私は簡単なことが好きで、面倒になったときは、他人の顔を借りて乗り切ってきた。陽斗の顔は、借りやすかった。彼はいつも静かで、私の台詞を黙って受け止めた。受け止めるひとは、借りやすい。
スマホが震えた。画面に、知らない番号。
私は出ない。
出ない、と決めてから、やっぱり出る。
「はい」
「——あの」
少し間の抜けた声。風の音が混じっている。
「傘の、番号、間違ってたらごめんなさい」
陽斗の声ではない。けれど、発音の角が似ている。
「どちらさまですか」
「駅前の文具店で、番号を教えてもらって。青い傘の、持ち主を探してる人がいるって」
店主。
私は胸のどこかが、ほどける音を聞いた。自分の体の中に、結び目が存在していたのだと、そのとき初めて知る種類のほどけ方。
「……私です。探してます。——いえ、探してました、かな」
「もし、よかったら。今日の夕方、駅前で」
電話は切れた。
私は、傘をたたんだ。
返却、という字が、重くなった。
5 さようなら、被害者の私
夕方、駅前のバスロータリー。待ち合わせの目印は、青いポスト。私は傘を持って立つ。
近づいてきたのは、細い肩の女の人だった。髪を耳にかける仕草が、どこか、懐かしい。
「はじめまして」
「はじめまして」
「傘を、捨てたのは、私です」
彼女は、迷いなく言った。私は、息を飲む。
「あなたが、拾ってくれるように、ここに置いた。去年の七月。七月十七日」
「……どうして」
「あなたが、ここを通るから」
私は、彼女を見つめる。知らない顔に、私の表情の型がはめ込まれているような違和感。
「誰、ですか」
「陽斗の——元カノの、元カノ」
順序がおかしい。
けれど、すぐに意味が合う。
「私の、前」
「うん。あなたの前。二年前、あなたと出会う前に、私、陽斗とつきあってた」
彼女は、微笑んだ。疲れた人の微笑みだった。
「あなたと別れた夏に、私、偶然、彼に会って。あなたの話を聞いた。彼は悪者でも、被害者でもなかった。彼は、ただの人だった。——私も、ただの人だった。けど、あなたは『物語』を欲しがってた」
「物語」
「役割がはっきりしてて、拍手のタイミングが決まってて、泣く位置が分かるやつ。私、分かるんだ。私も、そうだったから」
彼女はポケットから細いペンを出して、空中で字の形を作って見せた。右上がり。
「これ、あなたの癖でしょ。私も似てるの」
彼女は続ける。
「あなたが彼を悪者にしないように、あなたが『被害者でいられる傘』を捨てたら、拾って返す人が現れて、物語はやめられる。そう思って、私は傘のことを店の人に頼んだ。あなたが戻ってきたら、渡して、と。返却、って書いたのは、私」
私は、喉の奥が痛くなっているのに気づく。
「どうして、そんなことを」
「自分のため。あなたのためでも、彼のためでもなく。自分が、物語をやめたかったから。ねえ、あなたは、やめられる?」
彼女の目は、私の横顔をまっすぐに通り抜けて、駅ビルのガラスに当たって、跳ね返って私の胸に刺さる。
私は、少しだけ笑ってみせる。
「やめる、って、どうやって」
「書かないこと。書き直さないこと。誰かの声色を借りないこと。——謝ること」
私は、傘の柄を握り直す。
「彼に?」
「あなたに」
夕立ちが、遠くで始まった。十数秒後、こちらにも落ちてくるだろう。
私は、青い傘を開く。文字は、また濃くなる。
君の泣く顔は嫌いだ。
あの日のことは事故だ。
でも、君が謝らないから、僕ばかりが悪者になった。
私は、彼女の前で、その三行を、はっきりと声に出して読んだ。
読み終えると、息が軽くなる。
「ごめんなさい」
誰に向けて言ったのか、最初は分からなかったが、二度目は分かった。
「——ごめんなさい」
私に向けて。
彼女は頷いた。
「それで、たぶん、十分」
雨が落ちてきた。私たちは、傘の中に二人で入る。文字は、私たちふたりに読めるほど濃くはならない。濃すぎる言葉は、一人にしか見えないようにできている。
「この傘、どうする?」
「返す」
「誰に」
「私に。——それから、川に」
「川は何でも飲むから、気をつけて」
「分かってる」
私たちは、ロータリーの端で別れた。彼女の細い肩が雨の向こうに溶けていく。
私は、ひとりで河川敷に向かった。
ベンチに座り、傘をひざに載せる。骨の一本を、慎重に抜く。細い金属は、すぐに冷えて、私の指の温度を吸い取った。
残りの傘は、そっと、川面に置く。浮いた。少し流れて、草に引っかかった。私は、棒切れで届く範囲まで進んで、引っかかりを外す。傘は、私の気の短さを知っているかのように、すぐには進まない。
「行っていいよ」
声に出して言うと、傘はようやく、ゆっくりと、真ん中の流れに戻っていった。
私は、抜いた一本の骨を見つめる。
金属の棒。これがなければ、膜は形にならない。私が抜いたのは、私が見たい形を支えていた部品のひとつだ。
私はそれを、鞄の内ポケットに差し込む。本の栞にしよう。読むべきものを、間違えないために。
雨は強くなった。私の視界は、濡れた世界で満ちた。
私は、レコーダーを取り出して、録音ボタンを押す。
《七月二十日。雨。——書かないこと。書き直さないこと。誰かの声色を借りないこと。謝ること。》
言い終えて、笑ってしまう。
《それでも、書いてしまったら、読めばいい。読む私へ。さようなら、被害者の私。》
録音を止める。
私は、傘のない雨の下を歩き出した。
濡れるほうが、ラクな雨もある。
途中でスマホが震いた。画面には、数字の羅列の発信者。
私は、指を滑らせる。
「はい」
息を吸い込む音のあと、低い声がした。
「——元気?」
陽斗の声。
私は、一瞬だけ、傘を探してしまう。もう手元にはないのに。
「元気」
「店で、番号を聞いた。ごめん。勝手に」
「ううん。いい」
「君の、傘——」
「私の傘は、流れた」
沈黙。
「そっか」
「ねえ」
「うん」
「事故に、していい?」
「いいよ」
彼はすぐに答えた。その速さが、私を少しだけ笑わせる。
「でも、ひとつだけ、お願い」
「なに」
「謝るの、誰にするか、もう間違えないで」
「——うん」
電話は短く切れた。
私は、河川敷の斜面を上がって、街へ戻る。
帰り道、駅前の文具店の前を通ると、店主がシャッターを下ろしているところだった。
「ありがとう」
私は頭を下げた。店主は手を止め、じっと私を見て、笑った。
「よかったわね」
「はい」
「その傘、きれいだったでしょう」
「はい。きれいでした」
「字は、雨が教えてくれるのよ」
私は頷く。
「字が、雨になることも、ありますね」
店主は、意味がわからないという顔をして、肩をすくめた。
家に帰ると、私は濡れた服を脱いで、洗濯機をまわしながら、机の上に本を置いた。しおり代わりの傘骨は、思ったより具合がいい。ページを守って、私を守らない。
守らないものに、守られることがある。
夜、雨は弱まった。窓をほんの少しだけ開けると、街の匂いが戻ってきた。
私は、レコーダーを再生する。
自分の声が、自分を追い越していく。
《さようなら、被害者の私》
私は、返事をしない。
返事をしないことが、返事になる。
ベッドに横たわると、瞼の裏に、青い傘の内側が広がった。
文字は、もう浮かばない。
浮かばないから、読めるものがある。
眠りに落ちる直前、私は、雨の字を思い浮かべた。
三つの点。
私は、一つだけ取り除いた。
泣くための点が、二つになった。
それで、十分だと思った。




