彼岸花の咲く季節に
私には祖父が一人しかいなかった。母方の祖父は自分が生まれるよりもずっと前に亡くなっていたため、祖父という存在は父方の祖父しかいなかったのである。
彼は昔、心筋梗塞で倒れ、後遺症として言語障害、いわゆる構音障害を持っていた。そのため、当時子どもであった自分は祖父が何を喋っているのか聞き取れずコミュニケーションを取るのが難しかった。いや、難しいというよりも諦めていたと言った方が適切だろうか。祖父に話しかけても何と言っているのかあまり理解出来ず、祖母や両親が「こう言っているよ」と補助してくれて会話が出来ていたのを覚えている。子どもだからか、何故かその隔たりが気持ちよくなくで積極的に祖父と会話を出来ない自分がいた。
祖父は自分が中学生の時肺がんを患って、自宅療養をするようになった。祖母がしていた介護を補助するために両親が実家に通うことが多くなり、自分もついていく日々だった。幸い、祖父の家は自宅から自転車で20分くらいの距離であったので、暇があれば一人で行くようにしていた。
自然と会う機会も増えて、その頃からは積極的と言えるほどではなかったが祖父と一人で会話をするようにもなっていた。中学1年生の自分は不真面目に生きていたため、「成績表を見してよ」祖父に言われて1と2しかない成績表を見せたときにはこっぴどく叱られた。彼が肺がんになって半年ばかりが経った秋、主治医に「もう長くはもたないだろう」と言われた。その頃は身近な人が死ぬことに実感がなかったし、弱っていたことは明白だったけれども死ぬとは思うことが出来なかった。
そんな秋、社会科見学で横浜に行く行事があった。その10月12日は近くのお寺で都内でも比較的大きな祭りもありとても楽しみにしていた。わくわくしながら起きた当日の朝、家の空気に違和感を覚えた。眠たげに朝食をとっている自分に母親が夜中に祖父が亡くなったことを知らせてくれた。「何で起こしてくれなかったんだよ。」と理不尽に言葉を吐きつけて私は家を出た。そして、待ち合わせ場所で友達に会ったときに溜めていた涙を流してしまったのを今でも鮮明に覚えている。
のちに聞いた話だが、その日は父が実家に寝泊まりをして、何を思ったのか祖父のベッドで親子一緒に寝たらしい。そしたら、祖父は笑顔でぽっくりと逝ってしまったのだ。息が止まった祖父を初めてみた時、本当に笑顔を浮かべて横たわっていた。「息子の隣で安心してあの世にいけたんだろうね。」とみんなが話していたが、まさにその通りだと思った。そして、墓をどこにするかという話になったときに父の親友が眠っているお寺が候補になかったが、空いていないのだという。そうして別の場所を探しているときにそのお寺から電話があり、お墓の予約にキャンセルが出たらしい。場所はというと父の親友のお墓の真横である。本当に真横の場所である。不思議なことはあるものだ。
そんな祖父は彼岸花が好きだった。彼岸花は秋に咲き、咲いたのちに葉が伸びるという不思議な生態を持っている。そのことから葉見ず花見ずとも呼ばれている花でもある。その生態や毒を持っていることから死人花や幽霊花とも呼ばれており、不吉なイメージを漂わせる花として認知されている。これが中学の時に彼岸の意味も知らずに花の由来だけを調べて知った事だった。そんなことも忘れ、大学受験をする中で彼岸という言葉の意味を知った。彼岸花が好きな祖父が彼岸にいるのだということを知った。そして、自分が此岸にいることも。
心筋梗塞で倒れ、のちに肺がんで苦しんでいた祖父は彼岸で楽しくやっているのだろうか。彼岸花は不吉なイメージがあるため、お花屋さんに並べられることがほぼない。先日、お墓参りにいくときも彼岸花でも添えてやろうかとお花屋さんを巡ったが当然なかった。しかし、彼岸花にも不吉なイメージばかりではないのだ。彼岸花の花言葉には「情熱」や「再会」、「思うはあなた一人」などあり不吉なものばかりではない。彼岸花を置いてくれるお花屋さんがあってもいいだろうと思いながら私はお墓を後にした。
今年の秋は彼岸花がみられるだろうか。
ひょっとしたら秋に咲く彼岸花は秋に亡くなった祖父との「再会」なのかもしれない。