第四話 まさかミケ猫
――口座残高、0円。
スマホの画面に映る数字に、気が遠くなる。
いや、無断で俺の口座から金を巻き上げた挙げ句、残高がゼロってどういうことなんだ、とか。そもそもなんで駄原のスマホアプリが俺の口座と紐づけされてんのか、とか。聞きたいことは山ほどあるが。
駄原は俺の顔を見て、ほんのり小首を傾げた後で、スマホの画面に目を落とす。
「あ、違いました、この画面ではありません。うっかり間違えてしまいました。だいたい、このような些細な問題で、慌てるわけがありませんからね」
「は? いや、それはそれで大問題だが」
「え、何がですか? 信徒の財布は私の財布、小巻くんの口座残高は私の活動資金であり、私のためになることは小巻くんの喜びで――っと、そんな当たり前の話はいいんです。こっちです、見せたかった画面はこっちなんですよ」
こいつ、後で絶対に土下座させてやる……!
俺は仄暗い決意を固めつつ、差し出されたスマホを奪うようにして画面を覗く。いったい駄原は何をそんなに慌てていたのか。気を取り直して確認すると。
――大手芸能事務所、倒産。
ネットニュースになっていたのは、有名な芸能事務所「エリマキトカゲ・プロモーション」が倒産したというニュースだった。たしかこの会社は、数々の有名アイドルグループを運営していたはずだ。
記事によると、どうやら以前から経営不振だった上に、稼ぎ頭だったトップアイドルが卒業や移籍によって次々といなくなり、経営を立て直せなくなってしまったらしい。こんな大手でも潰れることがあるのかと、俺はけっこう驚いてしまった。
「小巻くん。これはやっぱりアイドル活動に影響があると思った方がいいんでしょうか」
「……そうだな。このエリプロって事務所は俺も知ってるくらいの超大手だ。自己破産ってことは、アイドル業界全体にも激震が走ってると思うが」
「そうですか。そうなると、やはりまどかさんの意見をお聞きしたいところです」
確かに、これは今後の動き方にも大きく影響するだろう。まどかさんなら、このあたりの裏事情だって色々と調べられるかもしれない。
「せっかく小巻くんの貯金を全部費やして、エリプロの株をいっぱい買ったのに……倒産だなんて」
「は?」
「いや、なんか大安売りしてるなとは思ったんですよ。これはチャンスだと思って。株っていうのは、安い時に買って、高くなったら売るものです。本当なら、小巻くんの資産をガツンと増やして、ひれ伏して感謝させつつ、私の活動資金をさらに増やす予定だったのですが……まぁ、些細な問題です」
そうして、見た目だけ清楚系黒髪美少女の駄原がウンウンと唸っている様子から視線を逸らす。
すると、近くでニコニコと笑みを浮かべているのは、明らかに日本人とは異なる金髪聖女――『鉄拳』のエリシアさんだった。
「小巻さん。ご理解いただけたかと思いますが……これこそが、駄原天歌様です。私がお目付け役として派遣されてきた理由は、ご覧の通り」
「なるほど、良く分かった――殺れ」
「御意」
エリシアさんは、駄原の頭部をガッシリと掴む。
「ん? エリシア、何をして……やめ、なんかミシミシいって……あ、ああ、ちょ、痛……うあ、あああああああああああああああああ!!!!!」
ペション、と情けない音を立てて、悪は滅びた。
それでも学校は平常運転を続けているあたり、認識阻害の魔法というのは本当に便利なものだと思う。いや、絵面としてはけっこうグロテスクな感じになってはいるんだがな。
◆
『私は信徒の金を株で溶かした駄女神です』
そんな看板を首から下げた駄原を連れ、人通りの多い道をあえて選び、遠回りするように帰宅することにした。
認識阻害があるとはいえ、市中引き回しはやらないと俺の気が済まないからな。そもそも神様だから肉体的にはどうやっても死なないって話だし、罰を与えるなら精神的なものがいいだろう。
「小巻くん。たい焼きを買ってください」
「……首から下げた看板の文章を読め」
「わ、私は信徒の金を株で溶かした駄女神です」
「よし」
ちなみに、貯金はエリシアさんが補填してくれた。それが彼女の役目とはいえ、大変なんだなと少し同情してしまったくらいだ。今度スイーツでも奢ってあげよう。
俺の腕には、エリシアさんから預かった「天誅の腕輪」という魔道具が装着されている。
これはエリシアさんをいつでも呼び出せる魔道具らしい。もちろん叡智の結晶――つまりはスマホで連絡を取ることもできるが、天誅の腕輪を使うとエリシアさんが一瞬で転移してきてくれるというわけだ。
「あまり変なことばかり言ってると、エリシアさんを呼び出すからな」
「分かってますよ。小巻くんは私をなんだと思ってるんですか。これでも女神なんですよ?」
「へぇ。首から下げた看板の文章を読め」
「……私は信徒の金を株で溶かした駄女神です」
「よし」
そうして、ちょうど駅前に差し掛かると。
まるで幽鬼のようにフラフラと歩く女性が、こちらに向かって歩いてきた。年齢は二十代半ばだろうか。
「あ……あ、あ、あ……昌?」
「ん? 誰だ。俺のことを知ってるのか……?」
急に名前を呼ばれて、咄嗟に反応してしまった。
だが、よく見ると見覚えがあるような気がしてくる。この年代で、俺のことを知っている人となると……も、もしかして。
「マコ姉……?」
「そう。そうだよ……忙しさを理由に何年も実家に帰らなかった結果、弟からすら存在を忘れられてしまった薄幸の美女……小巻 真子だよぉ」
「酒臭っ……薄幸ってより発酵してるだろ……」
確かに、もう何年も実家に帰ってこなかったから、どこかで勝手にやってるもんだと思って半ば存在を忘れかけていたが……急に帰ってきてどうしたんだ。
「ヒック……昌の隣に美少女がいるぅ。君、彼女?」
「私は信徒の金を株で溶かした駄女神です」
「にゃはははは。美少女なのに芸人みたーい」
そうして、マコ姉は駄原に近づくと、全身を舐めるようにジロジロと見る。あ、こら、胸を揉むんじゃない。駄原だからなんだか成り立ってるが、他のやつにやったら普通に不審者として通報されるからな。
「ふぅん……駄女神ちゃん。素質あるね」
「あ、信徒第二号になりますか? どうやら小巻くんと同じで認識阻害があまり効かない体質のようですし、協力してくれると私も助かるのですが」
「協力? それはよく分からないけど……」
マコ姉はなんだか楽しそうな様子で、駄原の肩にさっと手を回す。うん、これは完全にセクハラだ。
「あたしの働いていた会社がね……エリマキトカゲ・プロモーションってところなんだけど。急に倒産しちゃってさ。社員に何の事前連絡もなしに」
「え。あのエリプロで働いてたんですか?」
「そうそう。あたしは元々、アイドルをプロデュースしたくてエリプロに入ったわけ。でも、理想と現実は全然違ってさぁ……独立して、自分の事務所を立ち上げたいって思ってたんだ。でも、先行きはあんまり明るくなくてね。ちょっと心が折れかけてたけど」
そうして、マコ姉はニヤリと笑う。
エリプロで働いていたのは初耳だったけど、確かに芸能関係とは言っていた気がするんだよな。こんな近くにアイドル関係者が転がっていたのは盲点だったが。
「駄女神ちゃん。君、アイドルにならない?」
「え、アイドルに? なります!」
「そんなすぐには決められ――って、えええええぇぇぇぇぇぇぇぇ! 即決!? い、いいの? 誘ったあたしが言うのもアレだけど……! 弱小事務所どころか、まだゼロから作っていく段階なんだよ?」
驚くマコ姉に、駄原は胸を張って得意げにする。
「実は誘われる前から、私はアイドルになりたいと思ってましたから。今後のことを色々と考えているところだったので、協力してもらえるならすごく嬉しいんです! マコ社長!」
「しゃ、社長……あたしが社長……くくく」
「うふふ。私がいれば大成功間違いナシです!」
うん。すごくダメそうだけど……大丈夫かな。
駄原とマコ姉を組み合わせても、ろくなことにはならないと思うんだが。しかし俺が戸惑う中、二人の会話はどんどん盛り上がっていく。
「あたしについてきてくれたアイドル候補が一人いるんだよ。棗 静音っていうデビュー直前だった子で、あたしの秘蔵っ子なんだけど……その子と、駄女神ちゃんと、他にも何人か可愛い子を集めてさ。アイドルグループを結成して、あたしの作る新会社の看板を背負ってもらうんだ」
「良いですねぇ、社長……!」
「そうだな、昌は事務で雇ってやろう。給料はドングリで良いよな? ほら、昔集めてたろ」
良いわけないだろうが、こいつ……!
くそ、久しぶりに会っていきなりこれか。いやまぁ、そういやマコ姉は昔からこういう人だった気もするが。いつもいつも、人を雑に巻き込みやがって。
「アイドルは、群雄割拠の時代になった!」
「群雄割拠ですか? マコ社長、それって」
「大手アイドル事務所のエリプロが潰れた結果、有能なアイドルは他社に移籍したり、卒業したり、女優業に転向したり……そんな風にして、各自それぞれの道を歩むことになる。だからこそ、推し難民が生まれ始めているのさ……!」
推し難民。
字面からすると、今まで推していた子が急に引退することになって気持ちの整理を付けられないまま、次の推しを求めて彷徨っている状態……ということだろうか。
「つまりね。これから始まるのは、アイドルたちによる推し難民の奪い合い!!!」
「マコ社長……! 先見の明がある……!」
「ふふん。巨大な資本で支えられていたアイドル産業の一画が突然潰れてしまった。これはチャンスだと、誰もが鼻息を荒くしている状態なんだよ。覚悟しな。ここからの戦いは、かなりシビアなものになる」
なるほど。そんな難しい情勢なのか。マコ姉と駄原で乗り切れるとは、とても思えないんだがな。うーん。
俺が思考を巡らせている間も、駄原とマコ姉は盛り上がっている。
「エリシアは巻き込むとして……そうだ、寸獄かわうさっていうブイチューバーを誘ってみませんか?」
「うーん、ブイとして成功してるからって、アイドルが務まるかは別の話じゃないか? 中の人が可愛いかも分からんし、本人の希望もあるしな。とりあえず声をかけてみたら良いんじゃないか……昌あたりが」
「そうですね。そこは小巻くんにやってもらって……他にアイドルになってくれそうな人というと……うーん、思いつかないですね……マネージャーならまどかさんが適任だと思うんですが……」
すると、マコ姉はふっと俺の顔を見る。
「昌。アイドル候補をスカウトしてきてくれ」
「小巻くん。たい焼き買ってきてください」
「それと事務所も見つけておくんだぞ。安くて立地がいい優良物件だ。ドングリいっぱいやるから」
「たい焼きはあんことカスタードを五つずつ買って、私にお供えしてください。信徒の務めですよ?」
「昌――」
「小巻くん――」
次の瞬間、あたりを強烈な寒気が包んだ。
そして、駄原の後ろでは穏やかな聖女顔で微笑むエリシアさんが、ゴゴゴゴゴゴゴゴと怒気を膨らませて鉄拳を構えていた。もちろん、俺が「天誅の腕輪」で呼び出したんだがな。
「天歌様。反省が足りませんでしたか」
「……チガウヨ。悪イコトシテナイヨ」
「小巻さんに無茶なことを言えば、私はすぐに飛んできますからね。天歌様はいつもいつも――」
さて、駄原のことはエリシアさんに任せるとして。
「マコ姉も。夢を追うのは構わないが、やるべきことはちゃんとやってくれ。大人なんだから」
「うぅ。弟にガチで叱られるのつらたん……」
「はぁ……とりあえず、バイトとして雇ってくれれば仕事はしてやる。事務所の物件を探すのも手伝ってやるが、あんまり良い条件のところは期待するなよ。それから、バイト代はちゃんと日本円で払うこと」
「昌ぁ! うぅ、お前は優しい奴だよ……!」
「近寄るな! 酒臭いんだよ!!!」
それにしても、マコ姉が芸能事務所を作る……か。
アイドルグループとしてデビューするのはまぁ良いとしても、まずはメンバーをどうしようかってところが悩みどころだな。何やら大変なことになってきた気がするが。