片時雨に濡れて(side 日生拠葉)
「………赦さないよ、ヨリ」
「!!」
ガバッと身体を起こすと、掛け布団諸共ベッドサイドの空き缶が宙を舞ってけたたましい音を立てる。
夢……か………また、この夢か……もう何度目だよ……
『お前』はもう、この世に居ないってのに。
『お前』の首を絞めたのは、このあたしなのに。
ベッドサイドに辛うじて引っかかっていた腕時計を眺めると、まだ朝の5時位。起きんのが早すぎたな、とまた寝転ぼうとして、胸の奥から上がってくる衝動に思わず咳き込む。
「……くそっ、マジかよ」
口元を覆った手のひらに点々と飛んだ紅を、寝巻き……ではなくスーツへと擦り付けて無かったことにする。あーそっか、昨日は帰ったらそのまんま寝ちまったんだっけか。さてどうすっかな……寝相の悪さと寝汗でだいぶぐしゃぐしゃだし………
もう一度寝る、という選択肢はもうこの時点で消え失せていて。……とりあえずシャワーだけ浴びとくか。
焼けつくような胃を抱えながら、物の隙間を縫ってのろのろと風呂場まで身体を引きずる。洗濯機のドラムに着ていた服を全部投げ込むと、ゴウンゴウンと蠢くドラムを少しの間ぼーっと眺めてくしゃみをひとつ。そろそろ暖まらないと本気で風邪を引いてしまう。
シャワーヘッドを壁にかけて水栓に手を伸ばすと、ふと目の前の鏡が目に入る。…曇ってよく見えないな、とシャワーで水をぶっかけると、
「……はは、ひっでぇ面してやんの」
ほとんど落ちたメイクの下から出てきたのは、まだ何も知らなかった頃の少女の顔。持て囃されて、恐れられて、孤独で、純粋で、飢えていて、奪われたあの頃。本能に従って生きてればよかったあの頃のまま、時が止まってた。
鏡についた水滴が流れる度にあたしが泣いてるように見えて、
「……くっだんねぇ」
忘れる為にシャワーヘッドを壁に戻して水栓を目一杯捻る。冷水だった。
「びえっ!?」
情けない悲鳴が1人の家に響く。少しして湯になった頃、シャワーの根元に体操座りして膝に顔を埋める。
(………先生みたいには上手くいかないよ)
かっこよくやれると思ってた。
生徒からも愛されると思ってた。
軽口叩いて、自分の好きな格好で、好きなように振舞えば誰かしらはついてくると、そう思い込んでいた。
それがどうだ。授業には呆れられ、試験問題には苦情が出て、託された少女には殴ら…マッサージされ、その親には接触禁止を言い渡される。これのどこが、あたしのなりたかった教師なんだ。昔のまんま何も変わってねぇじゃねぇか………
頬に流れる雫の来た道は、瞼かそれとも天井かなんて分かりやしない。
「……先生、やっぱりヨリはわるいこにしかなれませんでした」
そのつぶやきをかき消すような温い片時雨に、ただ身を委ねていた。
どれくらいの時間が経っただろう。ドアの向こうでピーピーと鳴る乾燥終了の音が微かに聞こえてきてシャワーを止める。
「うげ……」
振り返ると風呂場がだいぶ水浸しになっていた。どうやら座り込んだトコが排水溝だったらしい。
流れていくのを確認してからそっと風呂場の扉を開けると、こっちには溢れてないようで一安心。
そういえば何時だ……?とバスタオルを被りつつスマホを眺めると、もうそろそろ家を出る時間。なんも食べてないけど行くか……と洗濯機に手をかけて……再びスマホに手を伸ばす。
「あ、もしもし日生です。今日なんか熱っぽいんで休みます、授業の方は誰か代打お願いします」
えっちょっ!?と慌てふためく事務員を無視して電話を切ると、真新しいシャツと換えの下着を身につける。それから別のスーツをクローゼットから出して……やっぱり仕舞う。帰ったら1回窓開けて風通そうかなこの家。
乾燥したてのスーツの温もりを感じつつ、財布とカバンを引っさげて……あぁそうだ、中身は抜いたんだったなと洗濯機横のライターと煙草も懐に仕舞う。
その他は…まっいいか、向こうで調達すれば。
しん、と静まり返った空間にあたしがざり、ざりと石を踏む音だけが響く。
既に野に帰った区画や倒れた石柱を横目に見つつ、目当ての場所を探して歩く。…んん、似たようなモンが多過ぎんだよ、なんかこう目印とか無いのかねぇ……お、あった。
一際草生した区画の前で立ち止まり、石に彫られた名前を確かめる。ここだ。
「……サーセン、学校サボって来ちゃいました」
水桶と花を降ろしてまずは手を合わせる。
「元気してましたか、って聞くのもおかしいッスよね。………ねぇ、大先生」