うつ病
次の日の午前中、あたし達は市内の大きな総合病院に来ていた。最初は内科で受診をしたのだけれど、症状を詳しく説明すると心療内科というところに行くことを勧められた。
「お母さん大丈夫?すぐ診て貰えるみたいだから安心してね。」
お母さんは相当気分が悪いのだろう。片手で口を押えながら小さく頷いた。
お母さんのいないところでお父さんから聞いた話だと、昨日も一昨日の晩もお母さんはずっとずっと泣き続けていたらしい。親族の前、お父さんの前では泣くことも出来ずに、昨日の夜中にリビングのソファで膝を抱えて泣いていたらしい。
お父さんに我が子が事故で亡くなってしまった悲しみと、事故を起こした男への怒りと、我が子との思い出を一晩中吐き出し続けたらしい。朝食の時間になっても体調は善くならず、自分で作った料理を口にしては嘔吐を続けた。すぐにでも病院に連れて行かなくてはならないがお父さんは今日はどうしても仕事を休めないというので、代わりにあたしが同行したのだ。
いよいよお母さんの名前が呼ばれて診察室に入って行った。あたしは待合室で声をかけられるのを待っていた。
ここは真っ白い空間。居心地が悪い。なぜ病院という場所はこんなに白を基調としているのだろうか。あたしは最近白色というものに嫌悪感がある。骨。棺。花。白はなんだか長くて広い。どこまでも続いていて、どこまでも連れて行かれそう。
あたしは限りある命を毎日削っているのだ。長い道のりの先にあるものなど関心もない。死んではならない理由のひとつをなくしてしまった。白の世界に奪われてしまったのだから。
「ご家族の方も中にどうぞ。」
あたしみたいな餓鬼が入っていい部屋なのだろうか。医者という頼りのない人間を前にしてむかむかしたりしないだろうか。医者はあたしを子供あつかいしなかった。それもまた、気味が悪いのだが。
「息子さんを亡くされたショックで一時的なうつ状態になっていると考えられます。うつは心と身体の病気です。これまで当たり前のようにこなしていた作業が出来なくなっても決して怠けているわけではありません。ストレスや大きな悲しみで心の器がいっぱいいっぱいになっている状態です。安定剤と睡眠薬を処方します。調子が上向いてきたからといって途中で服用を中断したりしないようにして下さい。」
心の器が空っぽなのか。良かったよ。あたしと同じ様に心の器すらなくしてしまったわけではないんだね。
医者から「うつ病の治療を行う為に」という小冊子を受け取った。
「多くのうつ病の患者さんはもともと生真面目な人が多いものです。ですから、また治療や療養が必要である状態にもかかわらず無理をして、さらに病状を悪化させてしまうこともよくあります。ですから、お母さんに頑張ってと追い詰めるような言葉をかけることのないようにして下さい。」
なんだか分かりやすい様でよく分からない助言だが、要はゆっくり休ませてあげればいいのね。
お母さん。辛いことがたくさんあると思うけど無理せずゆっくり治していこうね。
翌朝、学校に行くのが億劫で仕方ない。クラスのみんなは気を使ってくれるのだろうけど。そのことがむしろ煩わしい。特に大葉先生と逢いたくない。声をかけられるだけでも鬱陶しい。なにごともなかったかのように振る舞ってくれたら有難いのだけど、みんなは善意を持ってあたしを迎えてくれるのだ。それを避けることを出来はしない。具合の悪いお母さんと一緒にいる為に、学校を休もうとしたけどそうはいかない。
「心配してくれてありがとう。でもお母さんなら大丈夫よ。お母さんも元気を出すようにするから優江も少しでも早くいつもの生活に戻れるようにしてね。」
そうなんだよな。あたしも学校に行くことを避けてはいられない。いつものあたしに戻らないと両親にも友達にも心配をかけてしまうのだから。いつものあたし?それってなんだっけ。あたしは学校に行くことなんて望んでいない。弟のいないこの世界でなにを希望にして生きていけば良いのだろう。もう、あたしの期待や希望なんて関係ないのだ。他人に無駄な心配をさせないことがやらなくてはならない唯一のことかもしれない。嘘でもいいから立ち直らないと。
外は僅かに雨が降っていた。夏の雨なのにやたらと冷たい。生徒達の視線があたしに集まっているような気がする。同学年の人だけではなく学校にいるすべての生徒の視線があたしに集まっているような錯覚に陥る。
呼吸が苦しい。まともに酸素を取り込めないから血液の動きも鈍く脳も働かない。もう、帰りたいとなんども思った。だけど、顔を合わせなければいけない人がいる。
ふたりは靴箱の前に立っていた。どうしてこんなところにいるのだろうという疑問はすぐに消え失せた。決まっているじゃないか。あたしを待っていてくれたんだ。今日、学校にやって来るかもわからないあたしのことを。
ふたりのうち幼げな女の子は黙ってあたしを抱き締めた。大人びた女の子は額にキスをしてくれた。
「優江の気持ちは少しだけ分かる。わたしも同じような経験をしたことがあるから。」
三人で手を繋いで教室まで歩いた。有難い行動だったけど美羽ちゃんのことが気になって仕方がなかった。あたしと同じ様な経験とはどういうことだろう。聞いてみたい気もするが、触れてはいけないことだろう。なんにせよ、あたしは無事教室の自分の席にまで辿り着くことが出来た。ふたりがいなければとても難しいことだったと思う。感謝するしかない。
しばらくすると大葉先生が教室に入ってくる。先日、弟のお通夜に参列してくれたときはとっても感謝したはずなのだけど、やっぱりあの顔は見たくない。あたしの顔は再び強張り、肩の筋肉にも異常に負荷がかかった。酷い痛みだったので三回程腕を回してみる。鈍い音がした。身体の錆はまだ落ちていない。心の垢もまだ落ちていない。
今日の先生の装束は上下共に緑色のジャージ姿。夏草のような緑色の中に蛍光の黄色のラインが入っているというあたしには考えられないセンスをしている。
先生は淡々と出席を取り、その後もつまらない連絡事項を伝えるだけだった。あたしの顔を見ようとすらしなかった。あの人なりの気遣いなのか、気が利かないだけなのか。胸を撫で下ろしたが、不幸な知らせは最後に告げられた。
「以前から連絡していたように今日から放課後に個別の進路相談を始める。日程と時間についてはこれからプリントを配布するので、それに従って面談に備えるように。」
まず疑問なのは相談というものは困っている者が、あなたに相談をしたいと助けを求めるものではないの?相談員がありきで人を勝手に呼びつけて、頑張れとか、お前なら出来る、なんて言葉を並べるのは相談だといえるのだろうか。
他にも言ってやりたいことはある。頑張れ、なんて言葉は軽々しく言ってはいけないんだよ。それで心に傷を負うあたしのお母さんみたいな人だっているのだから。こんなもの相談とも言えないし、有難いものでもなんでもない。教師や一部の大人達の自己満足の為に存在するに過ぎない。冷めた態度は長続きしなかった。配られてきたプリントを見ると、「一日目 六人目 的間優江」。最悪だ。よりにもよって先生の気合が充分であろう初日に面談だなんて。あまりに憂鬱で机に顔を伏せるしかない。




