小学生女子のあまりにも普通な1日
晩ご飯を食べた後はあくびがとまらない。だからあたしはベッドの上でゴロゴロとしながら時間を過ごすことが好きなのだ。眠いのだけど、眠らない。脳がふわふわと宙を彷徨っているような感じがとても気持ちよい。脳はあたしの首から解放されていた方が快適に動くの。脳はぼんやりと今日一日を想い起こしたり、考えにふけるのだ。
別に難しいことを考えているわけではないよ。今日は憧れの男の子に声をかけられたけど、なんであんなに冷たくしちゃったのかな。もっと、優しくて可愛らしくお話すればもう少しは仲良くなれるのかな、とかね。まあ小学六年生の女子の考えることなんて誰でもそんなもんでしょ。きっと。
枕を抱き締めながら寝転がる。落ち着くんだよね。ギュウって抱き締めると。あたしがもっと幼い頃はぬいぐるみを抱き締めていた。あたしはなにかを抱き締めることが大好きだ。抱き締める感覚はなにかを支配している感覚とよく似ている。意外と支配欲が強いのかもしれない。逆にたまには抱き締められたいとも思うこともあるんだよ。誰にと言うわけではないのだけれどね。
パパがお仕事から帰ってくる。あたしはいつも二階の自分の部屋を飛び出して玄関まで小走りするのよ。パパのお出迎えをするのは娘の仕事だと思っているから。
「おかえりなさい。お仕事お疲れ様。」
出来る限りの力を使って笑顔を作る。パパはどれだけ疲れていても、
「ただいま。」
と返事をしてくれる。うちのパパはあんまり愛想のいい人ではない。でも、お仕事がお休みのときは色々なところに連れて行ってくれるし、お誕生日やクリスマスには早く帰ってきて一緒にお祝いしてくれる。プレゼントだって奮発してくれるからパパは好きだよ。でも、ときどきママとけんかをして泣かせることはやめて欲しい。でも、あたしは怖くてそんなことは口にできないけどね。
そしていつも決まった時間にお風呂に入る。お布団と同じくらいお風呂も気持ちよい。お湯に肩まで浸ると一日の身体の疲れとか悩みが溶けて取り除かれる気がするから。それにこの空間はあたしが掃除をしなくても片づけをしなくてもいつも綺麗だからね。
今はあたしだけの世界。ときどき弟の岳人がノックもせずにドアを開けることがあるんだけど。そのときはあたしもさすがにキレる。岳人はまだ小学二年生だからきっと悪いことをしたという認識は全くないのだろうけど。きっとあたしの顔が見たくて、お話がしたくて、あたしがお風呂からあがるのを待ちきれないだけなのだろうけど。
でも、姉弟と言ってもやっぱり恥ずかしい。恥ずかしいと思うようになった理由は最近ちょっと、ちょっとだけ自分の胸が膨らんできたからというのもある。他人から見たら全然気にならないのかもしれないけど、間違いなく胸は大きくなってきた。学校の友達はどうなのかなあ。なかには下着がブラジャーに変わった子もいるし、もう六年生にもなるから当たり前のことなのかもしれないけど、あたしは恥ずかしかった。だから、あまり友達ともこのことについて話はしない。
この胸は大人になってきたっていう証拠なのかな。そう考えるといつも憂鬱な気持ちになる。大人になったらどうなるのかな。もうすぐ小学生最後のクリスマスとお正月がやってきて、そしたらすぐに卒業して中学生になる。中学校と高校なんてあわせて六年間だから、ふたつあわせても小学校に通うのと同じくらいの時間しかないんだよね。そしたら、大学に行くか就職するか。嫌だな。
どうして、大人になることを考えたらこんなに憂鬱になるのだろう。大人になれば自分でお金を稼いで洋服とか欲しいものをいっぱい手に入れられるかもしれないし、お酒を飲んだり大人ならではの楽しいことだってたくさんあると思うのにな。でも、あたしはずっと今のままがいい。深く考えると鬱になる。大人になりたくないあたしはちょっと歪んだ性格をしているのかもしれない。そう思うとまた、嫌な気分が増してくる。こんなことを考え始めると負のスパイラルに陥っちゃうからお風呂をあがって、なにも考えないようにしているんだ。
髪の毛をドライヤーで乾かしてからリビングに戻ってパパとママにおやすみなさいと言って、二階の部屋に戻る。このときひとつだけ友達にも絶対言えない特別な儀式がある。それはパパの頬にちょっとだけキスのようなことすること。おかしいとは分かっているんだけどさ。これだけはパパとの約束で物心ついたころから毎晩している。
ちょっとキモいかも…とか思いつつあたしはパパにもうこんなことをするのは嫌とは言えない。そんなこと言っちゃうとパパが悲しむと思ってね。だから、ほんとにちょっとだけ頬を合わせて「おやすみなさい。」と言う。やっぱり今夜も恥ずかしかった。でも、パパにこうするとあたし自身もなんか安心しちゃうんだよね。あたしって変態?とも思っているけど平気だよね。
我が家の二階には部屋がふたつあってひとつはあたしの部屋。もうひとつは岳人の部屋。岳人はまだ子供だからひとりで寝つけずに八時頃にはママが寝かしつける。ときにはあたしが寝かしつけることもある。可愛いんだ。ベッドに一緒に入ると、
「今日は姉たんが一緒に寝てくれるの?」
「そうだよ。」
そう返事をすると、
「に〜。」
と言う。に〜って笑顔になるだけじゃなくて本当に声に出して、「に〜。」と言う。そうして、今日学校であったことをたくさんあたしに話してくれる。とっても他愛ない話なのだけど。話をしながら自分で大声を出して笑ったり、あたしに、
「ね。おかしいでしょ。」
と語りかけてきたりする。あたしは岳人が可愛くて、可愛くてこの子の笑顔を見ているだけで心嬉しくなる。本当に愛しいなあといつも微笑んでしまう。
どうなのだろう?他の姉弟ってこんなに仲良しなものなのかな。まあ、岳人とだったら、たとえブラコンって思われてもいいや。あたしはあまり世間の常識とかは気にしない。
可愛い岳人を寝かしつけたあと、あたしがベッドに入る前に本日最後のおつとめが待っている。
あたしの部屋にはベランダに出るための大きな窓と、それとは別の小さなスライド式の窓が付いている。それぞれに立派な雨戸がついていて、しっかりその鍵を閉めている。そうなのだけれど、あたしはその雨戸の鍵をカチャカチャと手で触って鍵が閉まっていることを確認する。ただ、大きな音をたてては一階にいる両親に気付かれてしまうので、出来るだけ音をたてないように何度も繰り返す。ひとつの窓の施錠を確認したら、もうひとつの窓を。それも確認したら次は岳人の部屋のふたつの窓でも同じことを繰り返す。岳人の部屋での確認が済んだら、最後に岳人の顔の目の前まで近づいて、
「おやすみなさい。」
と小さな声で呟く。しかし、そうすると今度は自分の部屋の窓をしっかり施錠確認が出来たかどうかの記憶が定かではなくなる。
不安を胸にしまい込めないあたしはもう一度自分の部屋の窓を確認し、それが終わるともう一度岳人の部屋の窓を確認しに行く。どうしても、最後には岳人の部屋を確認したかったのだ。 もしも、なにかあった場合に絶対に岳人の身を守りたいという気持ちが強かったからね。あたしは毎晩同じ行為を最低でも二往復は行ってからでないと落ち着いてベッドの中に潜れないのだった。
そして、ベッドの中に入ると両手を胸の前に組んでお祈りのようなポーズをとる。
「神様。うちの家族がいつまでも仲良く幸せに暮らせますように。もしも、家族の誰かが事故にあったり、病気になったらあたしの寿命を削って他の家族に分け与えて下さい。今日も一日幸せでいられました。ありがとうございます。」
そう心の中で呟いて眠ることにしていた。
眩しい陽光が差し込んでくると、いつも目覚まし時計が鳴るより先に目が覚める。寝覚めが比較的いい体質で、毎朝気持ちよく起きられる。階段を降りてリビングに出るとコーヒーの香りが心地良く流れてくる。あたしはコーヒーを飲まないけど、パパの飲むコーヒーの香りは大好きなの。この臭いを嗅ぐと一日が始まるんだなあって感じがする。
家族四人で揃って朝食を済ませたら、あたしは洗面台の前でちょっとだけおしゃれをする。おしゃれと言っても、寝癖をなおして髪にドライヤーをあてるだけ。気分によってはちょっと可愛いヘアピンで髪をとめるときもある。あたしの髪の毛はショートボブだから髪の毛のセットにたいした時間はかからない。本当は、もっと伸ばしておしゃれをしてみたいけど、それは中学生になってからのお楽しみと、自分の中で遊びを残してある。おめかしが終わる頃に岳人から、
「姉たん。早く行こう。」
と声がかかる。
「ちょっとだけ待ってね。」
そう言ってあたしは部屋からランドセルを取り出し、そして机の前で手をあわせて、
「今日もいいことがありますように。」
と心の中で呟いてから、岳人のもとへ走る。
「優江っていつも遅いんだから。」
「優江って言わないの。お姉ちゃんでしょ。」
岳人はあたしに文句を言いたいときはいつも優江って呼び捨てにする。例えば今みたいに待たされたときとか、テレビを見ていて岳人の見たい番組を見せてあげないときとか、ひとりでお菓子を食べているときとか。どうやら優江って呼び捨てにするのが好きみたい。きっと自分がお兄ちゃんになったつもりでいるのだろう。そんなところも可愛らしいのだけど。
学校まで歩いて二十分くらい。学校にたどり着くとあたしは岳人の学年の下駄箱までついて行く。そして、岳人がちゃんと上履きに履き替えるのを確認してから、
「いってらっしゃい。」
と手を振って岳人を見送る。岳人も不思議とこのやり取りを恥ずかしがらず、「もう来ないでよ。」とか言ったりしない。いつも岳人が上履きに履き替え終わる直前まで、ふたりでお喋りをする。ときには話に夢中で上履きを履き終わってからも話が続くこともある。今日も無事にいってらっしゃいが言えてよかった。
「おはよう。」
という大きな声と急に肩を叩かれたことにびっくりした。声をかけてきたのは果歩ちゃん。クラスで一番の仲良しでいつも一緒に行動している。
「びっくりした〜。おはよ。」
ふたりで靴を履き替えているときに、果歩ちゃんが慌てた様子であたしの耳元で囁く。
「優江。ヤバイよ。」
なにごとだろうと思って後ろを振り向くと確かにヤバかった。後ろからひとりの男子が近づいてくる。この人の名前は望月亮君と言って、クラスでもあまり目立つタイプの男子ではない。どちらかというと大人しくて物静かな存在。だけど、実はあたしも果歩ちゃんも密かに憧れていた。果歩ちゃんはなんの躊躇いもなく亮君に大きな声で挨拶する。
「亮君おはよう。」
「おはよう。」
亮君はこちらをちらりと見ただけだが、しっかり挨拶を返してくれる。このクールさというか、さり気なさがあたしの中で結構ヤバいのだ。なんとなく、他の男子と違って大人っぽい感じが凄くキュンとさせる人なんだよね。
「優江はバレンタインはどうするの?」
果歩ちゃんはあたしが、バレンタインデーに亮君にチョコを渡したり、告白するのかどうかを気にしているみたい。
「んん。きっと何もないよ。」
あたしは落ち着いてそう切り替えしたが、これは本音とは少し違っていた。中学に行ったら亮君と同じクラスになれるかどうか分からないのだし、今年がチョコを渡す最後のチャンスかもしれないから、ちょっと頑張ってみようかなという気持ちはあった。まあ小心者のあたしがどこまで行動に移せるかは分からないから果歩ちゃんにはそう答えるのだけど。
朝のホームルームの時間に、先生から連絡事項があって卒業アルバムに載せる『将来の夢』を書く為の用紙を回覧するから全員二、三日のうちに書き込んでしまうように、とのことだ。この企画の話は大分前から聞いてはいたけど、正直あたしはなんて書こうか迷っていた。将来の夢とかなりたい職業なんて無かったから。
希望と言うのか、願望みたいなものはいくつかあるのだけどね。医者になりたいとか、弁護士になりたいとか。だけど、卒アルに載せる程現実味も無いし、そもそも将来のことを本気になって考えているとまわりのみんなに思われるのが嫌いだった。うん。恥ずかしいっていうかね。だからそこには「お嫁さん」と書くつもりでいた。まわりの友達にもそう書くって言っている子が多いから、浮くことも恥ずかしいこともないし。実際、結婚っていうものに対して興味は人より強い方だと自覚していた。
ウェディングドレスを着たいとかじゃなくて、所謂家庭のお母さんに憧れていた。亮君みたいな素敵な旦那さんと、ふたりくらいの子供と一緒に仲良く暮らしたい。子供は絶対にひとりは男の子が欲しいな。岳人みたいな男の子。ささやかだけど、照れずに胸を張って人に話せるあたしの夢はこんなことだった。
ちょっとだけ気になる亮君がいることと、とても仲のよい果歩ちゃんがいる以外はあたしの学校生活は結構退屈なものだよ。特に勉強が好きなわけでもないが、成績はクラスの中でもなぜか上位に入っていた。だからこそ余計に授業が退屈だったのかもしれない。あまり真剣に先生の話を聞くわけでもなくボンヤリと窓から中庭を眺めたていたり、空想にふけっていることもしばしばだ。
最近の授業は駆け足気味で行われていた。もう二月だから、先生はなんとか教科書の内容を消化しようとするのがバレバレの態度。そのせいかはいつも以上に退屈で、今も眠くなりなんだがウトウトしてきた。熟睡はしていなかったけど、眠っていたのではないだろうか。
すっかり周りの声や音は聞こえなくなり、真っ暗な世界の中で意識がどんどん朦朧としていくなか、なにか不思議な感覚に包まれた。この感じはなんて例えればいいのか。なにか光のようだけど、眩しく輝いているわけではなく、白くぼんやりとしたものがあたしの下腹部の中に入っていったようだった。
それは小さくて細くてあたしの人差し指程の大きさだった。なにかを授かったような感覚と言えば想像がつくだろうか。当然、夢なのだろうけど気持ちのよさは随分と鮮明だった。あたしの中に入り込んだ光は小さくトン、トンと音を立て上下に動いた。光はやがて形を変えて、「一一三五日」という画像というにはあまりに朧な幻影となった。
「一一三五日ってなんだろう。」
それがとても気になり目が覚めた。あたしは滅多に夢を見ないのに、この夢はいやにはっきりと印象に残っている。一一三五日の意味はまるで想像もつかなかったが、きっといい夢なのだろう。いい夢ならば続きが見たくてあたしはまた目を閉じて深呼吸をして浅い眠りについた。