Title:人の心は多面体
Title:人の心は多面体
Theme:ペルソナ
Type1:モノローグ
Type2:比喩表現
「林檎」はそのまま剥き出しで心に置いてあるわけじゃない。ちゃんと容れ物が存在するだろう。
この容れ物のことは……そうだな、ステキな歌から拝借して、「こころのはこ」とでも呼ぶか。俺が考えるに、この「はこ」には愛以外も存分に詰め込まれることになるがね。
「はこ」と言ったので、直方体みたいなのを想像したんじゃないかな?
そうじゃないんだ。俺が提唱する「こころのはこ」のモデルは、「限りなく球に近い多面体」だ。
この「多面体」の、「面」は何なのか?
人って、いろんな態度を使い分けていないだろうか?「家族」と接する自分、「友人」と接する自分、「仕事先」での自分、「恋人」に接する自分、「特定の個人」に向ける自分etc……どれも微妙に態度が変化しているのではなかろうか。
この、態度こそが「多面体の面」だ。それぞれのシーンに合わせて、適切な「面」を向けて対応する。そうやって俺たちは、自分以外の人間や、自分を取り巻く環境と接している。
だから、外部とのつながりが多岐にわたるほど、その「面」の数も増えていくんだな。
裏表のない人、なんて表現があるな。それを「こころのはこ」で言うのなら、完全な球体になるんだろうな。
でもきっと、そんなものは存在しえない。すべてにフラットに対応しようとすることはできるが、相手は多岐にわたっているのだ。「こころのはこ」は、多少押し込められて「面」が形成される。そうやって関係が続くうちに、球体は多面体になっていくってわけだ。
なんて否定を述べてみたが、結局その人の態度は全てに対してなるべくフラットに出力されてるんだろうから、「表裏のない人」という表現が意味するところは特に変化してないね。角と辺が削れて円くなったサイコロを思い浮かべるのが妥当じゃないだろうか。「面」と「面」の変化が緩やかなんだな。
いや、というか、大体の人の「こころのはこ」は角と辺が円いだろう。そんなに態度が一変してばかりでは疲れてしまいそうだ。
逆に言えば、アッサリと猫にも虎にもなるような奴はちょっと異常なのかも。
人の成長……いや、社会的生物・人間として時間が重なるにつれ、接する人間やコミュニティ、環境は増えたり変化していくはずだ。生まれたての赤ん坊の、真ん丸な「はこ」はそうやって数多のモノと触れ合ううちに、ベコベコと「面」が増えていく。
……球体が凹む、なんて言い方がをしたので、「面」が増えるのは悪いことのように見えるが、そうやって「面」が増えるのが普通で正常なんだろう。逆に言えば、ずっと球体に近い「はこ」でいる方が難しいのかも。純真無垢ってことになるからね。
まぁ、当然なことを言うようだが、「こころのはこ」の形は人それぞれで、そこに善し悪しのモノサシは存在しえないだろうね。
「こころのはこ」の中には「林檎」が収まっている、というのはさっき説明した通り。
だから、そう易々と「こころのはこ」がベッコベコに凹んだり、穴が開いたりはしないように、「はこ」は恒常性を発揮して元の形になるべく戻ろうとする。低反発枕みたいな感じでな。「林檎」はそう易々と傷つけられていいもんじゃない。
でも「はこ」の材質・強度は人ぞれぞれだったりするし、外部からの刺激・衝撃が強かったりするから、当然「はこ」も無事では済まないこともある。
そうやって傷ついた「面」の影響は、「林檎」のツギハギにまず加わり、「林檎」を通じて他の「面」に伝わる。
例えば、「仕事先」でこっぴどく叱られてショックを受けたとき、「家族」や「友人」、「恋人」にツラいと零す……こういうのは、「こころのはこ」が凹んで他の「面」にボコンと影響が出たってことなのさ。
まぁ、「こころのはこ」って存在を指摘して、何が言いたいのかって言われると、特に何もないんだけどね。
とりま言えるのは、むやみやたらと「こころのはこ」を傷つけるようなこと言ったりやったりするもんじゃないってことかなぁ。それはつまり、相手にとって一番大事な「林檎」を傷つけることなんだから。
そんな痛み、識らないほうがいい。
でも識らないと優しくなれないんだよなぁ。うーんジレンマ。
あ、「こころのはこ」の存在の指摘で、わかりやすくなることがひとつあった。
愛しい人が居るのなら、試してみるといいかもな。
「こころのはこ」を抉じ開けて
さあ、生き写しの「林檎」見せて?
いろんな表情をした「仮面」が沢山集まって、「多面体」をかたちづくっている。
醜いような、でもそれは当然のもので、そう思うとそれすら美しい。
きっとそれは、内にある「自分の指針」が滲み出るからだ。
『アンノウン・マザーグース』
wowakaの楽曲。2017年リリース。