客観性を欠くということ ~物語が破綻しても気づけない~
「これは……」
私が書いた小説を読んでいた友人が険しい顔をした。
私は自分の小説を友人に読んでもらい、細かいミスを指摘してもらった。そのほとんどが誤字脱字の報告だったが、たまに内容に関してのアドバイスもくれる。自分の書いた小説を誰かに読んでもらうのはとても新鮮で嬉しかったのだが……。
「これは……ひどい」
彼はある部分を読んで、こう言った。いや、実際はこんな風に言っていないのだが、なんとなくこう表現した方が伝わるかと思った。彼は心の中でそう感じていたかもしれない。
その部分は、ヒロインが主人公に対して苦言を呈するシーン。なろうではヒロインが主人公に反論したり、文句を言ったりするのはタブーだが、彼が言いたいのはそう言うことではない。
ヒロインは主人公が戦っていた相手をかばったのだ。しかも、その戦っていた相手と言うのが、いわゆる噛ませ犬で、主人公に敵対的な態度をとっていた相手だった。
この部分を読んだ彼は、これはヒロインではないと断じた。
その時はずいぶんとショックを受けたのだが、しばらく時間がたって自分の作品を読み直すと、恥ずかしくて見ていられなくなった。あまりに客観性を欠いていたのだ。
そのヒロインが主人公に対して酷いと思われる行動をしたのは、一度や二度ではない。戦いを嫌がる主人公を無理やりトーナメントにエントリーさせたり、思い込みで勝手に暴走して主人公を窮地に追いやったりと、酷い行動のオンパレード。
友人の助言を聞いてさっそく修正しようと思ったのだが、想像以上にその問題の根が深く、訂正は困難だった。
書き直そう。
私はそう考え、その物語のほぼすべてを没にした。問題と思われるシーンは全てカットしつつ、友人の助言を元に書き上げたストーリーをなぞる形で、一から書き直し始めた。
私はどうしてこんな過ちを犯してしまったのか。それは客観性が欠如していたからだ。
創作行為自体が楽しくなってしまい、次へ次へと書き進めるうちに、キャラクターの行動や言動に対する評価をおざなりにして、物語を破綻させてしまった。脳内で勝手に動くキャラクターを自由にさせた結果がこれだ。
脳内で物語を作って楽しむ分には問題なかっただろう。けれども、それを小説にして誰かに読ませるとしたら、また話は変わってくる。
キャラクターの行動や言動一つ一つが、我々の価値観を元に現実社会のそれと比較され、誤った行動、誤った言動をとった場合、読者から糾弾されてしまう。私はヒロインの行動、言動のほぼすべてが無条件で許されると思っていたのかもしれない。でなければあんな酷いことを主人公にはしなかっただろう。
私自身、キャラクターがどのように評価されるのか予想もしていなかったので、最初で最後の読者である友人から返って来た言葉は意外だった。
書くのに夢中になり、作品を作ること自体に酔いしれ、客観性を欠如してしまっていた。
物語が破綻するのも当然だろう。
それ以来、人が見てどう思うか、主人公とヒロインの行動・言動を精査するようになった。
別に全ての登場人物がお行儀よくする必要はないと思うが、やはり最低限の客観性は必要かと思う。
しかし、こんな文章を書いている今でも、自分自身に客観性が備わっているか疑問である。
自作を読み返すと、何でこんなことを書いたと感じることが多々ある。まだまだ発展途上なのだ。
実生活でも失敗は多い。些細な失言から大きなトラブルに発展することもある。対人関係のすべてがうまくいっているわけではない。
それでも成長することを諦めてはならない。私は私自身を別の視点で観察して、その行動を精査する必要がある。
それは作品内のキャラクターも同じなのだろう。
何かと、世間の目が厳しい今日この頃。
自分の作品が思わぬ形で誰かを傷つけてしまわぬよう、気をつけたい。