南向き、35度の窓
その人はいつも、同じ時間、同じ席に座ってホットコーヒーを決まって注文する。南向きに35開いた窓の外を眺めながら、小一時間ほど、過ごす。
日に透けると、金色に輝く亜麻色の髪の毛が、窓からささやかに流れる風で揺れる。午後の優しい太陽の光に照らされたライ麦畑を閉じ込めたような色をした瞳が僕の姿をとらえると同時に、僕の心も、その人一色に染まってしまった。
「ホットコーヒーを、ひとつ」
このまま時間が、止まってくれれば良いのにと、その人の瞳に映る僕の姿を見ながら心底思った。
「ご注文は、以上ですか」
声が震えているのに、気づかれてしまっただろうか。恥ずかしくて、その人の顔を見ることさえままならない。
「…はい。それだけで」
その人の返答を聞き終えると、僕はなるべくゆっくりと歩いてキッチンホールまで戻った。
その人のために一杯のホットコーヒーを入れる。ホットコーヒーなんて、入れなれているはずなのに、まるで初めて入れるときのように緊張でカップにコーヒーを注ぐ右手が震えた。
その人は、相も変わらず、窓の外を見ていた。隣接する海を見ているのだろうか。35度だけ開いた窓から、何を見ているのだろう。その美しい瞳には、何が映っているのだろう。
どうしてそんなに、寂しげに見ているのですか。
そう聞いたら、あなたはどんな反応をするだろうか。困ったような顔をして、笑ってみせるのだろうか。それとも、そう見えますか、と問いかけるのだろうか。どちらにしろ、僕には声をかける勇気なんてなくて、こんなことを考えるだけ、無駄なのかもしれないのだけど。
「お待たせしました。ホットコーヒーです」
ホットコーヒーをテーブルに置くと、窓の外から海の香りが鼻をくすぐった。コーヒーのにおいと混ざって、少し変なにおいに感じた。
「窓を、閉めましょうか?」
耳に聞こえてきた声が、自分の声であることに気づくのに時間がかかった。
僕の言葉を聞いて目を見開いたその人の顔を見て、失敗した、と後悔した。今まで注文以外でも会話は、会計の時だけだった。干渉されたくないような空気を感じていた。安易に話しかけてはいけないと、心の中で線引きしていた。
「窓は…閉めないでください。ここから見える海が、ガラスで曇ってしまうので」
その人は、より一層寂しげな目で窓の外を見つめた。窓から見える海には、誰もいない。
「何を、見ているのですか」
口から漏れた言葉がその人の耳に入ったとき、その人は美しい瞳に僕の姿を映した。その人の瞳にとらわれた僕の姿から、目を離すことが出来なくて、目を離したら消えてしまう気がして、干渉してしまったことへの後悔はどこかへ消えてしまった。
「…あの海には、大切な人が埋まっているんです」
「…大切な人?」
瞳に映る僕の姿が、波のように揺れた。
「勝手に絶望から救い出して、希望を見いだしてくれたくせに、あの海に消えてしまった人。あの海と同じ瞳の人だった。…もう、その瞳に何も映ることはないけれど」
その人の苦しげな表情に、僕の胸は罪悪感で押しつぶされそうになった。
その人の瞳に、大切な人が映ることはもうない。その事実に、僕はうれしくなってしまったのだ。たった一時間。その時間だけ、コーヒーを飲むときだけ。注文をしてくれるときだけ。その瞳は僕の姿を映す。僕だけを。自分勝手なことを考えているものだと、自己嫌悪する。
だけど、わき上がる想いの止め方を僕は知らなかった。
「あなたの中で、まだその大切な人は生きているんですか」
最低だ。
言ってしまった言葉の、なんと残酷なことか。
その人は、傷ついたような顔をして、悲しげに笑った。
「簡単には忘れることの出来るような人間じゃなかった。海に消えた事実も、未だに信じられなくて、こうして毎日ここから見ているんだ。無理矢理、運命を書き換えて、希望を見いだしてくれたから。今でも、感謝しているんだ」
希望を見いだしてくれた。
二回も言っていた。そんなに希望を見いだすことは難しいのだろうか。僕では、駄目なのだろうか。
「僕では、あなたの大切にはなれませんか」
今まで抑えていた気持ちがあふれ出す瞬間というのは、自分でもわからないようで、急に口走ってしまったことに驚いた。
言うならば、もっとおしゃれなお店で、着飾って格好良く伝えた方が良かった。それに、毎日海を見に来て、まだ海に消えた大切な人のことを忘れられない、そんなこの人にとって、僕はただのカフェの店員に過ぎない。
「あなたは、優しいのですね」
その人は、僕の姿をまたその瞳に映しながらほほえんだ。
「そんな…!優しくなんて。僕はさっきも、あなたのことを傷つけてしまったのに」
「人は、簡単に傷つき、傷つけられますから。気にしなくて良いですよ、特に、私のことでは。もう、あいつはいないと、わかっているのにここに来てしまう」
「なんで、ここなんですか…。直接、海には行かないのですか」
わざわざここで見る必要があるのか。
ここじゃなければ、僕はあなたに会うこともなかったのに。この気持ちも持たずにすんだのに。
「いつか、行ってみたいと。そう、言っていたんですよ。二人で、よくあの浜辺を散播していたとき、この席がちょうど見えていたんです。窓が少しだけ開いた、この席が。いつか、この席で一緒にコーヒーを飲もう、と約束をしていたのに…結局、一緒に来ることはありませんでした」
ああ。この人の心は、〈大切な人〉であふれているんだ。
敗北感を覚えた。まだあきらめる気持ちはなかったけれど、この人の心をここまでとらえている人がいるのかと、悔しくなった。
「僕、あきらめません。あなたの大切になりたいので」
その人は、僕を見てふっと笑った。初めて、うれしそうに笑う顔を見た。
そして、その人は残っていたコーヒーを一口で飲み終えると、立ち上がって僕と目線を合わせた。
「やっぱり、あなたは優しいんですね。また明日、コーヒーを飲みに来ます。もちろん、この席で」
そう言ってレジへと歩いて行った。
後を追いかけようとしたとき、南向きに35度開いた窓から風が吹いた。つんとするような強い海の香りが鼻を通り抜けた。
思ったこと、感じたこと、少しでも教えてくださるとうれしいです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。 鍋山きのこ