森の熊さんの困った一日
物語に出ている時刻や身長は、分かりやすいように、現代の数字で書いています。
午前7時ごろ、野良猫がたくさんいる通称<猫猫長屋>と呼ばれている長屋に、一人の同心が現れた。同心は、長屋木戸から一番奥まったところにある部屋で立ち止まった。
「重蔵とやらはいるか?」
声をかけると、一人の男が引き戸を開けて顔を出した。
「俺になにか用ですか?」そう言うと、男は部屋から出てきた。
男の名前は森の重蔵。歳は40代。身長は180センチぐらいの大男で、長屋の子供たちには<熊さん>と呼ばれて親しまれている。
「夜鷹蕎麦の仕事で疲れているんですが」
「重蔵、昨夜、自身番に暴漢を突き出したんだって?」
重蔵は、「ああ……」と無精髭の顎をサラリと撫でた。昨夜、夜鷹蕎麦を営業していたが客足が鈍く、早めに店じまいをしようと思っているときに、女性の悲鳴が聞こえた。駆けつけると、3人の男が若い女性を取り囲んで、今にも襲い掛かろうとしていた。
重蔵はあっという間に3人の男を叩きのめすと、女性を連れ自身番に行き、3人の男を突き出すと、さっさとその場から離れた。
なんでいなくなったんだ?という質問に、「あまり目立ちたくないので」と言うと、同心は、その大きさじゃ無理ないかという苦笑いをした。
「昨夜の娘さんが、お礼をしたいと言っているんだが、なにか目立ちたくないわけでもあるのか?」
重蔵は困った。重蔵が仕事としている夜鷹蕎麦は、ある藩邸を張り込むための偽装なのだ。
又十郎に頼まれた――なんて言えるはずもない。
重蔵が言い難そうにしている又十郎とは、将軍家指南役の柳生飛騨守宗冬のことであり、この<森の重蔵>という名は偽名で、本当の名前は<柳生十兵衞三厳>
鷹狩のため出かけた先の弓淵で急死したと言われている、柳生十兵衛なのだ。