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あいつは俺の仇!  作者: 方結奈矢
第三部 六年生編
46/58

【番外編】 マダム麟子物語


 ベギィバギッ


 なんとも醜い音をたててへし折れてしまったのは、居間へと続くドアノブだった。


 「痛いじゃないのよ、なんなのよ、このボロが!」


 折れたドアノブで後頭部を強烈に打ち付けたのは、永見麟太郎53歳だ。


 この身長が180㎝もある大男の全体重144kを支えるにはあまりにもこのドアノブは脆かった。


 「どうしてくれるのよ、また死ねなかったじゃない」


 この麟太郎、どうやら首にタオルが巻かれている事から、ドアノブ自殺を試みたようだ。

 「また」なんて言っているところからみると初めてではないらしい。


 ◆


 「本当に、もう、どうしてくれんのよ」


 私は、また死ねなかった。だからといって死ぬのを諦めたわけじゃないのよ。


 (こんどは、どうしたもんかしら)


 次なる手段を考えるのに、私はとりあえずコーヒーを淹れる事にした。


 私が、こんな広島の片田舎に戻って来たのは、母が亡くなって一人残った父の面倒を見る為なの。


 それまでは新宿二丁目では“マダム麟子”としてブイブイ言わせたニューハーフショーが人気の店のオーナーだったのよ。


 あの頃が懐かしいわ・・・


 お店?潰れたわけじゃないのよ。

 29歳の時から20年以上も続けてこられた私のお店は、今もオーナーが変わってちゃんと続いてるわ。


 でも、私がいた頃ほどの人気はないみたい。


 それはそうなのよ。だって私みたいなお化けキャラがあってこそ美しい子たちが栄えるというもの。

 

 私の後を買って出たのは、それは私とは大違い、その美しさに多くの男たちが群がった人気の詩織さんだもの。


 店の雰囲気が上品ばかりでまとまってしまい、あれほど笑いが絶えなかった店が今では22時からの定時ショー一回だけなんてのも寂しいかぎりだわ。


 私が、いたときは二回目のショーも不定時間だけどラストにやっていたのに・・・週末は三回はやっていたわ。


 「マダム麟子の名前にかけても頑張ります」

 なんて言っていた詩織さん。

 

 私のところにやってきたときはダンスもできないまだ十代の男の子だったけど、瞬く間に凄い人気者になって、私が二丁目を去るときには、スポンサーもいて店の権利を買い取ってくれたわ。


 そして五日間に渡る盛大な送別会を開いてくれたのも彼女だったのよ。


 他にも、私が育てたボーイたちは数知れずよ。


 広島にまで付いてくると言ってくれた子も一人や二人じゃなかったのよ。


 でも私は、父の世話をするための里戻りだもん、連れて帰るわけにもいかずに、涙をのんだわ。


 私が戻ってきて父は二年もせずに亡くなってしまったの。


 問題はそのあとに起きたのよ。


 私の家は、代々の土地持ち百姓。父が死ぬまで精魂込めていた田畑は、アストラムラインの駅近くという事もあってすぐに買い手がつくのは必至だった。

 

 すでに母が亡くなった時、その一部は高級感ある賃貸マンションを兼ねた永見ビルになっているわ。


 それらを相続するべきは父の跡を継ぎ田畑をやっていこうとしていた跡取り息子の私であったはずなのに・・・


 ずるいのよ、私の姉たちは、父の面倒を私に見させていたくせに、


 「あんたが相続する権利はないのよ」

 昔の事を持ち出して、言いがかりをつけてくるだけじゃなく生前の父に自分たちの都合のいいように遺言書を作らせていたの。


 結局、私が相続したのは、二人いる姉の二番目の姉が相続した永見ビルの地下の権利だけ。


 「あんたなんか地下がお似合いよ」

 その地下は、貸倉庫と駐車場があるだけのスペースだったけど、私は姉たちの仕打ちが許せなくて、奮起一番して東京で貯めたお金をはたいて地下で『マダム麟子』をまた始めたの。


 階段を降りていくとそこは別世界を二丁目に続けてまた演出したのよ。


 もちろん広島市の片田舎で二丁目のような形式では店はやっていけない。それでも倉庫スペースは広く私は大改装を施しカラオケパブをオープンさせたの。


 だって二丁目時代の店の一番の目玉は私の歌声にあったからなのよ。


 華やかな美しい子たちのショーの最後を飾るのは毎晩、私のステージだったの。それだけを目的で来てくれるお客様も多かったわ。


 その自慢の歌声を「広島で」なんて思って、ちょっとしたステージもあるカラオケパブを作ったのよ。


 こだわりの内装に、こだわりの音響。こだわりの料理に酒。個室まで作ったし、トイレだって男女別々スタッフ専用のも作ったし、スタッフ控室も広めに作ったわ。

 そして私が一番こだわったのは店の顔ともいうべき看板よ。


 縦30㎝幅40㎝と控えめだけど黒地のステンレス版に白文字で『マダム麟子』とだけ描かせて店の入口の壁に埋め込んだの。


 この文字は二丁目で店を始めた時に恩人の姉さんが描いてくれた墨字から起こしたものでパブと言うよりは会社みたいだけど、二丁目でそうしていたからまた同じものを作ったの。


 一階にはそれらしく派手なネオン看板を作ったけど、やはり店の顔はその入口にあると思うのよね。


 この店をオープンさせるにあたっては、姉たちが猛反対したわ。


 「なにがマダム麟子よ!あんたはどこまで私たちに恥をかかせれば気が済むの」

 この姉たちの言い分に私は、昔からずいぶん苦しめられてきたのよ。


 小学校一年生の時から近所のゴールドメダリストが開いた名門河口道場に通い、早くから頭角を現す私だったけど、本当は柔道なんかより歌を唄ったり花を摘んだり料理をするのが好きだったの。


 それでも両親の期待に応えようと頑張ったわよ。


 でも自慢の息子だったけど中学生にもなると私の心が女であることは隠せなくなってしまい、「ガバオ」なんて呼ばれていたほどの醜い強面と大きな体つきから、メイクなんてすると「モンスター」なんて呼ばれるようになったの。


 両親、特に父は私が柔道を辞めて女らしく振舞うのを毛嫌いしたし、姉たちも平気で、「キモチワルイ近づかないで」なんて言ってきたわ。


 私は、そんな環境に嫌気がさして、頑張って男のふりをしてもみたけど、寄ってくるのは(たち)の悪い連中ばかり。私の人相がそういうやつらを呼び寄せるようなの。


 なんせ誰もが恐れる怖い顔だったのよ。


 それは、今も変わらないけど、まぁ睨め付けただけで大概の揉め事は片付いたわね。


 街で喧嘩を売られるなんてざらよ。親切に声をかけても怯えて逃げられるし、逆にヤクザや暴走族によく誘われたわ。


 でも、私はそんなもんに興味はなく、当時の私は唯一拾ってきたオス猫のトッポだけが友達だったのよ。


 でも、そのトッポが車に跳ねられて死ぬと、私はもう広島がいやになり、中学も卒業しないまま家を飛び出していたの。タンスから有り金全部を持ち出して向かった先は東京だったわ。


 (あそこへ行けば、わかってくれる人がいる)

 そんな思いが、愛猫が死んだ悲しみから唯一開放してくれるものだったのよね。


 世間はそんなに甘くはなかったわ。私は、広島に戻りたくない一心で、なんでもやったのよ。


 最初に頼ったのは中学柔道選手権大会で決勝を二回も戦った野々村誠二君だった。


 実家が立川の土建屋さんというので、そこで雇ってもらうつもりだったけど親御さんに家出と知られると、相手にもしてくれなかった。


 そこで誠二君は、先輩を紹介してくれて、私は寝泊まりする場所を確保できたのよね。でもそこはヤクザな世界で、私はすぐに逃げ出してしまったの。


 あとから誠二君に、「俺の顔に泥をぬりやがって」さんざん殴られ連れ戻されたわ。


 それからの私を詳しく語る気にはなれないわね。恐喝から美人局、強盗まがいのことまで色々やらされたわ。


 そんな状況から私を救ってくれた恩人とも言うべき、夕夏ママに出会ったのは20歳になる少し前のこと。私は、姉さんのボディーガードで雇われたの。


 姉さんは歌舞伎町の有名キャバクラのオーナーで美人ママとして凄く人気があったわ。


 それだけにちょっかいを出す男たちも多く、私が見た目とは裏腹に心が女というのもあり都合よくボディーガードができたというわけよ。もちろん店でもボディーガードとして役立ったわ。


 「麟ちゃんは、心根が優しいのね。あんな連中と付き合っていたらダメになるわ」

 ママは、私の住処を作ってくれたの。それは、それまでと違って広くきれいなワンルームマンションだったの。嬉しかったわ・・・


 誠二君たちは、私の居場所を突き止めて店にまで徒党を組んでやってきたけど、ママにかかれば逆に追い返されてしまい、ママに、


 「覚えてろよ、おまえを犯してやる、一人歩きには気を付けろよ」

 暴言を吐いた数日後、溺死してたわ。原因は今も不明なままよ。


 私は、夕夏ママの応援もあって29歳の時にショーパブを二丁目のビル地下にオープンさせて成功したのよね。

 

 “麟子”と私を名付けてくれたのも姉さんだったしこの時に自ら看板用に墨字で『マダム麟子』と書いてくれたのよ。


 出会った時から、「麟子ちゃん」なんて呼んで可愛がってくれた姉さんからの贈り物は私の宝物となり二号店でも同じ看板を作ったの。


 広島での『マダム麟子』をオープンさせるにあたって私は強力な助っ人イザベラを東京から呼び寄せたのよ。


 彼の本名はジャン・アンティガ。フランスのオルレアン郊外の田舎町出身で、日本の時代劇(桃太郎侍)とアニメが好きで大学を卒業すると留学生としてやってきて、そのまま居ついてしまった変わり種なのよ。


 教職の免許があるとかで、代々木でフランス語を教えていたけど店の客としてくると、すぐに私たちに打ち解けてしまい、メイクを施すと彼はレディーに変身してすぐにイザベラとして人気者になるのよね。


 日本人のカレシもできて幸せそうだったけど、私をいつまでも慕ってくれて、「広島でマダム麟子を再開するの」なんて報告するとすぐに駆け付けてくれたのよ。


 マダム麟子二号店は、物珍しさもあってすぐに流行ったわ。


 自慢の手料理は常連を作り居酒屋としても機能したのよ。


 それと東京で磨かれた接客術と私の不気味な様相とイザベラの美しさのコントラストがうまく機能して、本当に多くのお客様が来てくださったわ。


 もちろん私の歌声は広島でも機能したわ。毎晩私の声を求めて拍手喝采の大盛況よ。


 幸せな時間だった・・・


 それが店を畳まなければならなくなった理由は二人の姉たちにあるのよ。


 店の近所で、小学生の男の子が痴漢にあうという事件が起きたの。


 「まぁ嫌ね」

 なんてイザベラとアルバイトスタッフ達と話しているところに、警察がやってきて私は連行されてしまったの。


 姉たちが結託して、「弟はふだんから男児好きで」ウソ事を警察に吹き込んだようなの。


 私は確かに、子供好きよ。そこにウソはないわ。でも、私の人相が子供たちを寄せ付けはしなかったの。


 私が優しくしても泣き出すか逃げ出すのが関の山だから、いくら子供好きであっても普段から近寄らないようにしていたの。


 でも夕夏ママが初めて産んだお嬢ちゃん優実ちゃんだけは、赤ん坊の時から私が世話をしていたのもあり、いつも寄ってきてくれていたわね。


 もう、そろそろ中学生かしら・・・


 警察ではアリバイなどいろんな事が調べられたけど、イザベラが弁護士を連れてくれると、すぐに釈放されたわ。


 でも、警察に連れていかれただけで、犯人もわからないままというのもあり店から客足が遠のいたの。


 近所の幼稚園や小学校にも、『マダム麟子周辺には近寄らないように』通知がいったみたいで、店から完全に火が消えるのは時間の問題だったのよ。


 「三年もしないで辞めるなんて悔しいけど、ここらで店を畳みましょう」

 私の申し出に、イザベラは抵抗したし渡そうとした退職金を受け取ってくれなかったわ。


 「これは、次の店の開業資金にしましょう」


 彼女は私から離れない証のように近所の女子大のフランス語の講師になってしまったの。


 店を畳むに当たっては、借金は残らなかったわ。だけど、店のあとの借り手は付かなかったわね。


 美容室・喫茶店・焼肉屋いろいろ見に来たけど、どれも自分たちの思い描く店像としてあまりにもかけ離れているようで、まったく借り手は付かなかったのよ。

 

 十台以上分ものスペースがある駐車場だけでも貸して欲しいという申し出があったけど、それも条件が合わずに断ったわ。


 放置期間が二年にもなると、私は生活費に困るようになってきたの。


 それに、長姉から今住んでいる、父の家からも6月中に立ち退くように随分前から言われている事から、もうあと二週間もなく私は切羽詰まっていたの。


 店は、放置しているといっても毎日のように、外気を入れるために掃除や手入れはしていたし、個室もある事だし引っ越そうとも考えたけど、厨房はあれど、バスルームがあるわけでもないし生活の場には向かないのよ。


 とにかく、地下の店の借り手がつかないかぎり私の生活の糧がない状況に、絶望した私は、姉への嫌がらせもあって家で自殺してやる事にしたの。


 こんな考えに至るまでには、いろいろあがいたのよ。


 賃貸金額も下げたし、駐車場だけでもと思い直して以前オファーがあった会社にも条件を折って声をかけたりしたけどもう相手にはしてもらえず、働きにも出ようと思ったけど、私の年齢とこの図体ではどこも雇ってはもらえなかったのよ。


 東京に戻る事も考えたけど、私のプライドがそれを許さなかったわ。


 “マダム麟子”として名を馳せた私が惨めな敗残者としてノコノコ二丁目に戻るだなんて、私に憧れて二丁目にやってきた子たちの建前許されなかったのよ。


 彼女達の夢を壊したくなかったの・・・


 彼女達の中での私は、稼ぐだけ稼いで故郷で優雅に趣味のカラオケバーをやっている引退者の姿で一種の理想像だったのよ。


 (本当に生きていくって難しいわね・・・)


 最初は、庭の柿の木だった。太い枝を選んだけど折れてしまったし、ドアノブもダメだった。次は、ガス自殺か、なんて考えながらコーヒーを飲み終えたタイミングで電話が鳴ったの。


 「えっ、地下の物件を見たいですって」


 また性懲りもなく店を見たいとの申し出があったみたい。


 「ええ、いいわよ。え~今からすぐなの、わかったわ、いいわよ」


 私は、気を取り直し、失敗した自殺あとを片付ける間もなく、身だしなみを整えて店の前に向かったの。


 「あら、あなたは先日の・・・」


 私は地下階段の前で立っている母子の少年の方を見て、そう言ってしまったわ。


 というのも、そこにいたのは、一昨日、犬を連れて地下にまで入り込んで店の中を窺っていた少年だったからよ。


 ここは地下ということもあり駐車場の出入口から気軽に入れるのもあって近所の子供たちがよく入り込むのよね。


 立ションするやつもいれば、「ここで子供が殺された」なんて二年前の事件に尾ひれがついて肝試しに使われる事もあったのよ。


 おまけに私という妖怪がいるのもかっこうの肝試しスポットとなったようね。


 でもこの少年は私が、「そこであんた何をしてるのよ」大声で怒鳴っても、犬は唸って反応したけど、それまでの子とは違い、逃げ出そうとはしなかったのよ。


 「マダム、このお店を扱う不動産屋はどこですか」

 それとエレベーターを指さしてその使い方を聞いてきたの。

 そのエレベーターは普段は地下へはアクセスせずに店のオープン中だけ使用できるように設定できるのよね。その事を簡単に伝えると、


 「また来ます」

 

 私を恐れる風もなくそのエレベーターに乗って上へと立ち去って行ったわ。


 その少年が、(どうせ冷やかしよ)なんて思っていたのに、本当にすぐにやって来たのよ、母親を連れて不動産屋と一緒に。


 これが私と少年の運命の出会いだったわ。


 少年は、


 「僕は加羅翔介です、よろしくマダム」

 

 名乗り、店の中を見るにつけ、


 「うん、これはいい、すぐに使えますよ、由紀さん」

 

 母親を名前で呼ぶ生意気盛りと思えば、チェックするポイントはしっかりしていたのに驚いたわ。


 「トイレが二カ所、客用は男女別々。個室があって、厨房まである。反響版までセットしてありますね」


 「ここを何に使うつもりなの」


 私は母親の方に問いかけた。それに答えたのは、少年の方だったわ。


 「スタジオですよ、それも急いで必要なんです」


 聞けば7月20日までには使えるようにしたいとか。


 (もう一カ月しかないじゃない)


 「間に合うの?」


 今度は少年に向かって聞いてみた。


 「間に合わせますよ。それには、このカラオケ機材と、客用の椅子、机は全部撤去します。カウンターは残しますが、グラス類や諸々も全て廃棄処分にします。それはOKですか?」


 「もちろんよ、そのまま使える物だけを残しておいたけど、必要ないなら廃棄でかまわないわ。でも、」


 「もちろん廃棄業者はこちらで手配します」


 この少年、私の懸念事項を察してくれたみたい。私にはもうお金もないし、何もできないのを見越していたのかしら。そう思えたのは契約するにあたり、


 「年間分の家賃を前払いしますから敷金をまけて下さい」

 

 そんな交渉事を持ち出してきたからよ。


 敷金の本来の使い道は家賃が踏み倒された場合の補填対策であって、前払い、それも年間分なら必要ないし、私が助かるとの判断もあり同行していた不動産屋に頷いたわ。


 こうして、私はこの不思議な少年を挟んで『株式会社翔』とかいう同じビルの五階に事務所を構える会社と賃貸契約を結ぶことを承諾し、すぐに契約を結んだの。


 『マダム麟子』


 「この看板は外してもいいかしら」


 私の申し出に、少年は、


 「どうされるんですこの看板?もしよろしければこのまま使わしてもらえませんか」


 「このまま使う?」


 「ええ、ここをマダム麟子スタジオと命名したいんです」


 「えっ、マダム麟子スタジオですって・・・写真スタジオに相応しくはないでしょう」


 笑われたわ。


 「ここは音楽スタジオとして使うんですよ。ここは地下で上は建材屋の事務所で騒音のクレームもなさそうだし、最高のシチュエーションなんですよ」


 「音楽スタジオ?」


 二日後からは早くも中の荷の撤去が始まり、四日後には駐車場を含めて清掃と改装が始まり7月になると荷入れの準備が始まった。


 地下駐車場にはドラムセットからアンプにモニターなど様々な機材が積まれたのよ。グランドピアノまであったわ。


 これらをセッティングするスタッフが東京から大挙してくるらしいのよね。


 駐車場入口に大きな自動シャッターの取り付け工事も始まったのよ。地下への階段口にもセキュリティーシステム付きの門扉が取り付けられたわ。


 その間、少年に変わって指揮するのは母親と思い込んでいた株式会社翔の女性スタッフの由紀さんだったわ。


 彼女は、とても清楚な美人で私とすぐに仲良くなったの。


 その由紀さんに、私の事を色々話すうちに、私の切羽詰まった境遇話にまでなって、それが少年に伝わり、


 「だったら、ここに住んだらいいじゃないですか」


 申し出があったのは地下からダイレクトにエレベーターでアクセスできる五階の株式会社翔の事務所だったのよ。


 このマンションは居住用のもので3LDKの事務所は丸々地下へ引っ越すそうだし五階の権利はまだ会社にあるという事で私は少年の申し出に甘える事にしたの。


 もちろん家賃は支払うし、引っ越しの手伝いもしたわ。


 こうして7月20日前には『マダム麟子スタジオ』は無事にオープンしたのよ。

 

 といっても何か特別な事をしたわけでなく、東京からやってきた人たちが大勢でスタジオに運び込まれたわけのわからない機材を調整しているのを私は見守るばかりの開店だったわ。


 でも、厨房で賄いを作って振舞うと皆は、大喜びしてくれたの。


 少年の事を、その頃には皆に倣って、「翔」と呼ぶようになっていたけど、本当に、「美味しい」と言って喜んでくれたのよ。

 

 そして翔は、


 「麟子さん、これからお盆までの間、ギャラと材料費を支払いますんで13人分の食事とスタジオの管理の仕事をしてくれませんか」


 依頼してくるの。私はなんだか楽しくなってきて、


 「ええ、いいわよ。腕を振るうわ」


 気軽に快諾したわ。


 20日なると東京から続々と客がやってきて、誰もが、


 「凄いな翔、こんだけのもんをよく短期間で作るとは」


 なんて褒め称えるのよね。私までも嬉しくなってしまったわ。


 翔といえば、来る人来る人、丁寧に私を紹介してくれるの、


 「こちらの方は、マダム麟子さん、ここの管理人さんです」


 そして嬉しい再会もあったのよ。本当に感激だったわ。


 「え~マダムじゃないですか、お久しぶりです」


 客の中に私の二丁目時代の馴染みもいたの。


 「あら恭平ちゃんじゃない」


 彼は、宮地恭平君、私がイベントで歌う時にお願いしていたバックバンドのメンバーで当時から有名なベーシストなのよ。


 それだけじゃない、本当に驚いたわ、私が大好きだったバンド『サウス・バウド・サウレス』のギターだった鳴門真司までいるじゃない。


 この時よ、私は翔が()()者でないと気が付いたのは・・・


 「さすが翔だな、このマダムをバックボーカルに雇うとは恐れ入ったよ」


 誤解が生じた。私が事情説明をすると、恭平ちゃんは、


 「翔、このマダムの声を聴けよ、ここで出会えたのは神の思し召しだ。ミオのバックに最高の助っ人だぞ」


 なんて言うのよ。


 翔はそれを聞いて、すぐに私のオーディションを始めたのよ。


 スタジオに持ち込まれたグランドピアノの横に私を立たせてリクエストした『As time goes by』を私のキーに合わせて弾いてくれたの。これまでの誰よりも上手だったわ。


 ♪~


 続けて私の十八番の『Lili Marlene』


 ♪~


 拍手大喝采だったわ。翔も大喜び。


 そして話はトントン拍子に進み、8月になると驚いた事に人気シンガーの美坂ミオがやってきて本格的なレコーディングが始まり、私もバックボーカルだけじゃなく、ツインボーカルとして参加したのよ。


 でも、一番驚いたのは、翔がこのレコーディングの総指揮者だったことよ。プロデューサーが翔だったの。


 いい歳した大人たちが小学生の翔の指図でスタジオで作業したり演奏したり、歌姫様の美坂ミオだって同じく言いなりなの。


 彼が、作曲家の園田翔と知ったわ。本当に泣きそうなぐらい驚いて感激しちゃった。


 私は出番がない時は皆のお世話をしながらレコーディング風景を部屋の隅に唯一残されたパブの遺品ソファに犬のノッコちゃんと座って見ていたの。


 このソファはノッコちゃん専用場所になったけど私とスズちゃんていう小学生の女の子には座らせてくれるのよ。


 他の人はダメみたい。誰かが座ろうとすると「ウーーー」なんて唸るの。


 この可愛いノッコちゃんとスズちゃんは私を怖がらずに本当に懐いてくれてすぐにお友達になったわ。


 特性ドッグフードも気に入ってくれたみたいだし、スズちゃんは特性プリンが気に入ってくれたようよ。


 お盆にはレコーディングは終わったけど、


 「マダム、9月にまた次のレコーディングが入りますんで、またバック宜しくです」


 翔は言うのよ。


 事務所化した個室のスケジュール表を見ればそこは来年の3月までの予定が一杯詰まっていたわ。


 面白い事になってきと思った。


 そして、東京の昔の仲間から次々に電話がくるようになったの。


 「麟子ママ凄いじゃない、マダム麟子スタジオなんて、二丁目じゃその話でもちきりよ」

 「広島のお店が潰れちゃったなんて聞こえてたから心配してたけど、音楽スタジオなんて凄いわね」

 「美坂ミオと一緒に唄うなんて凄いわ」


 なんてだ。


 情報源は、レコーディング中に取材に来た雑誌で、私もミオちゃんと並んでポップブロッカーを前に唄っているところがデカデカと載っていたのよね。


 そして私がスタジオオーナーだなんて紹介されているのよ。これは翔が、そう意図してそんな情報を流したみたい。


 とにかく彼は自身が目立つのを嫌うし、自分が表に出るのを絶対にしない代わりにぜんぶ私に押し付けてきたのよ。


 『もしかしてマダム麟子が園田翔?』


 そんな記事まで出回り、ミオちゃんのセカンドアルバムからの反骨精神隆々のシングル曲、私も一緒に唄う、

 

『トランプルド・アンダーフット』(足蹴にされて)

 が売れまくってるのもあり話題の人に祭り上げられたわ。


 そして私の曲『In my time of dying』(死にかけて)のレコーディングまでしてしまうの。


 翔が作詞、作曲した曲よ。


 ケラウズランブラの所属歌手として鳴門さんの勧めもあってデビューする事になったの。きっかけは、もちろん翔が背中を押してくれた事よ。


 ニッッ


 スズちゃんが、私に笑顔を向けてくれた。おちつくわ・・・


 ♪~


 レコーディングは無事に終わり、私の曲は、ジャケットがシンイチ・ミゴによる横顔がとても格好良く描かれていて、


 (素敵!)


 面白いように売れたわ。


 一躍人気者。

 でも、私は天狗にはならないのよ。

 だって、死のうとしていた私を救ってくれた救世主の翔は、目立つ事をしないのに私が出る幕じゃないわ。


 でもね、翔がね、「この番組だけは出てよ」なんて言って勧めてくれた昼間の超長寿番組には出演して、私はこの人相や図体からくる苦労話を涙しながら語る機会をくれたのよ。


 家族との葛藤。恩人と出会う前の苦労。男児痴漢騒動の顛末からの自殺未遂など様々を・・・


 最後は笑い話にしたけど、夕夏ママと園田翔に、


 「本当に私を救ってくれてありがとう。生きててよかったわ」


 なんて二度の挫折から救ってくれた二人の恩人に番組を通じてお礼が言えたわ。


 そして、私と翔、その仲間たちとの長い物語が始まったの。


                THE END



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