神様の手違い
腐敗臭のする夏の朝に僕は神様の手違いで死亡した。
しかし人々を導く教義の根本である神が手違いを起こすなんてことがあっていいのだろうか?
手違いを起こすなら神では無いのではないだろうか?
なら、僕の死はどうやって説明するんだ。
僕はいたって普通の高校2年生だった、運動や学業成績に特別優れたことはなっかたものの、それなりの友達に恵まれて、文化祭やら体育祭やらにいそしんで学校生活を送っていた。
そんな生活ができているのも僕が両親に頼みこんで実家から遠く離れた県立高校に通うことが出来たからだろう。
ここには僕の地獄の小中学生時代を知る人はいない、あの地元で僕と友達になる者はいない。
僕の地元は都市部から少し離れた山間部を切り開いて作られた小さくて、のどかで、とても閉鎖的な町だ。
住人は近所付き合いもきっと良く、町の公園には子ども達の笑い声が響いていたし、夏になれば近所のグラウンドでつつましやかな夏祭りが行われる、そんなどこにでもある幸せな町だったのだろう。
だろう、というのはこれらの社会性から僕は完全に切り離されていたからそれらは想像にすぎないということだ。
僕があの町で思い出すのはいつも遠慮がちに話すクラスメイトと、炎天下の中インターホンに頭を下げ続ける母の後ろ姿だけだ。
その日も僕は朝の6時に起きて家を出る準備をした、教科書をバックに詰めて半袖のワイシャツと学校指定のスラックスを穿いてまだ寝ている両親を横目に自転車にまたがって最寄りの駅に向かった。
自宅からは小高い丘を越えなければならない。
テスト前だということもあり夜更かしの疲労がたまっていた。
すこし朦朧としていた。
もともと自転車のブレーキは擦り切れていてあまり効かなかった。
坂の途中の家にはよく吠える犬がいた。
だから僕は坂を下る最中に吠えた犬に驚きバランスを失って坂の下の大通りに放り出された。そして大型トラックにはねられた。
これらの一連の出来事は神の手違いなんかじゃない、ずぼらな僕と迷惑な犬が起こした必然だ、しかし僕はこの大事故を運よく一命を取り留めた、いや運悪く生き延びてしまった。
幸いにも自転車ごと5メートルほど飛ばされた僕は打ち所がよく数か所の打撲と骨折、
ぐちゃぐちゃになった自転車のフレームが脇腹から突き刺さりおへそあたりから飛び出すという怪我のみで済んだのだ。
大通りなのでそれなりに人も多く誰かが迅速に通報してくれたおかげで僕は10分たらずで救急車に乗せられ近くに運び込まれた。
緊急外来の先生が運がよかったねと笑いかけてくれたのを覚えている、
大丈夫だこれなら命に別状はないと言っていた。
それから30分くらいの応急手術を受けた、手術室を出ると目に涙をためた母が駆け寄ってきた。そして医者に金切声でこう叫んだ。
「今すぐ!今すぐこの子への輸血を中止してください!!」
僕の母は熱心な新興宗教の信者だった。
そしてその宗教団体は西洋医学などの一切の医療行為を禁忌としていた。
母は僕が物心つく前にあった何かしらの出来事でその宗教に心酔したらしい、小学生の頃の僕は月に数回の集会と布教活動を行ったり来たりする生活だった。
集会は隣町にある寺と公民館を足して二で割ったような集会場で行われる、集会場の中は床をすべて畳張りにしてあり正面の一段高いところにぎらぎらとした仏像のようなものと、「先生」が座る偉そうな椅子がある。
先生はその椅子に座って数十人の信者に宇宙のことや死後のこと、終末論や善のこと、そして病と不老不死について説いた。
先生を開祖とするこの小さな宗教団体は仏教をベースとして様々な宗教の教えを自分の都合のいいように切り貼りしたいびつな宗教だった。
特に力をいれていたのは病や事故、障害からの救済だ。
先生曰くすべての苦しみは自身の業が呼び寄せるものであり、彼の神通力をこめたものを身に着けると業が浄化されるという。
まったくもって馬鹿げた話だがこの教えはお布施より集金効率がよく母も神通力入りの数珠や先生の髪の毛が入ったお守りなんかを高額で買って大事そうに身につけていた。
そんな先生にとって医療行為は安価で業を帳消しにする天敵であった、だから信者に医療行為を禁止するのは当然のことなのだろう。
「先生」は常に袈裟を改造したような服を着ていた、眼鏡の奥で細く開かれた眼はどこか爬虫類のようで、教えを偉そうに説いている様は蛇が卵を飲み込んでいる様子に似ていると幼ながらに思っていた。
病室では怒号が飛び交った、母はすぐに別の信者を呼び十数名の信者担当医に詰め寄った、医者はこのままでは衰弱してしまう、どうか点滴と輸血だけでもさせてくれと懇願した。
母はお願いだからこれ以上この子に禁忌を犯させないでくれ、更なる業がこの子に襲い掛かってしまうといった。
そして僕の手を握りながら大丈夫、先生があなたを救ってくれるわ、だから大丈夫と繰り返した。
ぼくは正常な呼吸が出来ていなかったのでひくひくとなさけなく喉を鳴らしてただ泣いていた。
その日の午後に「先生」とスーツを着た男がやってきた、どうやら彼は弁護士らしくなにやら医院長と話し始めた。先生は僕の頭をその白くて細い指で撫でた、もう大丈夫だ安心しなさい、そう言った。
拳を顔面に叩き込んでやりたかった、喉元をかみちぎってやりたかった、こいつを殺してほら神通力なんてないじゃないかこいつも同じ人間なんだと母に伝えてやりたかった。
でも血が足りなかった、ぼくはもう立ち上がることはおろか喋ることもできなかった。
夜になった、体中が針に刺されるような痛みに襲われた、何度も吐き気を催したし、口には血生臭いにおいがいっぱいに広がった。
深夜にナースが痛み止めをこっそりと持ってきてくれた、ごめんね、こんなことしかできない、なさけなくてごめんね、大粒の涙を流しながら彼女は夜通し手を握ってくれた。
彼女の手のあまりの熱さに僕はそこまで迫った自分の死を感じた。そのナースは僕に薬を渡したのがばれたようでその日から姿を見ていない。
2日目からは気絶と目覚めの連続だった。
まどろみの中で見舞いに来る他の信者や先生、高校の友達を見ていた、あいつらに母のことを知ってほしくはなかったが今ではどうでもよいことだ。
僕も頑張ったと思う、小学校のころは布教活動という名目で母に近所を片っ端から連れまわされた。
小さい子供がいれば話を聞いてくれる確率が上がるそうだ。
それに母は運動会や保護者会でも布教活動をするので僕の周りから本当の友達はいなくなった。
中学では連れまわされることは減ったものの結局は同じ小学校のやつが大方なので変わらなかった。
だから僕は遠くの県立高校を受験したのだ、すべてをやり直そうと思っていた。普通をになりたかった。
僕はじめじめとした病室のベットの上でやっとつかみかけたそれが指の隙間からどろどろと流れ落ちていくの感じた。
あるいは流れ落ちていたのは命かもしれない。
不思議なもので3日目の朝にパッと目が覚めた、今まであった寒気や吐き気がすっと引き、震えていた体が軽くなった。死の直前の脳内麻薬だ、今死ぬのだと確信した。枕元には先生が一人立っていた。
僕が業を清めたから君は輪廻するよ、次で極楽浄土だ。
そういった。
ふざけるな、そう言う前に僕の視界は黒くぼやけて意識が落ちた。眠った。
長い長い眠りだ。
さて、これが僕の死の概要だ。なぜ僕は死ななければいけなかったのか。
自転車の操作を誤った僕のせいか、忌々しいあの犬か、母だろうか。
先生が殺したようなものだと思う人もいるだろうし実際そうだと僕も思う。
では何で殺したのか、先生がもちいた凶器はなにか。
神の教えだ
現代まで伝わる宗教の中には現代の技術や価値観と相反する教えが多く含まれる、先生の宗教はそれらをつなぎ合わせて出来ている。
たぶんそれらの教えは宗教が発達した当時はとても意味のあるものだったのだろう。
しかし現代にその教えを転用すればたちまちに人が死んでしまう、これは僕に限った話ではない。
様々な神や人を超越したとされる存在は多くの恩恵を人に与えた。
希望の種をまいた。
しかしその種は育てる人間によっては毒の実を実らせる。それを彼らは予想できなかったのだろうか。
これは彼らの手違いだ、そのせいで僕は死亡した。
そして僕はこの世界で目を覚ますことになる。
異世界ものの小説でよく神様の手違いで死亡して異世界に行くという流れがあります。
あれをみて、いやトラックにひかれるのは手違いなのか?ならその他の死はどうなんだと思ってしまいます。様式美といわれたらそこまでですが、そういう細かいとこにいちいちつっかかってしまうのです。
なら逆にちゃんとした手違いというものを書いてやろう、と思ったのがこの小説です。思ってたよりも暗くなってしまいましたが、ほかにも込めたものがありますのでお付き合いして頂けると光栄です。