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「で?何か分かったかよ」
低く、粗野な声が給湯室に響く。
暫く使われていなかった場所であるが故に、埃が被っているかと思いきや、まるであの日のまま時が止まったようなその場所。
今は亡きヴェルシュタイン公爵夫人ジュリア専属の侍女がかつて使用していた給湯室。
そこでお湯を沸かしている所への、執事にとっての聞き覚えのある声に、彼は鬱陶しいという感情を隠す事もせず顔に出しながら、視線を向ける。
「アーネスト......なんですかいきなり、よくここが分かりましたね」
「あんだけ魔力が動いてりゃ、そこに坊ちゃんが居るのなんて丸分かりだろ。
んで、お前さんの事だから、坊ちゃんの所に行かない訳がない。
じゃあついでに話し合ってるだろ?
なら俺にくらい結果を報告してくれても良いじゃあねぇか」
「............今は、放っておいて下さい」
魔石さえあれば使用出来るそのキッチンで、水を入れた金属のポットがコンロに乗せられ、熱される過程でコトコトと小さな音を立てる。
軽食が作れる程度には設備の整ったそこで、彼はそのポットへと視線を戻した。
いつもとは様子の違う昔馴染みの姿に、アーネストは器用に片眉を上げ訝しむ。
「...何があった?」
「うるさい、まだこっちも、分からない事だらけなんだ!」
苛立ちか戸惑いか、綯い交ぜになった余裕の無い表情で、執事の堅く握られた拳が壁を叩き、だん!、と大きい音が辺りに響いた。
感情のままに振るわれた拳は、手袋をしているのにも関わらず分かるほど、掌の辺りが赤く滲んでいる。
筋力よりも、素早さや持久力、器用さなどを特化させた彼の掌は、貴人程ではないが、戦士よりは柔らかい。
強く握り締めながら叩き付けられた反動での怪我。
この様子だと、壁にぶつけた部分も擦過傷になっている事だろう。
そんな乳兄弟に、アーネストは落ち着いた声音で声をかけた。
「......落ち着けよ、口調変わってんぞ」
「............すみません」
俯き、謝罪の言葉を口にする執事の姿は、いつもの彼とは全く違う。
まるで別人のようにさえ見える程の自信なさげな彼の姿に、アーネストは、はぁ、と息を吐いた後、腕を組みながら近くの壁に寄りかかった。
ポットの水がお湯に変わったのか、沸騰した事を知らせる蒸気が、ぴぃい、と高い音を辺りに響かせる。
それに気付いた執事は、手馴れた手付きで魔石を止めながら戸棚から茶葉を出し、そしてそれを戻した。
この場所が凍結された当時から全く劣化していないそれに、違和のような、なんとも言い難い漠然とした不自然さを感じたが故の行動である。
彼は燕尾服の内ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
捲るように開けば、布袋に入った紅茶の葉が現れる。
それをポットの中へと布袋ごと入れた。
ちゃぽん、という小さな音が、嫌に響く。
「で?何か分かったのか」
ポケットから懐中時計を取り出して、抽出時間を確認する執事へ、アーネストは改めて声をかけた。
その、いつもの行動をする事によって少し落ち着いたのか、今度は声を荒らげる事も、激昂する事もなく、彼は静かに口を開いた。
「......分からない事が、分かりました」
「なんだそりゃ」
肩を竦め、怪訝そうな声音でのアーネストの返答に、執事は時計から目を離さないままに、言葉を返す。
「そのままの意味です。
あの方は、わたくし達の旦那様であり、......旦那様ではない」
「そりゃまたどういうこった」
「魂が、別人なのだそうです」
執事であるがゆえに、感情を表に出さないよう育てられた筈の彼の、淡々とした応えは、冷静なようでいて微かな戸惑いが混ざっていた。
「............なるほど、それが坊ちゃんじゃない根拠か。
んじゃあ、坊ちゃんである根拠は」
「記憶が、あるのだそうです」
「記憶?」
「今まで旦那様として、オーギュスト・ヴェルシュタインとして生きていた記憶が」
そこでちょうど時間が来たのか、アルフレードは備え付けられていた小さなトングを手に取り、ポットから茶葉の入った布袋を取り出した。
それをゴミ箱に捨て、ポットの蓋を閉める。
本来ならば美味しい紅茶を淹れる為には、もっと色々とやる事はあるのだが、今は時間が無い為に割愛しているようだ。
「ははぁ、なるほど。
そりゃあ確かに坊ちゃんであって坊ちゃんじゃねぇな」
顎に掌を当て、軽く擦る。
思案する時のアーネストの癖だ。
突拍子も無い話だが、ここでそれらを言及しても話が進まない。
そうした判断からの、返答である。
「わたくしには、あの方の魂が旦那様ではないという事に負い目を感じているように見えました」
戸棚から、埃一つ被っていない陶磁器のティーポットを取り出す。
蓋を取り、飴色の紅茶を金属ポットから注ぎ入れながら、アルフレードは静かにそう答えた。
どこからか聞こえる鳥の鳴き声と、戸惑いがちな乳兄弟の言葉は、外の長閑さとのギャップが酷い。
アーネストは、ふう、と一つ息を吐いた後、肯定するように頷いた。
「まあ、そりゃあそうだろうな、まるで俺達を騙しているみたいに思っても仕方ない」
「はい、...ですので、少しでも安心して頂ければ、と愚考し、記憶があるならあなたは旦那様だ、と、お伝えしたのです」
粛々と告げられたアルフレードの言葉に、アーネストが感じたのは、頭痛だった。
「.........言いたいことはあるが今はいい、......で?」
「......すると旦那様は途端に顔色を悪くされて、なにか恐ろしいものを見てしまったような、そんな目を」
戸惑いからか、迷子の子供のような目を向けるアルフレードに、アーネストは本日最大とも言える大きな溜め息を吐いた。
「......お前、そりゃそうだろ」
「何故ですか、わたくしは、一体何をしてしまったのです」
同僚であり、乳兄弟、そして幼馴染であり、皆の兄貴分であるという自負のあるアーネストは、その図体に似合わない程、人間の機微に聡い。
故に、兄弟のように育った執事、アルフレードの事も、可愛い弟と同じように大事に思っていた。
一番世話の焼ける弟分は当主であるオーギュストだが、それはこの際置いておこう。
まずは目の前の弟分の、矯正をしなければ。
吐き出した息を吸い込んで、アーネストはアルフレードを睥睨する。
「あのなぁ、お前さんが坊ちゃん至上主義なのは昔からだが、もうちょい柔軟性持てって何度言やぁ良いのよ俺」
「なんですかアーネスト、それの何がいけないんですか」
どこか拗ねた子供のような、そんなむっとした表情でアーネストを睨むアルフレードは、なんというか、実年齢よりも少しだけ幼く見えてしまうから不思議だ。
喋る事で肺から出て行ってしまった空気をまた吸い込んで、アーネストは言葉を続ける。
「悪かねぇよ、なんも悪かねぇ。
だがよ、お前さんの言い方だと、坊ちゃんじゃねぇ部分を全否定してる事になるだろうが」
「な......!?」
驚愕に目を見開き、硬直する乳兄弟の姿に、アーネストは頭痛が悪化したような錯覚を受けた。
だが、そこですぐにティーセットの準備に取り掛かる執事である彼は、どう見ても現実逃避をしているようにしか見えなかった。
「...全部含めて今の坊ちゃんなんだろうが。
別人の魂込みで今を生きてる坊ちゃんに、前の坊ちゃんを正当化されて肯定されても、なんも嬉しかねぇだろ、つーか息を吸うように全否定してくる奴なんて怖えだろ、馬鹿ですか?」
「...そんな、では、わたくしは、私は、なんという事を...」
「まあまあの余計なお世話だったな。
だから俺は昔っから言ってんだろ、もっと臨機応変に柔軟に考えろって。
数えるのもめんどくせぇくらい何回も言ってたと思いますがァ?お前さんの耳は飾りですかァ?」
アーネストの小言に動揺してか、カチャカチャと戸棚から陶磁器のカップやら何やらを出しては、間違えた数が多い分を戻し、給湯室の隅に置かれたカートにそれらを載せる。
それだけの動作をしてからようやく落ち着いたらしい彼は、ふぅ、と小さく息を吐き出してから、口を開いた。
「............アーネストは、何故、戸惑わないんですか、旦那様に、異物が混入しているのですよ」
困惑、猜疑、それから、一摘みの悲しみ。
鍋に入れられてグツグツと煮えるように、少しずつ、澱みとなって胸の奥に溜まっていくそれに、執事らしからぬ焦ったような表情が、薄く垣間見えた。
そんな彼に、アーネストはまた、大きな溜め息を吐いた。
目の前で誰かが焦っていると妙に冷静になる、あの状態に陥ってしまっているアーネストには、アルフレードの様子は完全な反面教師となっていた。
「その異物が坊ちゃんに悪影響ならそりゃあ確かに何とかしなきゃならねぇだろうさ」
「どういう事ですか」
「逆に聞くが、お前さんが異物だと断定したその魂、無くなったらどうなると思ってんだ」
至極、真っ当な問いだった。
「それは、きっと、元の旦那様の魂が」
「アルフレードさんよ、人を構成すんのは、肉体、記憶、魂だって習ったの、忘れたかよ?」
「覚えていますよ、当たり前でしょう」
何でもない事のように言っているが、事の重大さに全く目が向いていない弟分に、アーネストは本日何度目かの溜め息を吐いた。
「なら、魂が抜けるって事は、坊ちゃんにもう一度死んで貰う事になるって事がどうして分からねぇんだよ」
「......っ!!」
ばかなの?と視線でも問い掛けると、アルフレードは目に見えて落ち込んだ様子を見せる。
どんよりとした、なんとも言えない空気に耐えられなくなったアーネストは、確かめるように問いかけた。
「その魂が別人になったのァ、タイミング的に再誕した時なんだろ?」
「.........はい、そのはず、です」
自分の乳兄弟であり、主でもあるオーギュストが、賢人となった事は前回の面会の際に本人から聞いていた。
その情報があれば、後は予測だけでその答えには辿り着ける。
伊達に12年も、丸投げされた領地を大きな問題も無く運営出来ている訳ではない。
彼は乳兄弟の中で一番、自他ともに認める程に頭の回転が早いのだから。
弱々しく答えるアルフレードの姿は、普段と較べれば考えられない程だ。
そんな彼にも分かるように、アーネストは、ヒントとも呼べる程の問いを返す。
「...再誕するには、カミサマに気に入られるのが条件、だったか?」
旋毛が見えてしまう程に俯いていた顔が、勢い良く上がる。
それと同時に、アルフレードは唇を戦慄かせた。
「まさか......神は旦那様にわざと別人の魂を......!?」
「十中八九、そうだろうよ。
賢人として生きるには、坊ちゃんは弱過ぎる」
二人が導き出したその答えが、あながち間違ってない、というのがなんとも言えない。
「そんな、そんな事が、あっていいのですか」
「あっていい訳がねぇだろうよ。
だが、言い換えればその別人も、神に気に入られた存在で、ついでに言やあ巻き込まれた被害者だ」
小さく肩を震わせる執事は、罪悪感と憤りにより、表情を強ばらせていた。
一方アーネストはというと、こちらもこちらで拳が震える程握り締めながら、また言葉を口にする。
「俺達よりも、ずっと戸惑ってんじゃねぇのか?お前さんの言う異物は」
アルフレードは、己の罪深さを知り、人生何度目かの大きな後悔の念を抱いた。
......実際の所、オーギュストも、その肉体に放り込まれた魂である陽子も、神に選ばれた訳ではない。
だが、そんな事など知らない彼等には、想定の範囲外の事。
故に、今後も彼等はそれに気付く事など一切無いだろう。
神がわざわざ説明してくれる訳でも、陽子が懇切丁寧に解説してくれる訳でもないのだから。
やってしまった。
表情筋が、珍しく感情に反応したのだと気付いたのは、執事さんが居なくなった間に記憶を整理していた時だ。
引き攣り、恐怖した顔を、よりにもよって一番信頼しなければならない筈の執事さんに、向けてしまった。
オーギュストさんの記憶が鮮明過ぎて、まるで録画してるみたいに頭の中で再生されるから、執事さんの瞳に反射したオーギュストさんの顔が、映っているのに気付いてしまった。
まるで、お化けでも見たみたいな、酷い表情の、オーギュストさんの顔。
いや、そんなんまで見えるとか色々ヤバ過ぎると思うけど、ツッコミしてたらキリがないからそれはもう気にしない事にしよう。
演技が未熟だと自分を責めたいけど、それよりも、やらかしてしまった事が問題なのだ。
彼に私に対する不信感を抱かせたかもしれない、という事が。
外見には分からないかもしれないが、私は焦っていた。
そりゃもう、物凄く、今世紀最大くらいには、焦っていた。
どうしよう。
いや、もう、ホントにどうしよう。
何をどうしたらいいのかさっぱり分からない。
次に会った時に、弁解するか?
ダメだ余計に不審に思われるよどう考えても。
頑張って良い方に考えても、不自然な言い訳言ってるようにしかならない気しかしない。
だとしたら、他に出来るのはスルーだろうか?
いや、しかし、それはそれで今後の蟠りになりそうな気がする。
え、詰んでない?
あれっ、詰んでるよねコレ。
どうしよう、どうしたらいいのコレ、分からん。
考えろ、こういう時どうすればいいのか、オーギュストさんの無駄に高性能な脳味噌を使って、考えるんだ私。
えーと、えーとえーと、えーとえーとえーとえーと...
あかん、どれだけシミュレーションしてもロクな結果にならん。
「旦那様、紅茶をお持ちしました」
「............アルフレードか」
ぎゃあああああああああ!まじかああああああ!!
どうしよう!なんも決めてないのに本人来ちゃった!!
終わったわー、これはもう終わった。
私の人生の終了のお知らせだよ。
この紅茶が最後の晩餐ってやつなのかな。
凄く良い紅茶らしいから、根っからの貧乏人な私からすれば、きっと卵かけご飯何杯でも食べられるくらいの価値なんだろう。
最後がご飯じゃないのはちょっとアレだけど、まあ仕方ないよね。
執事さんの用意してくれた紅茶のカップを、普段と同じように手に取って軽く傾ければ、口の中に紅茶の味が広がった。
「.........む?」
なんか、いつもよりぬるくね?
「旦那様、申し訳ございません」
え?なになに?ごめん今ちょっと紅茶に気を取られてたわ、どうしたの執事さん。
「わたくしを、殴って頂けませんか」
.........いや、ごめん、待ってホントにどうしたの執事さん。
※違和のような~、という部分はわざとです。
違和:体の不調、違和感、などの意味があります。
調べて書いた部分なので、私のこだわりが消えるまでは多分このままです。どうぞご了承ください。





