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こんな日が来るとは予想していた。
だけど、それがこんなにも突然だとは思わなかった。
これが彼なりの優しさだとは理解している。
理解してはいるが、納得したくなかった。
私は、昨日宣言された通りに、書類という書類を取り上げられ、挙げ句執務室どころか書斎に行く事さえ禁止されていた。
現在の時刻は、現代でいうと朝の九時頃だろうか。
クロワッサンとポタージュとサラダという、シンプルで美味しい朝食を終え、豪華だけど落ち着いた雰囲気の自室に帰還した所である。
オーギュストさんのお母さんの主治医の先生が来るのは本日の午後三時。
いつも通りなら書類仕事に精を出している時間なので、物凄く時間が余っていた。
当主用の寝室に備え付けられた小さいテーブルセットの椅子でまんじりとも出来ず、天井を見つめる。
何もする事が無いんだから仕方ない。
いや、行こうと思えばあちこちに行けるだろう。
オーギュストさんのスペック、ハンパないし。
実は一応ついさっき、強行突破しようとしてみたんだけど、あの執事さんから泣きそうな顔で、どうか休んでくれ、と懇願されてしまった。
そんな事されたら、断れない訳で。
......まあ、良く考えたら、上司がめっちゃ働いてたら部下だってあんまり休めないよね。
社会で働いた事無いけど、バイトした事はあるから、予想は付くんだ。
だけど、一つ、言わせて欲しい。
余計なお世話だ、と。
一人で、オーギュストさんの部屋に居るというこの状態に、憤りしか感じる事が出来なかった。
せっかく、何も考えなくて済むように仕事頑張ってたのに、これじゃ意味が無い。
......本当は私だって、あんな仕事、したくないんだ。
もともと私は、そういう事務的な仕事は向いてない方だ。
バイトも、レストランのウェイトレスとか、体を動かす方の仕事が得意だった。
だけど、オーギュストさんのスペックだと苦手な筈の事務的な仕事が普通に出来てしまう。
息を吸うように暗算して、書き込めてしまう。
賢人になってしまったからか、疲労も全く感じないというオマケ付き。
今までのオーギュストさんらしい演技だって、死ぬ前、女優になろうと頑張っていた本来の私よりも自然に、そして違和感も無く演じられていた。
演技力には自信があったし、だからこそ演じる事に関して、呼吸や体の動かし方の知識は頭の中にある。
本来の私はまだまだ未熟者だったから上手く出来てない部分もあったけど、この身体は違う。
賢人という存在は、あらゆる能力が最低でも五倍以上に跳ね上がる、って説明書にあったから、多分そのせいだろう。
だからこそ、何の苦痛もなく仕事が出来ていた。
今まで全く出来なかった事が出来るという現実に、飽きるとかも無く、むしろ、楽しんで生活していた。
だから私は、そうやって現実からの逃避が出来ていたんだ。
夢の中みたいな、ふわふわとした感覚のままに居られるように。
だけどこんな状況じゃ、どうしたって考えてしまう。
考えなくてもいい事、考えちゃ駄目な事を。
なんで、私がここに居るのか、とか
なんで、死ななきゃならなかったの?とか
そんなの考えちゃダメなのに。
考えてしまったら、私は。
ぐらりと、足元の床が崩れて、無くなっていくような気がした。
............あぁ、ダメだ。
一度頭を過ぎってしまったら、それはもう、止まらない。
知識としては知ってるけど、全く覚えのない知らない景色、人、何もかもに違和感を感じていたから、だから、それを全部、無理矢理、何も考えないようにしていた。
だけど、冷静に考える時間なんて余計な物が出来てしまったから、とうとう、限界が来てしまったんだろう。
昨日感じた通り、やっぱりこうなったか、と冷静に考える自分が居たけど、それよりも考えないようにしていた事実が、どうしようもない不安感になって押し寄せる。
頭の中を、色んな思考が駆け巡った。
ここは一体何なの?
どうして、私がここに居るの?
なんで死んだの?
なんで、死ななきゃいけなかったの?
なんで私なの?
私じゃなくても良かったよね?
なんで?
なんで、なんで、なんで、嫌だ、嫌だ、帰りたい
帰りたいよ、おとうさん、おかあさん、なんでいないの?
帰りたい、帰りたい!帰りたい!!
嘆き、郷愁、憤り、それぞれが好き勝手にやって来て、胸の内を掻き乱していく。
一番遅れてやって来たのは、罪悪感だった。
心臓を鷲掴みにするみたいな、訳も分からない罪悪感。
申し訳なくて、哀しくて、つらくて、苦しくて、それでも涙は出てくれない。
それが余計に、心を掻き乱す。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
死んでしまって、居なくなってしまって、ごめんなさい
でも、私だって生きたかった
死にたくなかった
生きていたかった
だって、これからだったんだ
これからようやく、親孝行出来るって、有名になって、お金稼いで、二人を楽させてあげるんだって
心残りしかない
もっと、家に帰ってれば良かった
照れ臭くても、もっとたくさん、大好きって、伝えてれば良かった。
もっともっと、会いたかった
なんで、何もしなかったんだろう。
どうして私は、後回しにしてたんだろう。
つらい、酷い、苦しい、嫌だ、悲しい、ごめんなさい、寂しい、どうして
取り留めのない、酷く歪な感情がただ胸の内で燻る。
せめて、声が聞きたかった。
喉の奥が引き攣るみたいな、何かが詰まったみたいなどうしようもない苦しさに、つい、自分の物じゃないその節くれ立った両手で、顔を覆う。
今頃、二人はどうしているんだろう。
...お父さんはきっと、私が見た事無いくらい泣いてるんじゃないかな?
だって私、お父さんっ子だった。
反抗期には酷い事を言ったりもしたけど、でも、やっぱり大好きだった。
ゲームが好きでインドア派だけど、小さな私の為に休日潰して、公園で一緒に遊んでくれた。
ちょっとメタボなお父さんのお腹を枕にお昼寝してたら、お腹の音がうるさくて、文句言ったら困ったように笑ってた。
お母さんもきっと、顔をクシャクシャにして、大声で泣いてる。
元々、感情表現の大きな人だった。
私の事も大事に育ててくれた。
モデルとして私の写真が雑誌に載った時には、まるで自分の事のように喜んでくれた。
近所中に、これウチの娘なの!って雑誌持って自慢して回ってて、恥ずかしいから止めてって言ったけど、でも本当はとても嬉しかった。
女の子なら料理くらいは出来た方がモテるって、大根の桂剥き教えて貰ったけど、私よりお母さんの方が下手だったね。
二人共、散々泣いた後、見てて痛々しいくらいに、呆然とするんだろう。
抜け殻みたいに、なってるんじゃないかな。
そんな想像しか出来ないけど、この想像が本当になってるかどうかなんて分からないけど、きっと、そうなってる。
だって家族だ。
家族だったんだ。
二人共大事な、とても大事な家族だったんだ。
無くなってから分かる、って良くドラマとかで見てたけど、まさか自分がこんな事になるなんて、思いもしなかった
哀しくて、苦しくて仕方がない。
神様って本当に酷い。
今、私がここに居るのは、あの神様なりの優しさだなんて、全然、全く、これっぽっちも思えなかった。
頭の中はぐちゃぐちゃで、感情は嘆きと悲しみと、どうしようもない後悔と、とにかくマイナスな方向に跳ね回っている。
もう完全に賢人になっているから、精神的な苦痛も余り感じない筈なのに、それでもこれだけ苦しいって事は、本来なら物凄く、それこそ死んでしまいたくなるくらいの苦痛なんだろうと思う。
いくら気にしないようにしてても、いつか限界が来るとは何処かで予想していた。
だから今、誰も居ない時にこういう事を考える事が出来るのは、良い事なのかもしれない。
だけど、こんなにも苦しい。
苦しくて、悲しくて、つらい。
......本当に、私は死んだんだろうか?
これはホントは全部夢で、私は生きてるんじゃないだろうか?
そんな甘ったれた考えが浮かぶくらいには、追い詰められているらしかった。
分かってる。
ここは現実で、あの世界で私は死んだんだと。
本当はちゃんと理解しているのだ。
あんな理不尽な痛みの中で、死んだと言われても納得しかしない。
ただ単に、認めたくないだけだった。
だって仕方ないじゃないか
誰があんな若さで死にたいと思う?
あんな、何もかも手放したくない状況で。
やりたい事も、やり遺した事もまだある。
たくさん、あったんだ。
死ねる訳が無い。
なのに、私は死んだ。
いっそ何もかも忘れてしまえば楽だったのにと思ってしまうくらい、苦しくて悲しい。
でも、大事な記憶だから忘れたくなんてなかった。
自分自身の勝手さに、反吐が出る。
胸の内を、色々な感情が掻き乱して、余りの苦痛に、のたうち回りたかった。
頭の中を、困ったように笑う父と、アッハッハ!と豪快に笑う母の、いつもの二人の笑顔が過ぎる。
鼻の奥が、つんとした。
......お父さん、あのね、こっちの世界は、魔法があって、しかも使えるんだよ。
私は興味無かったけど、お父さんはゲームが好きだもんね。
きっと喜ぶと思うんだ。
お母さん、あのね、知ってると思うけど私、お母さんの作る豚汁が大好き。
サツマイモが入ってるやつが特に好きだった。
こっちにはお味噌があるか分からないし、あったとしても、まだ教わってなかったから、多分同じ味の物なんて作れないと思う。
会いたいよ。
会って、お父さんに、よく頑張ったな、って、頭撫でて欲しい。
お母さんに、大人なんだから甘えないの!って、それから、いつもみたいに、仕方ない子ね、って笑って欲しい。
寂しい、悲しい、苦しい、会いたい
全部、何もかも、夢だったら良いのに
そんな風に嘆きながらも、それでもどこかで冷静な自分が居た。
これは多分、私がオーギュストさんで、賢人になってしまったからだと思う。
私は今、オーギュストさんで、でも、ちゃんと高田陽子だから、そのせいでこんな風にぐちゃぐちゃになってしまうんだろう。
オーギュストさんの記憶は、いつか高田陽子の記憶と混ざって、統一されて、何もかも統合して、そして私はオーギュストになるだろう。
それがいつなのかは分からないけど、絶対にその日が来る事は直感で理解していた。
だからこそ、こうやって嘆く事は、今しか出来ない事だった。
ふと、考える。
記憶の中に居る、自分じゃない存在の事を。
ねえ、オーギュストさん
私は一体、どうしたら良いかなあ?
あなたに成り代わりたいとか、そんな事これっぽっちも考えてないんだ。
なのに、本当にどうしてこうなってしまったんだろう
あなたが望むなら、すぐにでもこの体を返したい。
返すから、何事も無かったみたいに、生きて欲しい。
いっそ、消えてしまえたら良かったのに、どうして私はあなたの中で生きているんだろう。
生きたかった。
でも、私は私として生きたかったんだ。
なんで私だったの?
なんでオーギュストさんだったの?
苦しくて苦しくて、それでもまだ生きていたいと思う自分に苛立ちしか感じない。
だけど、記憶の中のオーギュストさんは、自分の死だけを願っていた。
...きっとあなたは生きる事が辛かったんだよね
何もかも投げ出して、好きな人の所へ行こうとするくらいだから、よっぽどだったんだろう。
なら、私が返すって言っても、いらないって言われそうだ。
そんな事言われても、私だって困るんだけどなあ。
ねぇオーギュストさん、あなたなら、どうするのかな。
こんなにも辛くて、苦しくて、悲しいのに、涙は一向に出て来てくれなかった。
賢人だからなのかもしれないけど、泣きたくても、どうしても泣けない。
泣く演技は得意だから、泣こうと思えば泣けそうで、鼻の奥だってツンとしてるのに、それでも、心が拒否してるみたいに泣けなかった。
なんて、苦しいんだろう。
ふと、風が吹いた気がした。
変だな、窓開いてたっけ、とか思いながら意識を現実に向ける。
すると、予想外の光景が目に飛び込んで来た。
薄緑色の瞳から、はらはらと大粒の涙を零す女性。
金色のストレートロングヘアと、薄青色の可愛らしいドレスを空気に溶け込ませながら、その人は私の傍に佇んでいた。
声は聞こえないが、その唇は何度も、『ごめんなさい』と告げている。
『あなたはなにも、わるくないの』そう呟いて、大粒の涙を空気に溶かしていた。
薄く透けている透明な彼女は、どう見たってオーギュストさんの最愛の人、ジュリアさんで。
予想外の現実に、呆気に取られてしまいながらも、私は恐る恐る口を開いた。
「何故、ここに?」
私の問いは、すり抜けてしまったのか、彼女ははらはらと大粒の涙を零すだけ。
『ごめんなさい、ごめんなさい』
耳には何一つ聞こえない、音の無い謝罪を繰り返しながら、私の言葉に気付いた様子も無く、彼女はスウッと滑るように移動する。
両手で顔を覆いながら、扉をすり抜けて外へと行ってしまって、反射的にか、それとも何か他に理由があるのか、自分でも分からないけどつい、彼女を追った。
透明な彼女の薄青色のドレスの裾を追って角を曲がり、階段を降りて、無我夢中で追う。
ふと、辺りが白っぽくなっているような気がした。
そして気付く。
吐き出した息が、白い。
屋敷の中だというのに、随分と気温が低いようだった。
不思議に思いながらも、奥へ奥へと足が進む。
そして、ある部屋の扉へと彼女は吸い込まれていった。
床が、ジャリ、という音が出るほど凍り付いている。
見渡せばそこはまさに、氷によって閉ざされた世界と言っても過言で無い程度には、幻想的な場所となっていた。
北極や南極に存在していそうな大きな氷柱が垂れ下がり、氷の下に薄らと屋敷の壁紙や装飾、そして廊下が見える。
そんな中、ジュリアさんの入って行った扉だけが、本来の姿を保っていた。
恐る恐る、そのドアノブに手を掛ける。
賢人だからか、冷たいとも寒いとも感じないけれど、白い霜に覆われたその扉は、芯まで凍っているのではないだろうか。
そのままちょっと力を入れるだけで壊れてしまうかもしれない。
それでもゆっくりとノブを回すと、ピキパキと小さな音を立てながらも、ガチャリと音が鳴った。
引けば、きっとこの扉は開くだろう。
だけど、なんだかよく分からない不安感と、胸騒ぎがした。
だとしても、きっとこれは必要な事だろうと自分を奮い立たせ、扉を開く。
そして、目に飛び込んで来た光景に
全く泣けず、止まっていた筈の涙が、何かを取り戻すみたいに、一気に溢れた。
可愛らしいけれど、品のある調度品達。
カーペットは落ち着いた雰囲気の薔薇の模様で、壁紙も可愛らしい薔薇。
女性らしい雰囲気だっただろう室内は、何もかも全て、凍り付いていた。
窓際のベッドに横たわる、一人の遺体ごと。
喉の奥から、何か、よく分からない物がせり上がって来たように感じた。
そして、ふとした瞬間にそれは零れ落ちる。
「ぅあ、ぁあああああ...!」
喉から出たのは、嘆き、だった。
何もかも、空気や雰囲気さえも当時のまま、凍っている。
初めて見る人の遺体だというのに、何故か恐怖は無くて、ただただ、悲しくて仕方がなかった。
金色だった髪は、真っ白に
美しく滑らかだった肌は茶色く変色し
手足は骨と皮だけと言って差し障りが無い程に細く
これが人で、女性だったという事が分かるのは、顔と、着ている服だけ。
骨に皮が貼り付いているのではないかと思える程痩けた頬
眼球はそのままに落ち窪んだ眼窩
それでも、まだ不意に瞼を開くんじゃないかと思える程の、生々しさ。
ベッドの中で安らかに眠っていたのは、オーギュストさんの最愛の、ジュリアさんその人で。
涙が止まらなかった。
足元が覚束なくて、彼女の眠るベッドの近くで崩れ落ちるように膝をつく。
「っオーギュスト・ヴェルシュタイン...!」
死者に対する冒涜だとか、そんな事よりも彼の愛が悲しかった。
お墓に埋葬する事すら、当時の彼には出来なかったんだろう。
彼女が死んだという事実を認める事になってしまうから。
だから、時を止めるように、全てを氷漬けにして、12年間、今まで、ずっと封印していた。
あぁ、だからオーギュストさんは、この家に帰って来なかったのか。
納得すると同時に、この現実が悲し過ぎて、そして、何故だか分からないけど、ここでなら泣いても良いと言って貰えているみたいで、涙が止まらなかった。
自分の後悔と、心残りと、郷愁と寂しさが、当時のオーギュストさんの感情と、こんな人を置いていかなきゃいけなかったジュリアさんの思いともリンクして、もう訳が分からなくなりそうだった。
凍り付いた部屋の中で、私はただ、泣いた。





