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地の文をいつもと違う感じにしたらとてつもなく難産になってしまった......お待たせしてすみませんでした...。
ルナミリア王国騎士団長、ミカエリス・ヴェルシュタイン。
彼はこの国の宰相の推薦により、王国騎士団のトップに抜擢された、若き英傑である。
抜擢された当時は20歳であったが、現在は2年経過し、22歳となったが、まだまだ若い事に変わりは無かった。
性格は品行方正、指揮を執る姿は質実剛健、歩けばその気品溢れる美しい容姿に老若男女が振り返る。
誰の目から見ても、引く手数多にしか見えない好青年。
そんな彼が未だに婚約者の候補さえ一人もいないのには理由があった。
彼の父親が、かの悪名高いオーギュスト・ヴェルシュタイン公爵だからである。
ぶよぶよとした脂肪に包まれた巨体、口を開けば罵詈雑言、貴族らしい気品も、矜恃さえもどこかで棄ててしまったのか、見るに耐えぬ醜さ。
更に、国王の次という高い権力を私利私欲の為に乱用し、領地に圧制を強いる、貴族の風上にも置けない醜悪な男。
そんな男の居る家に嫁ぎたい女性など居る筈も無く、更に言えば義理とはいえ父になるなど、いくら困窮していたとしても、普通の女性ならば当たり前のように、とても容認出来るものでは無かった。
しかし、それも病より復帰したヴェルシュタイン公爵の登城により、一変する事になる。
姿を見せたのは、例えるのならば氷の彫刻、そういった芸術品を彷彿させるような、美しい偉丈夫。
あれは一体誰なのか、その場は一時騒然となった。
誰も彼も、ヴェルシュタイン公爵の本来の姿など知らなかったのだ。
理由としては、12年前に起きた戦争の際、発生した病のせいである。
当時、枯木病は王国中に広まっていた。
つまり、犠牲者は平民だけでなく貴族にも多かったのだ。
一家全員が罹患したせいで死に絶え、断絶してしまった家もあれば、尽く当主が罹患し、遠い血縁の養子を迎えざるを得ない家もあった。
特に罹患者が多かったのは、二十代から、彼等の父親世代の四十代までに掛けてと幅広く、つまり、若かりし頃のヴェルシュタイン公爵の姿を知る者は、王族等、特効薬が間に合った一握りを残し、病により死に絶えている事になる。
故に、今の貴族達は平民上がりの新興貴族であったり、幼い頃に親兄弟を亡くしたが、それでも貴族として必死に生き抜いて来たという、次世代の者ばかりなのだ。
ついこの間まで、蔑み、馬鹿にし、軽視していた公爵の変貌に、女性は掌を返したように色めき立ち、男性は困惑していた。
あれが本当にあの公爵なのか?
いや、きっと影武者だ
しかし国王陛下が親しくしていたと聞く
一体どういう事だ、騙されているんじゃないのか
そういえば、昔、陛下と公爵は知己だという噂があったが
なるほど、当時はとんだガセだと思っていたが、真実だったのか
疑わしい話だが再誕し賢人となったと聞くぞ
いや、それはどう考えても無いんじゃないのか
だが、精霊王が現れたらしい
そんな馬鹿な!それでは確定じゃないか!
賢人になれるなど、あの公爵殿は本当は良い人だったということなのか
信じ難いが、そういう事なのだろう
あぁ、あんなに素敵な方なら後妻になっておけば良かったわ
ねぇ、今からでも遅くないんじゃないかしら
わたくし、思っておりましたのよ、御子息があれだけ美しいのだから、本人があんなに醜い筈が無いって!
まあ、ならもしかして、何かの呪いを受けていたのではなくて?
あぁ、きっとそうだわ!なんてお可哀想なんでしょう!
なんて事なの、どうして気付いてあげられなかったのかしら!
あぁ、おいたわしい!今から行って癒して差し上げたいわ
駄目よ、きっと沢山の方々に裏切られたと思ってらっしゃる筈だわ、そっと見守る方がいいと思うの
ねぇ、わたくし今から騎士団長様の婚約者候補に立候補しようかと思うのだけど、まだ間に合うかしら
あら、あなたには既に婚約者がいらっしゃるじゃないの
そんな会話が、パーティ会場である王城のそこかしこから聞こえていた。
そして、そんな噂話を聞きながら、渦中の人であるヴェルシュタイン公爵の一人息子、ミカエリス・ヴェルシュタインは、国王の護衛として王の傍らに佇みつつ、その形の良い唇を噛み締めた。
「ふむ、話題はもっぱら、オーギュストの事のようだな...、騎士団長」
「はっ、誠に遺憾ながら...、我が父が申し訳ございません」
どこか楽しげな王の言葉に、彼はすぐさま謝罪の言葉を口にした。
「何を謝る?賢人としてだが、無事に帰ってきた、...喜ばしい事だ」
しかしそれに対し王は、くつくつと喉の奥で笑い声を漏らしながら、何処か遠くを見つめ、目を細める。
自分の髭をゆっくりと撫でる王の目は、とても優しい。
だからこそ、息子である前に騎士団長である彼は、簡単に己の父親の肩を持つ訳には行かなかった。
「っしかし、我が父の言動は、陛下の御心を蔑ろにするようなものばかりでしたでしょう」
「......そう言いながら、顔が緩んでおるぞ?」
「っ!?」
ニヤリ、そんな風にどこかニヒルに笑う王の言葉に、彼は思わず片手で自分の口元を押さえた。
当の本人である彼には自覚など無かったが、彼が口元を押さえた途端に、微笑ましげにも、からかうようにも見える、小さな子供がするような無邪気な笑顔を、仕えるべき王本人に向けられた事から、どうやら本当に彼の顔は緩んでしまっていたらしい。
「も、申し訳、ございません...!」
何処か必死になって謝罪の言葉を口に出しながら、王の足元へ跪こうとする彼に、当の王は微苦笑を浮かべ、呆れたような溜め息を吐き出すかのように告げながら、手の動きだけで彼の行動を制した。
「良い良い、以前の父親が帰って来て、息子の貴様が嬉しくない訳がなかろう。喜ばしいのは我も同じよ」
「しかし...!」
未だ食い下がろうとする彼に、王は威圧感を眼力と声音に込め、きっぱりと告げる。
「構わぬと言っている」
ギシリ、そんな風に音を立てながら、己が固まってしまいそうなプレッシャーを受けて、そこでようやく彼は王が普段と違う雰囲気を纏っている事に気付いた。
今までの、何かを諦めてしまったかのような空虚な瞳は既に無く、ぎらりとした、熱く燃えるような何かが王の瞳には灯っていた。
「...はっ!、差し出がましい事を申しました、申し訳ございません...!」
勢いよく頭を下げた彼は、緊張からか喉の奥が引き攣り、掠れた声で、それでも精一杯誠意を込めた謝罪の言葉を口に出す。
だがしかし、王の視線は彼をすり抜け、何処か遠くを見つめていた。
そうして、王はポツリと呟く。
「...まるで、長い悪夢を見ているようだった」
しみじみと、そして、万感の思いが篭もった王の呟きに、彼はつい顔を上げ、王を見詰める。
「......陛下?」
「長い長い、悪夢だ」
しかしどうやら、王には、彼の声は届いていないようだった。
いや、届いては居るが、敢えて聞いていないのかもしれない。
その証拠に、王は不意に彼に視線を合わせ、堂々と言い放ち、そして問い掛けた。
「だが、それももう終わった。
我等は悪夢から覚めたのだ。そうだろう?」
悪夢。
その王の言葉に、彼は息を飲む。
今まで苦しんだ12年は、彼の心も王の心も苛み続けていたこの年月は、何かも全て、ただの悪夢だったのだと、王は言っているのだ。
そして、自分達はその悪夢から解放されたのだと。
王が、己の父親であるヴェルシュタイン公爵の変貌に心を痛めていた事は、彼も知っていた。
同様に王も、彼が父親の変貌に傷付いていた事を、知っていたのだろう。
王は、この人は、父の事だけでなく、私の事までも、ずっと気に病んでいたのだろうか。
そんな風に思い至ると共に、じわりと染み込むように、王の言葉が彼の中へと浸透して行く。
そして、次に彼の中に生まれたのは、感動だった。
彼は、ぐっと歯を食いしばり、それでも何か答えなければと懸命に口を開く。
「......っはい...!」
だが、気を抜けば涙を流してしまいそうで、必死にそれを抑え込んだ彼は、たったそれだけしか答える事が出来なかった。
それから、暫くの間だったのか、それとも、少しの間だったのかもしれない。
彼の体感では長くもあり、短くも感じた沈黙の後、突如として朗らかに、王は彼へ語り掛けた。
「さあ、貴様もそろそろ行くが良い」
それは、彼をパーティへと促す言葉であった。
突然の事に一瞬だけ、何が起きたのか分からなくなってしまいつつも、王の言葉をなんとか理解し、飲み込んだのだが、当の彼は職務を全うしようとしてか、冷静に答えた。
「......いえ、私には陛下の警護がございます」
一言で言えば、堅物、生真面目、一辺倒、その辺りが妥当だろうか。
そんな彼に、王は、出来は悪いが可愛い息子を見るような、何とも微笑ましげな視線を送り、微苦笑と共に言葉を掛ける。
「建国記念パーティに騎士団長が参加せんでどうする?国民から顰蹙を買ってしまうぞ」
「しかし...」
尚も言い淀む彼の姿に、王は胸の内に溜まってしまった溜め息を鼻から追い出しながら、どこか困ったような表情で、静かに笑った。
「挨拶も終わった。妃とも踊った。
後は執務室に戻って仕事をするだけなのだ」
「......そういう事でしたら、かしこまりました。着替えて参ります」
「あぁ、そうだ、貴様の服は用意している」
何でもない事のように告げられた、あまりにも予想外な王の言葉に、彼の頭の中は大騒ぎになった。
服!?国の記念パーティに着るような服を、王が!?私に!?なんで!?
混乱のせいで固まったように王を見つめ続ける彼に対して、王はイタズラが成功した時の子供のような表情を浮かべた。
「どうせ高位貴族らしくもない質素な物しか持っておるまい?」
「そ、そんな、事は、......」
何とか反論しようとしたものの、それは無い、とは言いきれなかった。
むしろ、彼は以前までの父親の事もあり、質素を心掛けていたのだ。
つまり、普段着は騎士服が主である為、質は良いがそれだけであり、華美な騎士服など一着として所持していないのが、現実であった。
「細かい事は気にするでない、オーギュストの息子は我の息子も同然よ、遠慮せず袖を通せ」
「っ、......か、かしこまりました...」
朗らかに笑って、まるで気にした様子も見せず、むしろどこか誇らしげに告げる王の姿に、彼は最早、そう答えるしか無かった。
しかしそこで、突如として王は、爆弾のような発言を放った。
「あぁ、着た後は一度我等夫婦に姿を見せるように」
「な...、くっ、お、仰せの通りに...!」
やっぱり逆らえない彼は、どこか釈然としない思いや、なんとも言えない悔しさといった、なんかそんな諸々を胸の内に抱えながら、了承したのだった。
それから暫くして、といっても彼が王を職務室へと送り、騎士団長として用意されている自分の部屋へ行こうとした時の事。
「おお!騎士団長殿ではございませんか!」
彼はそんな聞き覚えのある声に足を止められた。
振り返れば、柔和な笑顔を浮かべてこちらへと歩み寄って来る、実の父であるヴェルシュタイン公爵とは真反対の評価を持つ、聖人と名高い我が国の宰相の姿があった。
正直な所、彼にとって宰相という存在は、自分を騎士団長に推薦してくれた人物とはいえ、少し怖い苦手な人というイメージだった。
国の為に尽力している事も知っているし、誰にでも分け隔てなく、慈愛に溢れた人物だと理解しているのだが、時折、訳も分からず不可思議な恐怖を感じてしまうのだ。
それは本能的な恐怖だったのだが、そのほとんどが一瞬だけであったり、ほんの微かだけであったりしたせいで、彼は宰相の本来の姿を知らずにいた。
しかし、いくら怖く感じてもそれは失礼にあたるため、表には一切出さない。
彼が立場的には公爵家嫡男といっても、騎士となれば王城の中では相手は格上となるからだ。
ゆえに彼は努めて丁寧に、そして礼儀正しい態度で対応した。
「これは宰相殿、如何されました」
すると、宰相は少しだけ困ったような、人好きのしそうな微苦笑をその顔に乗せ、口を開く。
「いえ、実はウチの孫娘が騎士団長殿のファンでしてな、宜しければ挨拶だけでもしてやって下さいませんか」
「ファン?私の?」
彼は突然の事につい驚いて、怪訝に思ってしまったのが顔に出てしまったが、にこにこと朗らかな笑顔を浮かべたまま佇む宰相の少し後方、会話が聞こえない程度向こうの方に、可憐な少女の姿が見える事に、どうやら事実らしいと認識する。
「ええ、そうなんです、以前騎士団の行進を見た時に、一目でファンになったんだそうで...」
いやはや、困ったものです、そう言葉を続けながら、宰相は微苦笑した。
宰相の孫娘の存在は、彼も知る所ではあったのだが、実は苦手とする宰相の孫というだけで敬遠していたので、パーティなどでも遠目に姿を見掛けただけでUターンするなど、なるべく関わらないようにしていた。
孫娘と知り合うという事は、必然的に彼女の保護者である宰相との交流が増えるという事である。
彼はそれが少しだけ嫌だと感じた為にしていた行動だったのだが、にも関わらず、まさか今になって向こうから関わってくるなど、一体誰が想像出来ただろうか。
しかし、こうなっては今後の為の行動をしなくてはならない。
とにかく失礼にならないようにすぐに肯定するのが一番正解に近い行動なのだろうが、彼には現在、用がある。
つまり、なんとかして断らなければならない状況であった。
彼は若干の焦りを感じつつ、それでも失礼にならないように相手を立てながら、言葉を組み立てて行く。
「......まさか聖女と名高いジュリエッタ様が、...光栄としか言いようがありませんね。
しかし、私はまだ任務中でありますれば、申し訳もございませんがまた後程に致しませんか」
「いやいや、そんな事は些細な事。気にせずとも良いですよ」
だが、効果はイマイチのようだ。
宰相は謙遜と取ったのか、変わらずにこにこと朗らかな笑顔を浮かべたままである。
「ですが、お嬢様に会うにはこの姿では失礼にあたります」
その理由は、彼が王国騎士であるからだ。
一般的に王国騎士とは、国や王族を守る為に存在しており、ゆえに立場は複雑である。
生まれは高い地位の貴族家でも、王国騎士となれば男爵よりも下の地位になるのだ。
だが、だからこそ平民でも王国騎士という役職に着く事が許されており、王国内には専門の学校すら存在する。
そんな王国騎士団は半数が平民で構成されている関係上、何か間違いが起きないよう、警護や職務中以外に、帯剣したまま貴族の女性に会う事が禁じられていた。
だからこその言葉だったのだが、宰相の方はそんな事はどうでもいいとばかりに笑った。
「なんの問題もありませんとも。
孫娘は騎士団長殿のそのお姿を見てファンになったのですから」
そんな宰相の姿に彼は苛立った。
王国騎士としての誇りが、彼の中に根付いていたからだろう。
思わずつい、少しだけ冷たい声音になってしまいながら、彼は告げる。
「左様でございますか、ですが、貴族としても、このような粗野な格好のまま、うら若きご令嬢に会う訳に参りません。
御前、失礼させていただきます」
そうして、彼が一礼の後に下がろうとしたその時、宰相の目が薄く開いた。
不意を突いたような冷たい視線に、ぞわりと彼の肌が粟立つ。
「......待ちなさい」
その声音は優しく、諭すようなものだ。
「こちらは気にしないと言っているのです」
しかし、その薄く開いた目から感じる視線は、彼に何とも言い難い不快感を呼び起こし、次いで、その得体の知れなさに、そこはかとない恐怖を誘引した。
それでも彼は、必死にその恐怖を押し込め、反論する。
「失礼ですが宰相殿」
「なんですか?」
「私は陛下より、着替えて来い、との命を受けておりますので、どうか御容赦を」
本来なら、騎士が今後の予定を口にする事は余り無い。
それは城や王族の警護の関係上、誰が聞いているか分からない為に仕方のない事なのだが、今回はそうも言っていられなかった。
何せ、王直々の命令なのだ。
いくら不服でも、騎士として一番に遂行しなければならない事項である。
「......陛下が?」
「はい、いくら宰相殿のお言葉でも、陛下の命を無視する事は出来ません、大変申し訳もございませんが今回は失礼させて頂きたく...」
騎士である彼からそんな事を言われてしまえば、例え宰相でも無理強いする事など出来る訳もない。
そんな彼へ向け、宰相は柔和な笑顔を浮かべたまま、残念そうに眉を下げた。
「......そうですか、それでは仕方ありませんね、また次の機会とさせて頂きます」
「寛大なお言葉、恐悦至極にございます、......では、御前失礼致します」
「ええ、ではまた」
「はい、ありがとうございます」
綺麗な一礼を宰相へと向け、そうして、彼はようやく宰相から解放されたのだった。
彼が去った後、宰相は顎に手を当てながら、貼り付けたように柔和な笑顔を浮かべたまま、背後の孫娘へと声を掛けた。
「ふむ、どうやら振られてしまいましたね、ジュリエッタ」
「...親も親なら子も子だわ...、なんて腹立たしいの...!」
苛立たしげに呟く孫娘へと顔を向け、何処か楽しそうな様子で己の孫娘を宥める。
「まあまあ、陛下の命を受けているのでしたら仕方ないじゃありませんか」
「嫌だわお爺様ったら、あんな嘘臭い言葉を信じてらっしゃるの?」
「騎士に陛下からの命だなんて言われたら、誰だって引き下がらざるを得ないではありませんか」
やれやれと肩を竦め、困ったような微苦笑を表情に貼り付け、孫娘へと向き直ると、ギリギリ、という歯軋りを響かせながら、孫娘が苛立ちに表情を歪めた。
「...陛下を言い訳に使うなんて、なんて卑怯な男なのかしら、本当に腹立たしい...!」
「ジュリエッタ、感情が顔に出ていますよ」
「あら、わたくしったら......ごめんなさいお爺様」
一度の注意ですぐに我に返り、うふふ、と上品に微笑む孫娘の姿に、満足気に頷いた宰相は、そのまま孫娘へと問い掛けた。
「さて、次はどうしようか、ジュリエッタ」
「......まだ方法は沢山ありますわ、お爺様」
にぃやりと、歪な笑顔を見せる孫娘に、宰相は微笑ましげな表情を顔に貼り付けながら、どこか楽しみな、そして、仄暗い視線を向けていた。
その頃。
執務室へと戻り、机の上に置かれていた書類に一通り目を通した王は、ポツリと呟いた。
「我はこの12年間、一体何をしていたのだろう...」
それは、つい漏れてしまった呟きだった。
改めて書類を見ると、これから数年の間に色々とヤバい事になりそうなものが、かなりの数発見されたのだ。
しかも、きちんと見ていれば気付くような些細な案件ばかりだ。
ついこの間まで、同じような案件をそのまま許可したり決裁していたような気がする。
完全に目が曇っていたとしか言いようがない。
「あら陛下、そんなに落ち込んで、一体どうなさったの?」
突然聞こえた声に顔を上げると、そこには大量の書類を両手に抱えた、己の最愛の妻の姿があった。
「リリー...、何故君がここに?そして、その書類の山はなんだ?」
「あらあら、これは今期の書類で、見直しの必要な物ですわ」
おっとりと微笑む王妃に、王はといえば、そんな所にもあったのか、とも思ったが、それよりも気になる事があった。
「......だとしても、何故王妃である君がそんな事をしているんだ」
怪訝に王妃を見る王に、当の王妃はおっとりとした微笑みを浮かべたまま、王の机の上へ書類を勢いよく乗せた。
それなりの重量の為か、どすん、という鈍い音が室内へ響く。
「これが王妃としての職務では無い事は重々承知しておりますわ、ですが、いい加減腹に据えかねておりますのよ、わたくし」
にこにことした笑顔で告げた王妃に、ちょっと冷や汗が止まらなくなってしまった王は、恐る恐る問い掛ける。
「...つまり、どういう事だ?」
次の瞬間、王妃の表情が一変した。
「あのクソ爺の鼻っ柱をへし折って叩き潰し、粉々に粉砕するにはこの国の膿を出し切らねェとなぁ?」
そう言って、歯を剥き出しにしたような凶悪な笑みを浮かべながら、クツクツと喉の奥で笑う王妃は、なんと言うか、アレだ。
めっちゃ怖い。
「...リリーの男言葉、久方振りに聞いたなぁ...」
あはははは、と乾いた笑い声を発しながら王が呟いた言葉から、どうやら王妃は元々こういう女性だったのかもしれない。
「そういう訳で旦那様」
「はいっ」
先程までの凶悪な笑みから、いつものおっとりとした微笑みへと表情変えた王妃の呼び掛けに、王は冷や汗をびっしり掻きながら直立した。
「この不備だらけの書類を何とかしやがりなさい」
いつもと同じ笑顔の筈なのに、そう告げる王妃の笑顔は、とてつもなく怖い。
そして、書類と戦い始めて暫く経ってから、王はまたポツリと呟いた。
「...我は、この12年間一体何をしていたのだろうか」
結果的に自業自得とはいえ、凹むものは凹むのだった。
王妃の若い頃は、ヤンチャ通り越してヤンキー。





