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 旦那様が、お目覚めになられた。



 その知らせは屋敷中を駆け巡り、旦那様付きの執事である、わたくしの元にも届いた。


 アルフレード・シュトローム、36歳の初夏の事だった。


 当主である旦那様、オーギュスト・ヴェルシュタイン公爵はある日を境に床に伏されていた。


 原因は不明。

 ......いや、不明とされているが、実際はそうでは無かった。


 暗殺者。


 それが当家に紛れ込んでいたのだ。


 だがひと月経った今、旦那様は目覚められた。

 喜んだのは、きっとわたくしと、昔から共に在った執事や私兵、メイドだけだろう。


 それ程迄に、旦那様は変わられてしまっていたのだから。


 全ては、奥様である、ジュリア様を病によって亡くされてから。


 国同士が啀み合い、戦争している間に、ジュリア様は亡くなられてしまった。

 よりによって、その病の特効薬が採れる隣国との戦争の最中であった。


 何故、彼女が犠牲にならねばならない、と旦那様は泣き崩れ、そして、そのお心は欠けてしまわれた。


 そして、国の為と尽力していた旦那様は、正反対の事をなされるようになった。

 国が疲弊するように、少しでも、死者を増やすようにと増税し、無駄な浪費を繰り返された。


 そして、ご自分さえも、早く死ねるようにと、暴飲暴食を繰り返し、お姿さえも変わられてしまった。


 わたくしは、旦那様を止める事は疎か、お諌めする事さえ、出来なかった。


 何故なら旦那様は、誰の話も、聞いてすらいなかったのだから。


 実の息子であるミカエリスぼっちゃまの言葉でさえも、耳に入ってはいなかった。


 それはまるで、生きながらにして、死んでいるかのようで。


 毎日毎日、呪詛のように繰り返される言葉は、こんな国など滅べば良い、というようなものばかり。

 意志もあり、会話は成り立つ。

 だが、しかし、口を開けば暴言、残酷な命令、そして、すぐに理不尽な暴力を振るおうとしてしまう。


 唯一それが無い時など、姪であるクリスティア様が当家に来られた時のみ。


 そんな旦那様は、とうとう、してはならない事をしてしまった。


 公金横領、人身売買、薬物販売など、多岐に渡って王国を困らせていた伯爵と和議を結び、支援を始めてしまったのだ。


 そんな事をしていれば、国から目を付けられるのも、他人から怨みを買うのも、必然。


 ゆえに旦那様は、毒を盛られ、床に伏せてしまわれたのだ。


 床に伏されている間、わたくしは旦那様のお世話をしていた。


 どれだけ苦しい思いをされているのか、床に伏されたひと月の間に、暴飲暴食で形成されていたお身体は以前のようにまで戻られたが、お心まで戻られている保証など無い。


 その事に、わたくしは陰鬱な気分になった。

 ヴェルシュタイン公爵家の執事として、これでは相応しくない、と思いながら。


 重い足で旦那様の寝室へ向かえば、そこでは不可解な事態が起きていた。


 先々月程前に入ったメイドが、旦那様の寝室に入り込み、あまつさえ、無作法にも旦那様に意見していたのだ。


 「何故でございますか!?この方は今まで旦那様を診て下さっていたお抱えの医師にございます!」


 廊下にまで響き渡る大声で、旦那様に向けて喚くメイド。

 こんなメイドが当家に居たなど、認めたくないくらいには、無様。

 だが、それよりも、わたくしはその後に聞こえた声に、心臓を掴まれたかのような錯覚を受けた。


 「......そんな稚拙な演技に騙されると、本気で思っているのか?」


 呆れ果てて物も言えない、とばかりに告げられる、冷徹な声。

 ここ12年で聞き慣れた、あの喚くような暴言でも、冷静さを欠いた言葉でもない。


 「演技だなんて、そんな!」


 「先程までは様子見の為、放置していただけだ」


 絶対零度の、冷め切った声だった。


 “氷焔の白騎士(ひょうえんのしろきし)”と恐れられていたあの頃の、懐かしい旦那様の声音だ。


 「そんな...!誤解です!私は、何も...!」


 もはやメイドなどどうでも良いくらい、真剣に旦那様の声だけに集中する。


 「ふん、素直にその医師を捕らえれば良かったものを。貴様の演技はわざとらしいのだよ。そろそろ観念したまえ」


 嗚呼、旦那様だ。


 旦那様が、お還りになられた......!


 鬱陶しい、言外にそう言って溜息を吐く旦那様の声と、


 「......なら、潔く死んで!」


 そう言って動いたメイドだった女。


 だが、たかが暗殺者一人、国一番の騎士と謳われたあの頃のご自分を取り戻された今の旦那様に敵う訳が無い。


 様子を見れば、案の定、女は旦那様に無力化されていた。


 慌てて逃げようとしていた医師は手刀で気絶させ、近くのカーテンを纏めていた布で軽く縛っておく。


 「...やはりか。芸が無いな」

 「っうるさい!何故死んでないんだ!致死量だった筈だ!」


 呆れた声で呟かれた旦那様の声が、耳が痛くなるような女の喚き声で掻き消される。

 だが、旦那様は気にされた様子も無く、嘲笑った。


 「さあね、カミサマというモノは余程性格が悪いんだろう。貴様に運が無かっただけだよ」


 神という者が本当に居るのなら、わたくしはどれだけ感謝しても、足りない。

 よくぞ、当家にオーギュスト様を還して下さったと泣いて喜び、神の為に供物という供物を集められるだけ集めよう。


 「クソっ!何故!何故死なない!お前さえ!お前さえ死ねば!」


 女の声が耳障りだ。

 旦那様のお声が聴き取り辛い。


 「...しつこい女だ。運が無かっただけだと、何度言えば分かるのか。おい、誰か居るか」


 「お呼びですか、旦那様」


 旦那様の呼び掛けに、直ぐ様お側へと侍る。

 呼ばれても居ないのに部屋に入るなどという無様な事はしない。

 そんな事をすれば、ヴェルシュタイン公爵家の執事の名折れ。


 旦那様は、わたくしが傍に在る事をさも当たり前であるかのような態度で口を開く。


 「捕らえろ」


 その言葉に、一瞬耳を疑った。

 冷徹なあの旦那様が、わざわざ、こんな暗殺者一匹を?


 「......生かしておいて宜しいので?」


 わたくしの問いに、旦那様は冷静な言葉を返した。


 「...蝿が鬱陶しい、それだけだ。…皆まで言わせる気かね?」


 ───...お前なら何をすべきか分かるだろう?

 暗にそう仰られる旦那様。


 ...嗚呼、あの頃の、旦那様だ。


 歯向かう者には情け容赦無く、完膚無きまでに、叩きのめす。


 今回の事で、旦那様はようやく、12年間見失っておられた本来のご自分を、取り戻されたのだ。


 ならば執事として、やる事は決まっている。

 この女から情報を搾り取れるだけ搾り取り、雇い主を見付け、首謀者を旦那様に献上する。それだけだ。


 旦那様のご意向に納得し、頷きながら、また一礼した。


 「そういう事でしたら。後はお任せを」

 「では、頼むとしよう。...あぁ、それと」


 まずは、この女を確保すべきだと判断した所へ不意に旦那様に呼び止められる。


 「は。なんで御座いましょう」


 「どうも記憶の混乱と大幅な欠損があるようだ。早急に記憶の照らし合わせがしたい。後程で構わん、資料を見繕え」


 何という事だ!

 ご自分を取り戻される対価に、記憶を失ってしまわれたとでもいうのか...!


 旦那様から告げられた言葉につい驚きを表情へ乗せそうになったが、執事として、なんとか取り繕った。


 「...恐れながら旦那様、医師による診察は宜しいので?」


 「記憶の欠損が広がるようなら、な」

 「畏まりました、では、そのように」


 旦那様の言葉を受け、一礼。

 それから、未だ喚き続ける喧しい女の手を旦那様の手より受け取ると、そのまま手早くシーツで縛り上げ、引き摺りながら部屋から去った。

 部屋から出る前に、旦那様へ向けてきちんと一礼するのを忘れずに。



 それから、昔馴染みである旦那様の近衛隊の隊長、ガルフ・トラッセに、女と、ついでに拾っておいた昏倒している医師を預け、旦那様がご帰還された事も伝える。


 今まで余程悔しく、無念だったのだろう。

 ガルフは泣いて喜んだ。


 今晩は美味い酒が呑めそうだ、と、その顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、彼は笑った。


 その後すぐに取って返し、旦那様の書斎にて手早く資料を見繕い、寝室におられる旦那様の元まで戻る。

 ノックをしてから返事を待つが、一向に許しの言葉は無かった。


 ......どうやら旦那様は、昔の悪い癖まで取り戻してしまわれたらしい。

 あの方はいつも、考え事に集中してしまうと周りの音が聞こえなくなってしまわれていた。


 自然と笑顔を浮かべてしまって、慌てて顔を引き締め、執事らしい表情を取り繕う。


 そっと扉を開けて様子を見れば、案の定、旦那様はじっと宙を見つめ、何か思案しておられるようだった。


 しかし、自分は執事。

 旦那様からの命令は絶対。


 お邪魔をしてしまう事は大変申し訳無いのだが、お声を掛けさせて頂く事にする。


 「旦那様、資料をお持ち致しました、取り急ぎ、当家の名簿と、過去帳だけですが、宜しいでしょうか」


 そう告げながら、旦那様にそっと二冊の本を差し出せば、まるで、さも当たり前であるかのように、平然とそれをお受け取りになられた。


 「そうか、ではまた後程、その他の資料も見繕え」

 「は、畏まりました」


 わたくしの言葉も半分に、早速名簿へ目を通される旦那様に、内心で苦笑する。


 集中すれば、それ以外が疎かになられるのも、お変わりない。


 余りの歓喜に、諸手を上げて喜びを叫びたい衝動に駆られるが、なんとか踏み止まる。


 そして、そんな旦那様のお姿を見て涙が出そうになった。


 「......旦那様」

 「...どうした」


 「...いえ、そうして書物などを読んでおられると、まるでジュリア様がご存命だった頃のようだ、と、思いまして」


 あの頃も、こうして、たまのお一人の時間に書物を読んでおられた。

 その際に読まれる書物は、いつも、当家の今年の名簿であったり、作物の収穫量などを纏めたものであったり、おおよそ読書とは言えないものばかりだったけれど。


 「そうか」


 読書中に話しかけても、旦那様はお怒りになられない。

 それは、執事であるわたくしを、信頼している証。


 「そのように痩せられますと、お召し物も新調せねばなりませんな、後程、針子を連れて参ります」


 「......そんなに、変わったか」

 「半分、よりも少々、痩せられたかと」


 言ってしまって、焦る。

 嬉しさの余り、何を言っているのか理解しないまま喋るなど、何をしているのだ自分は。


 「...不躾な事を申しました、申し訳ありません」


 「ふん...気にするな」


 慌てて謝罪したが、旦那様は特に気にされた様子も無く軽くあしらうだけであった。


 「ところで、どれだけ経った?」


 ...問いに主語が足りない所も、お変わりない。


 「ジュリア様が亡くなられてからでしたら、12年、かと」


 「そうか」


 この12年、長かった。

 本当に、長く感じた。


 「ご子息のミカエリス坊ちゃまも成人され、随分と大きくなられました」


 「息子...か」


 「旦那様のご自慢のご子息と言っても過言ではありますまい。ご立派に、成長されておられます」


 「......そうか」


 記憶が欠如しているとの事だが、息子であるミカエリスぼっちゃまの事は覚えておられるようだ。

 どこか、感慨深そうなご様子で宙を見つめていらっしゃる。


 「旦那様、...もう復讐は止めに致しませんか?」


 気付けば、そう口にしてしまっていた。


 「...突然、なんだ」


 旦那様のお言葉はごもっともなのだが、如何せん、今まで溜め込んでしまっていた弊害か、己の口を止める事が出来なかった。


 「まだ、この国を恨んでいらっしゃいますか?」


 怪訝そうに此方を見る旦那様に対し、この口は図々しくも、更に言葉を口にしてしまう。


 「あの当時は戦時中、しかもジュリア様の病を治す薬は敵対国でしか採れない。

 ...旦那様も無理だと、分かっていらっしゃった筈です」


 嗚呼、旦那様、申し訳ありません。


 一度胸の内を吐き出してしまえば、最早止める事など出来そうに無かった。


 「もう、12年になります。ジュリア様とて、旦那様のあのようなお姿、望んでいる筈が御座いません」


 そう告げた時、此方の話を静かに、一通り聞いて下さっていた旦那様は、不意にその口を開かれた。


 「一つ、聞こう」

 「......なんで御座いましょう」


 冷静で無表情に、わたくしを見つめる旦那様に、胃の辺りが冷たくなっていくような錯覚を覚えた。


 「何故、今、その話を?」


 「今の旦那様ならば、きちんとわたくしの話を聞いて頂けると、愚考致しました」


 頭を下げ、死刑宣告を待つ囚人のような気分で、旦那様のお言葉を待つ。


 しかし、意に反して旦那様のご様子は、どこか、不思議そうなものであった。


 「それほど、違うか」


 「失礼ながら、床に伏される前よりも、心穏やかであるように見受けられます」


 「そうか...」


 手元の名簿を流し読みながら、旦那様はどこか納得したように、呟いた。


 「アルフレード・シュトローム」


 「...は」


 突然、家名と共に名を呼ばれ、身体が強張る。


 ご記憶が欠如されているとの事だが、このアルフレードの事も覚えていて下さったのかと、歓喜に、そして無礼な事を言ってしまった恐怖に、身が震えた。


 「一体どのように見えていた?」


 冷静な声音の、簡単な問い。

 答えようとして、口元が震えそうになるのを気力だけで捩じ伏せる。


 「...恐れながら、まるで、死に急いでおられるように、感じておりました」


 言ってしまった。

 嗚呼、何という事だ。


 こんな事、流石の旦那様も憤慨されてしまうに違いない。


 戦々恐々とするわたくしを尻目に、旦那様は、まるでご自分を嘲笑うように、その端正なお顔を歪めた


 「......皮肉なものだな」

 「旦那様...?」


 お声を掛けさせて頂くも、旦那様は、


 「人は一度死を経験すると、生きたい、と思えるらしい」


 そう言って、泣き笑いにも似たご表情をそのお顔に浮かべられた。


 「旦那様...」


 絶望に全てを投げ出し、生きる事さえ諦め、自暴自棄だった旦那様が、生きたい、と仰っている。


 その事実に、胸が締め付けられるように感じた。


 「......アルフレード、当主とは、なんだ?」


 「...恐れながら、家の象徴、見本、そして、主、かと」


 「私は、それに相応しい人間か?」


 そう問い掛ける旦那様は、ご自分の不甲斐なさを嗤っているようにも、今にも泣いてしまいそうな表情にも、見えて。


 まさか、家督を譲り、隠居されるとでも仰るおつもりなのか。


 それは、いけない。

 駄目だ。

 それだけは、駄目だ!


 「旦那様...!何を仰います、今までがどうあれ、今の貴方様以外に相応しい人間などおりません!」


 断言してみせれば、旦那様は少し驚いたような表情を浮かべ、それから、執事であるわたくしにしか分からない程、ほんの少し、困ったような表情を浮かべながら口を開いた。


 「......買い被り過ぎだろう」


 「いいえ!貴方様は昔からそうです、すぐにご自分を卑下なさる!」


 大きな失敗をした後は、旦那様はいつもご自分を見失いがちになってしまわれる。

 旦那様が出来なかった事など、他のどの輩にも出来ないという事実に気付いておられない。

 その点に関して、過去どれだけご説明差し上げても理解しては下さらなかった。


 「...そんなつもりは無いが」


 どこか不思議そうな表情で呟かれる旦那様。

 しかし、これだけは言わせて頂きたい。


 「何年共に居たと思っていらっしゃるんです、貴方様の大体の事は分かりますよ」


 周りの人間の機微に疎い所も、本当に、お変わりない。

 わたくしがどれだけ、旦那様を見守っていたかも、きっと気付いておられなかったでしょう。


 「ジュリア様をどれだけ深く愛しておられたのかも、理解しております。

そして、ジュリア様亡き後、そのお心が欠けてしまっていた事も」


 そう告げると、旦那様は、じっと黙ってわたくしの言葉を聞いて下さっていた。


 「...ゆえに、わたくしが貴方様をお止めする事は出来ませんでした」


 止めて差し上げたかった。

 でも、出来なかった。


 「本来であれば、わたくしが命を賭けてでも、お止めするべきでした。

 ですが、それで貴方様が正気に戻られる保証など、どこにもありませんでした」


 自分一人の命と引き換えに、旦那様が戻って来て下さるなら、喜んでこの身を全て捧げただろう。

 だが、ご子息であるミカエリスぼっちゃまの言葉さえ聞こえなくなっていた旦那様に、ただの執事であるわたくしが命など賭けても、きっと何一つとして、旦那様には届かなかっただろう。


 「......それほど、おかしくなっていたか」

 「恐れながら、初めの頃は軍馬に向かって走って行こうとされた事もありましたな」


 旦那様なら一個師団を壊滅させる事など容易い事ですが、当時それをしてしまえば、大問題どころか、敗戦していたに違いない。


 そうなれば、公爵である当家は取り潰され、当主である旦那様は良くて追放、悪くて死刑。

 それだけは避けなければならなかった。


 「12年、正気を失っていたのだな」


 ポツリと呟かれる旦那様の言葉。


 ふと見れば、旦那様は悲しそうに、薄く微笑んでいらっしゃった。


 心臓が締め付けられるかのように、苦しい。

 …どうして自分は執事なのだろう。

 こんな時、慰めて差し上げる事すらも、失礼にあたるなど。


 「アルフレード」

 「なんで御座いましょう」


 ふと、旦那様が口を開かれる。

 素早く執事として正しい態度と表情を取り繕い、一礼した。


 「一体どの位眠っていた?」


 「ひと月程に御座います...」


 「そうか」


 それだけを、ポツリと呟かれる。


 表情は、感情の篭もらない、無表情。

 旦那様がこういう表情をしていらっしゃる時は、何か、重要な事を思案していらっしゃる時だ。


 ふと、旦那様が此方を見た。


 「...どうやら私は一度、死んだらしいな」


 あぁ、なるほど、そういう事ですか。


 「そのようですな。“再誕”、おめでとう御座います」


 「ふむ、そうか」


 恭しく言祝ぐと、旦那様はどこか納得したような表情で頷かれる。


 なんとめでたい事だろう。


 「これで旦那様も、“賢人”に御座いますな」


 「......私が“賢人”か」


 此方の言葉に、どこか皮肉げな笑みを浮かべながら呟く旦那様。


 「これでこのヴェルシュタイン領も向う五百年は安泰となりましょう。

 何せ当代一と謳われたオーギュスト様の治世がご復活なされるのですから」


 「私はそれほど長生き出来ん気がするが」


 「何を仰います、かのシルヴェスト卿は賢人となってから齢四百は下りません。貴方様にはそれよりも百年は長く生きて貰わなくては」


 そして、ルナミリア王国にその人在りと謳われた、オーギュスト・ヴェルシュタイン公爵の名を世界中に轟かせて頂くのだ。


 いやはや、なんと素晴らしい。


 これで、この12年の間、当家を軽んじ、蔑んで来た新参貴族共に一泡吹かせる事が出来る。


 「私は、人間だと思っていたのだがな」


 フッ、と小さく嗤う旦那様の美しいご尊顔を拝見出来た事に内心で歓喜し、頷きながら口を開く。


 「賢人となられましたら、神に一歩足を踏み入れたようなものですから、戸惑うのも仕方ありますまい。」


 寧ろ当時の旦那様は絵画から抜け出たような麗しさで、何故この方が天使でないのか疑問に思ったくらいだったのだから、賢人入りを果たされた事は本当に喜ばしい限りだ。

 寧ろ、当時より少しお歳を召された今ならば賢人という言葉は旦那様にこそ相応しい。


 もしや、賢人という存在は旦那様の為に今まで在ったのではないだろうか。

 きっとそうに違いない。


 国王に次ぐ権力を持つ公爵であり、賢人。

 それが旦那様だなんて、...嗚呼!なんと素晴らしい事だろう…!


 「...ミカエリスに家督を譲る事が出来なくなったな」


 少し、残念そうに呟かれる旦那様。


 いつかはぼっちゃまに家督を譲られるおつもりであられたのだから、仕方ないのかもしれない。

 だが、わたくしとしては旦那様とジュリア様のお子で、しかも長男でありながら、統治に興味を殆ど示さないミカエリスぼっちゃまよりも、旦那様に統治して頂きたいと思うのが本音。


 しかし、それは口に出さず、ミカエリスぼっちゃまの現状をお伝えするに留める。


 「ぼっちゃまは当家よりも騎士団の方を優先したいと仰っておられましたから、丁度宜しいかと」


 「そうか、......しかし、一つ問題があるな」


 納得したものの、少し困ったような表情で手元の名簿を見つめる旦那様に、疑問が湧いた。


 「なんで御座いましょう?」


 最早完璧である旦那様に、一体なんの問題があるというのか。


 「言っただろう、記憶が大幅に欠如していると」


 なるほど、そういう事ですか。

 だが、今の旦那様ならば、そんなものなんの障害にもならないでしょう。


 「ご心配には及びません、それに関しては、わたくしが貴方様のサポートを」


 なにより、旦那様付きの執事である、このアルフレード・シュトロームがお傍に居れば、なんとでもなる。

 いや、してみせる。


 恭しく一礼してみせれば、旦那様は納得したように頷かれた。


 「ふむ、そうか」


 そして、また名簿へ視線を落とされる旦那様に、ふと、疑問が湧いた


 旦那様の、この変化。

 もしや、あれは真実だったのだろうか。


 「......旦那様...」

 「......なんだ」


 「人は賢人になる際、過去死んだ者と出会うと聞きます」


 「......そうだな」


 旦那様の視線の先、当家の名簿に記された名。

 それは。


 「......ジュリア様にお逢いになられたんですね。」


 きっと今、旦那様の脳裏にはお美しかったあの頃のままの、ジュリア様のお姿が過ぎっていらっしゃるのだろう。


 断言するように尋ねれば、旦那様は小さく苦笑された。


 「......敵わんな、分かるか」


 「分かりますとも。奥様の事です、きっと、逢った途端お怒りになられていたんでしょう?」


 「...そんな事全く望んでない、と怒られたよ」


 そう言って、名簿のジュリア様の名をそっと撫でる旦那様。


 懐かしげに、そして、愛おしそうに。


 それから、旦那様は悲しそうに告げた。


 「......生きろ、と」


 残酷で、そして、愛情深い言葉だ。


 「......ジュリア様らしいですな」


 奥様ならきっと、そう仰られるだろうと思っていた。


 “なんてこと!公爵家当主でありながら馬鹿な真似しないで下さいまし!そんなのワタクシの好きなオーギュスト様じゃありませんわ!”


 そう言って、大きくて垂れ目がちな可愛らしい目を必死に吊り上げて、プンプンと憤慨する様子が容易に想像出来る。


 公爵家夫人として、伯爵家の人間では荷が勝ち過ぎていたでしょうに、懸命に様々な事を吸収し、相応しくなられていった奥様の姿を思い出し、胸が締め付けられた。


 「アルフレード」

 「は」


 名を呼ばれ、意識を過去から現実へと戻すと、旦那様の真剣な眼差しと目が合う。


 「私は、生きて良いか」


 それは、執事としてではなく、昔からの友としての、問いに聞こえた。


 「例え何になろうとも、わたくしは貴方様には生きて欲しいと愚考致します」


 「...それは、私がお前の知るオーギュストでなくなってしまっていても、か?」


 全く、旦那様は今更、何を仰るのか。


 「わたくしの主は、貴方様で御座います。

 例え幼い頃の思い出や、わたくしと共に育った過去の記憶が欠如していようとも、それは変わらぬ事実。

 わたくしは貴方様の執事で在り続けましょう」


 幼い頃よりお傍に仕え、どんな時も見守ってきた主を、たかがご記憶が欠如されたくらいで今更変える事など、出来はしない。

 なにより、このアルフレードにそんな選択肢は存在しない。


 わたくしの主はただお一人。

 オーギュスト・ヴェルシュタイン様以外、有り得てはならないのだ。


 そして自分は、ヴェルシュタイン公爵家の執事として相応しい態度で、静かに目を閉じ、恭しく一礼した。


 再度改めて、旦那様に忠誠を誓いながら。


 

…この執事、地味に気持ち悪い……。

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