邪な守護者と無垢な幼子
もう眠って何年経つのか。時間の感覚も狂い、もはや生きているのか死んでいるのかさえわからぬ。
どこのどいつかは知らぬが、よくもわしを封印しよって。
ただわしは、人間の邪な感情が好物なだけだ。それを人ごと食ろうて何が悪い。
わしを悪霊などと言いおって。忌々しい……封印が解かれたあかつきには、人間共を食ろうてやる。
それにしても暇だ。
この社、わしの力を持ってしても開かぬ。現世がどのようになっておるか知らぬが……誰でも良い。
解いてわしの餌となってくれまいか。
――――……。
――……ん。
何やら外が騒がしい。
なんだ。誰か近くにおるのか。
……光が見える。
まさか……誰かおるのか。誰か封印を解こうとしておるのか。
そうか、恐れを知らぬ大馬鹿者はいつの世もおるのだな。
解いた瞬間に、貴様の忌々しい感情ごと食ろうてやろう。
待った、この時を待っておった!
わしはもう自由だ!!
「うわー!! おめめが三つもある!!」
……何だ、この小さき人間は。
「クモさん……? でも、クモさんに角は生えてないもん」
えらくヒラヒラとした着物だ。髪も結うておらず伸びておる。
……わしはかなり眠っておったのか?
「ねぇねぇ!! 名前、何て言うの!?」
それにしてもなんだこの人間は。先ほどからわしを見て笑っておる。
……まぁ良い。貴様の感情ごと食らってやろう。
「私はね、紗希って言うの!」
……おかしい。この餓鬼の中には邪な感情が一点も見えぬ。
そんなはずはない。わしの力が鈍ってしもうたのか。
「名前、何て言うの!?」
うるさい。……もう良い。
わしは腹が減った。少し周りの様子を伺ってみよう。
周りを見渡せば田畑が一つもない。ない代わりに、奇妙な似通った家々が所狭しと立ち並んでおる。
……見たことがない風景だ。わしは、かなり眠っておったらしい。
その中でわしがおる社だけが木々に囲まれ、場違いのような存在になっておる。
しかし、これだけ家があるということは……人間がおるということだ。すぐにでもありつけるかもしれぬ。
「クモさーん! ねぇ、名前何て言うの!?」
……あの餓鬼、わしの姿が見えるのか。まぁ当然か、封印を解いたのだからな。
一番良いのはあやつを食うことなのだが……おのれ、やはり感情に一点の曇りも見えぬ。
「ねぇってばー!」
……やかましい。騒がれては気が散る。
仕方ない、どうにかして黙らすか。
「あっ! やっと降りて来てくれたぁ! わぁ~すっごく大きいんだねぇ!」
『……餓鬼。貴様、わしが恐ろしいと思わぬのか?』
「がき? ……違うよ、私、紗希っていう名前だよ?」
『何でも良いわ。餓鬼、はようわしの質問に――』
「紗希!! 呼んでくれなきゃヤダ!!」
な……何だこの餓鬼は。わしに歯向かう気か?
邪な感情一つでもあれば、すぐにでも食ろうてやるのに……何もできぬ。
餓鬼に泣かれるのは面倒だ。……仕方あるまい。
『紗希、だな。良かろう、その名で呼んでやる』
「本当!? じゃあ、クモさんの名前はなぁに?」
『……何でも良い。紗希の呼びたい名で呼べ』
「じゃあ……くーさんで!」
ニコニコと笑いおって……こやつ、何も考えておらんのだな。まぁ良い。
暇つぶしぐらいにはなるだろう。
『ここで何をしておったのだ? なぜ封印を解いた?』
「ここは公園だよ? 遊んでたんだよ」
『……公園?』
確かに……社よりも前には広い空間がある。見たことのない奇妙な形をした物体が立っておる。
が……遊ぶ、というわりに人間がおらぬ。
『……一人で遊んでおったのか?』
「うん。お父さんとお母さんはお仕事で忙しいの。けどね、おじいちゃんとおばあちゃんがいるから寂しくないよ。……ほら、おばあちゃんが帰って来た!」
指を差すと、紗希はその方へと駆けていく。――見ると、白髪頭の老いぼれが一人おる。
年寄りのくせに、小奇麗な格好をしておる。……今の時代はそういう時代なのかもしれぬ。
「紗希ちゃんごめんねぇ。買い物なのに、お財布を忘れるなんてダメねぇ。……一人で大丈夫だった?」
「うん! 紗希は大丈夫だよ! それよりね、新しいお友達を見つけたの!」
「お友達……? 今、いらっしゃるの?」
「うん! ほら、そこに!」
老いぼれが……こちらを見ておる。が、わしを捕らえてはおらんな。
やはり……見えるのは紗希だけか。
「紗希ちゃん……おばあちゃんには見えないんだけど。もしかして……社の方で何かあったの?」
「社ぉ? ……うん。綺麗にしたの。汚いね、紙が貼ってあったから、紗希、それを取ったの」
「……汚い、紙。あぁ……もしかして……封印を解いてしまったの?」
……この老いぼれ、わしについて何か知っておるのか? 少し、心の変動を感じるぞ。
これは……恐れ、だ。
「紗希ちゃん、いい? あの社にはね、昔みんなを怖がらせた悪霊を閉じ込めていたの。だから、決してあれを破いてはいけないって、おばあちゃん子どもの頃よく聞かされていたのよ。……本当に、何もない? 怪我とかしてない? 怖いこと、されてない?」
「……あくりょう? ……紗希、怖くないよ。くーさん、紗希って言ってくれたもん」
「くーさん……? 紗希ちゃん、くーさんって――」
「くーさんはねぇ、クモさんなんだよ!」
「クモ……! 紗希ちゃん、買い物はなしよ。さぁ……帰りましょう!」
「え、でも……」
「いいから!」
老いぼれに引っ張られ、紗希が離れていく。
……きっとあの老いぼれは知っておったのだろう。
わしが、人間を食らう悪霊だということを。
それを知って、紗希はどう思うだろう。
わしを怖がるか? わしを憎むか?
あぁ……憎め。
わしに恐怖し、わしを恐れ、わしを恨むがいい。そして憎め。殺したいと思うほどに。
その瞬間、食ろうてやる。
わしは紗希……貴様を食ろうてみたい。
◇ ◇
紗希は来ぬ――そう思っていたが、あやつ、平気な顔をしてやってきよった。
何やら荷物を持ち、笑いながらわしがおる社へと走って来る。
「クモさーん! 紗希と遊ぼー!!」
『……紗希、あの老いぼれから話は聞かなかったのか。わしは、封印された悪霊。怖かろう?』
「え? くーさんは紗希の友達だよ? それよりもねぇ……今日はお菓子とか、ぬりえとか持ってきたの!!」
……友達? 名を呼んだだけで友達になるのか、このわしが?
この餓鬼は……警戒心がなさすぎる。これほどまで無垢な心に、一点の曇りができた時……貴様は一体どんな味になるのか。
わしは……それが楽しみで仕方ない。
「……ねぇ、くーさんチョコレートとかグミとか、好き?」
『ちょこれーと? ぐみ?』
そう言うと、紗希は包みを逆さまにして細々したものを地面に散らした。
……見たことのない袋ばかりだ。
「食べたことない? チョコはねぇ、すっごく甘いよ。ちょっととけちゃってるけど。グミもねぇ、甘いよ! これはとけない!」
紗希は包みの一つを開けると、嬉しそうに口へと放り込んだ。
小さな口を動かして、ニッコリとわしを見つめる。……よほどうまいらしい。
が、わしはこんなもの食らいとうない。わしは、人間の肉が良い。
『……紗希、わしはな、それらはいらぬ。わしがほしいのは、人間の肉だ。たっぷり邪な感情を抱いた、人間の肉だ』
「人間の肉ぅ? 人間は食べられないよ。紗希、お肉ならお牛さんのお肉がいいな」
ニコニコと笑いよる。……意味がわからぬか。幼すぎて、わしがどういう存在かも理解してないのだろうな。
……楽しみだ。貴様はいづれ、わしがどういう存在なのか理解するだろう。
『……紗希、わしはな、貴様の肉が一番食いたい』
「紗希の……お肉?」
『あぁ。紗希、今、嫌いな奴はおるか?』
「……嫌いな人は、いないよ」
間が、少しあった。と同時に、紗希の白い心に……少し影が見えたような気がした。
こやつ、嘘を吐いたのか? いや、違うな。これは……。
嫌い、ではないが……何か感じておる。寂しい……のか?
『……まぁ良い。わしはな、人間の薄汚い感情が好物だ。その感情ごと、人間を食らうのがもっともうまい。だから紗希が――』
言葉を続けようとした時、紗希がいきなりわしに抱きついてきた。
何を考えておる。この醜い身体が怖くないのか。
紗希は、小さい腕でわしの毛深い胴体に力を込める。顔も埋めておる。
『……紗希、貴様何を――』
「くーさんと一緒にいたい。くーさん、紗希の友達だもん」
『は? 何を言って――』
「くーさんがいてくれたら寂しくないもん」
紗希の心の影が、薄らいでいく。
こやつ、何を考えておるのだ? 人間ではないわしを友と呼んだり、抱きつくなど考えられぬ行為だ。
『……紗希、お前わし以外に友はおらぬのか? 父や母はどうしている?』
「……みんな紗希と遊んでくれない。……でもいいの。今、くーさんがいてくれるから!」
ようやく身体を離して、紗希はわしを見つめニッコリと微笑んだ。
……今まで見たことがない。無邪気なのか、それとも、ただの大馬鹿者なのか。
何にせよ、紗希の心が邪な感情に満ちるには、相当な時間を要するのは間違いなさそうだ。
あれからも紗希はほぼ毎日、何かしら持ち寄ってわしの所へ来ていた。
相変わらずの笑顔で、白い心だった。
だが、わしは何も食うておらんかった。紗希に何とか邪な感情を教え込もうにも、あやつ、ほとんど話を聞かん。
このままでは、何もありつけぬ。
わしは、少し社周辺を見回ることにした。
空高くから社周辺を見下ろして、気付いたことがある。
似通った家々の中に、一際目立つ家がある。古い家屋のようで、一段と広い土地だった。
一体どんな奴が住んでおるのか……じっと見下ろしておると、トボトボと歩く小さな人間が見える。
……紗希だった。どうやら、あの家屋に住んでおるのは紗希のようだった。
唯一心に曇りが見えたとき、紗希は寂しさを異常に嫌っておるようにも見えた。
何か糸口を掴めるかもしれぬ。
わしは息を潜め、家屋の様子を伺うこととした。
「……ヤダ! お父さんと離れるなんてヤダ!!」
紗希の声だ。
いつにも増して声が大きい。何かあったのか?
「紗希! お願いだから言うことを聞いて。お父さんとお母さんは、もう、一緒に暮らせないの。ずっと会えないわけじゃないのよ? だから、わかって」
「ヤダ! どうして一緒に住めないの? 紗希が良い子じゃないから? お留守番をちゃんとしてないから?」
「紗希は何も悪くないの。……お父さんも、お母さんも、お仕事が忙しくて……。紗希、お願い。……そうだ、今度遊園地に連れて行ってあげるから」
「遊園地……?」
「えぇ。……その時に、紗希と一緒に遊びたいって人がいるの。今度紹介するから、一緒に遊園地に行きましょう。そうね……今度の日曜日。いい?」
「……お父さんは、来ないの?」
あぁ……声を聞くだけでわかる。
今、紗希の心は不安の色で染まっておる。ひどく曖昧に、白い心が霞むように渦巻く。ほんの少し、何か与えれば何にでも染まりそうだ。
……だが、やはり憎悪の色にはまだ足りぬ。
「……その人は良い人よ。きっと、紗希も大好きになるわ。さぁ……今日はもう寝なさい」
不安が拭えぬようだ。紗希の心は渦巻いておる。
……何かきっかけがあれば、うまく染められるような気もする。今度はこの話を振ってみるか。
紗希の部屋は、二階か。不用心に戸を開けておる。が、わしにとっては好都合だ。
話しかけてみようか――ん。
なんだ、あの連中は。
黒い……布をかぶっておるのか。あやつら……何をするつもりだ? 塀をよじ登って……家に入るなら玄関から入れば良かろう。
ん、綱か? どこへ向かおうと……。あの部屋……紗希が目的か? 何か企てるのか。
……良い予感がする。
「……いる。寝入っている、チャンスだ」
この男……見えるぞ、邪な感情で心が満たされておる!
わしが……待ち焦がれておった! 絶好の人間だ!
その身体、食ろうてやる!!
◇ ◇
「……ん」
久しぶりの餌だ。……この人間は、紗希を殺そうとしたのか? さらおうとしたのか?
何にせよ……良い味だ。ただ……もう少し肉は柔らかい方が良いな。
「ひっ!」
紗希、起きたのか。
……あぁそうか。忘れておった。紗希の部屋だったな。
すっかり血で染まってしもうたな。……だが、良い機会かもしれぬ。
今、わしを見る紗希の目は……恐れを成している。
『紗希……今わしが食った人間は、お前を殺そうとしておったぞ』
「く、くーさん……? 何……してるの?」
『わからぬか……。今、人間を食ったのだ』
「えっ……食べたの?」
『あぁそうだ。紗希、お前はな……理由は知らぬが、殺したい、と思われておったようだぞ』
「……えっ」
ん、何だ……足音が近づいてくるな。
母親か。……おのれ、仕方あるまい。
『紗希、もしかしたらお前は人間たちに恨まれておる存在なのかもしれぬなぁ。お前の近くにおれば、わしは腹が満たされるかもしれぬ。……また社に来るがいい』
◇ ◇
よく考えれば、あんな血の海の状態でわしの姿を見たのなら、もう二度と社には近づかぬかもしれん。
今までがそうだった。姿形がないものは、悪霊として忌み嫌う。紗希も例外ではなかろう。
おまけに姿が見えるのだ、余計わしには近づかぬだろう。
――……と考えておったが。
「くーさん! 今日はね、クッキー持ってきたよ! あと……これ、お肉! 鳥さんだよ!」
数日後には普通にやってきよった。おまけに笑ろうておる。
……こやつ、本当に大馬鹿者なのかもしれぬ。
『……紗希、お前わしがどういう存在かわかって――』
「ほらっ! お肉! お母さんに内緒で、おばあちゃんに頼んで買ってもらったの!」
そう言うと透明な布を破いて、肉を地面へと落とした。
……確かに肉だが……まさか、これをわしに食わせるつもりか?
「……あれ? くーさんってお肉好きじゃないの?」
『……わしが好きなのは、邪な感情を抱く人間だ。鳥、しかも肉の塊などいらぬ』
「……ご、ごめんなさい」
じんわりと目に涙が溜まっていく。
泣くのか? なぜ?
『なぜ泣く? 紗希が食えばよかろう』
「……紗希……泣かないもん」
そう言うと紗希は目元を腕でごしごしと拭う。
そして腕を下げると、いつもの笑顔がそこにあった。
「紗希ね、くーさんのこと大好きだよ! だって、紗希のこと、助けてくれたんだもん! だから紗希、くーさんにお返ししたい!」
『助けた……だと?』
何を言っておるのだ。わしはただ腹が減っておって、良い獲物がおったから食うたまでだ。
紗希を助けようとは思っておらぬ。
……だが、お返しがしたい、か。これは使えるかもしれぬ。
『……そうか。では紗希、一つやってみろ』
「何!? 紗希ができることなら、何でもする!」
『では……誰かを恨め。殺したい、と思うほどにな』
あぁ……この真っ白な心が染まる時……お前は一体どんな顔をしているのだろうな。
この無垢な身体と心が邪な感情に侵され、堕ちていく様はどんなものなのだろうな。
あぁ。わしはお前を……食いたい。
「……うらむぅ? 紗希、よくわかんない」
『……嫌いな奴はおらん、前そう言っておったな』
「うん。いないよ」
『では、紗希を寂しがらせている者はおるだろう?』
紗希が目線を逸らした。間違いない。おるのだ。
この間の話を聞くならば……おそらくそれは――。
『紗希の、父と母、だな?』
紗希は涙を堪えるような顔つきで、じっと地面を睨んだままなかなか口を開かぬ。
当たっているのだろうな。それを認めたくないのだろう。
『……お前を寂しがらせる、母は嫌いではないか? お前の元から離れようとする、父は憎くないか? 紗希、もっと感情に素直になれ』
思わず、口が歪みそうになる。
紗希の白い心が、渦巻いている。もう少し、もう少し誘導してやれば……邪な感情が生まれる。あと少し何か言葉を……。
……が、歪んでいた心が再び真っ白な状態になった。と同時に、紗希は勢いよく顔を上げわしを睨む。
目が潤んでおった。
「寂しいけど……嫌いじゃないもん! もっと、もっと紗希が良い子だったら……いいだけなんだもん。紗希が……もっと、良い子だったらいい、だけなんだもん」
『……では、なぜあの夜、紗希は命を狙われたのだ? お前が良い子ではなかったからではないのか? それに、父と母はお前を助けようとしたか?』
「……わかんない。紗希を見て、おばあちゃんは泣いてた。お母さんは……怒ってた」
紗希は再び目を伏せた。今日は表情の変化が激しいな。
それだけ心も乱れておるのだろう。
「くーさん。紗希の家ね、しゃちょうさんの家、なんだって。お母さんもしゃちょうさんで、お父さんもしゃちょうさんなの」
『しゃちょう? なんだそれは』
「んとね……とってもえらいんだって」
『ほう』
「だから……お父さんもお母さんもお仕事忙しいの。紗希、それは知ってるの。でも……寂しかった。友達も……紗希をちゃんと見てくれない」
紗希は裕福なのだな。暮らしは豊かだが……人間の交友関係がうまくいってないようだ。
おそらく妬みだろう。……これはこれで、うまそうな話ではある。
『……では、紗希はその友らが嫌いではないのか?』
「嫌いじゃないよ。紗希、みんなと友達になりたい。……うまくいかないのは、きっと、紗希が悪いからなの」
紗希は困ったような、弱々しい笑みを見せた。
年相応ではない、奇妙な笑顔に見えた。紗希は……全てを我慢しているように見える。
全て、自分が悪いからなのだと。
「でもね! くーさんが友達になってくれたから! 紗希は寂しくないんだよ? 紗希って呼んでくれたの、くーさんが初めてなの!」
『何?』
「えへへ~! くーさん大好き!」
抱きつく身体は温かかった。
ただの無邪気な子ども、もしくはただの大馬鹿者、と思っていたが……紗希はどうも違うかもしれぬ。
この白い心は、強い心を持つ紗希そのものなのかもしれぬ。疑うこともせず、ただ信じて、己を叱責する。
餓鬼のするようなことではない。
もっと感情に素直になれば良い。誰か、紗希を楽にしてやれぬのか。
「……どうしたのくーさん」
『紗希。わしは決めた。お前を食らおうかと思っておったがやめる』
「え、やめちゃうの?」
『あぁ……わしは、お前が気に入った。お前のその肉を食うてみたいが……今は良い。それよりも、わしはお前を守ってやろう。その方が肉にありつけるかもしれぬ』
「……くーさん、紗希を守ってくれるの?」
『あぁ。紗希とわしは友なのだろう? 支え合うのが友ではないのか?』
何を言っておるのか――と我ながら呆れる。
が、たまには自分らしからぬことも、してみとうなった。
何よりも、この紗希という娘は、今まで食うてきた人間どもと何か違う。
わしを怖がらず、友と言い、好きだの言う奴は他にはおらぬ。
「……うん! くーさんと紗希は友達! ずっと、一緒だよ!」
この笑顔がいつまでわしに向けられるのか。まぁいつかはなくなるだろう。
その時が、紗希を食らう時期なのかもしれぬ。
だがその時までは――この生ぬるい関係も、悪くない。
◇ ◇
それから、わしはなるべく紗希の近くにおることとした。紗希に取り憑いておるから、何の問題もない。
わしが近くにおるせいか、紗希は度々わしの方を向いて微笑んだ。
が、わしが見えるのは紗希だけ。そのせいか、同じく家におる老いぼれや母などは訝しい目で紗希を見つめた。
「……紗希ちゃん。どうしたの?」
「おばあちゃん、あのね、そこにくーさんがいるんだよ!」
わしを見上げ指差す紗希。だが、老いぼれには何もない天井にしか見えないだろう。
「……くーさん? あぁ……紗希ちゃん……まだあの社の化物と、遊んでいたの?」
「ばけものじゃないよ。くーさんは、紗希の友達なんだよ?」
紗希の心は白い。疑いもなく、わしのことを本当に友と思っているのだろう。
一方で老いぼれの心は震えておる。……まぁ本来はその反応で間違いはない。わしが恐ろしいのだろう。
「……かわいそうに。……でも、身体は無事のようだし……紗希ちゃん、おばあちゃんの言うことを聞いてくれるかしら」
「なぁに?」
「……くーさんと友達をやめなさい……とは言わないわ。だって……紗希ちゃん、とても楽しそうなんだもの」
「うん! 紗希、くーさん大好き!」
嬉しそうに笑う紗希に、老いぼれは膝をつき抱きついた。
「……でもね、紗希ちゃん、くーさんは……普通の人じゃないの。……それはわかる?」
「うん。だって、くーさんはクモさんだったもん」
「そう……。だからね、くーさんとお友達のことは、おばあちゃんとの秘密にしましょう」
「え……どうして?」
紗希は老いぼれから身体を離し、じっと見つめている。
「くーさんはね、おばあちゃんたちには見えないの。紗希ちゃんだって……姿が見えなかったら、どうすれば良いかわからないでしょう?」
「え……おばあちゃん、くーさんが見えないの?」
「えぇ。だからね、くーさんのことはおばあちゃんとの秘密。くーさんとお話するときは、おばあちゃんと二人きりのときに話しなさい。……約束できる?」
「……わかった! おばあちゃんと、くーさんと、三人の秘密だね!」
無邪気に笑う紗希に、老いぼれも釣られて微笑んだ。
そしてわしがいる方へ顔を向け――会釈をして見せた。
ふん……わしを恐れているくせに良い度胸だ。良かろう、わしも安易に紗希に話しかけるのはやめよう。
◇ ◇
今日は騒がしい場所へと連れて行かれた。
何でも、遊園地、という場所らしい。狭い範囲に、ありえぬほどの人間どもが集まっておる。
やかましい人間どもと、見たこともない造形物。……ここは何の場所なのだ?
「……紗希ちゃん、初めまして」
そうそう。この男、何でも紗希の母親が紹介したいと言っておった男だ。
垂れ目でニッコリと笑い、紗希に握手を求めておる。……ふん、こやつ気にくわぬ。
心が灰色だ。一体何を考えておるのだ。
「紗希、伸吾さんよ。ちゃんと挨拶しなさい」
「……初めまして」
「紗希ちゃん、お母さんによく似てて可愛いね。ほら、おいで」
男は紗希を持ち上げると、そのまま肩車をした。
紗希はいきなりのことに驚いておったが、すぐに顔が崩れ嬉しそうに笑う。
「うわー! 高い! すごい!」
「ははっ。よし、このまま行こうか」
母親も楽しげな二人の様子に、すっかり心を許しているようだ。
だが、あの男、こうしておる間も……心はどんどんと濃い灰色に染まりつつある。
一体、何を企んでおるのだ。
それから三人は遊園地内をぐるぐる回っておった。
紗希は最初こそ、男に警戒心を抱いている様子を見せたものの、すぐに打ち解けておるようだった。
三人横並びで手を繋ぎ、笑みを絶やさず歩く――傍から見れば、仲睦まじい親子の姿に見えるだろう。
だが違う。
わしの目には、明らかに男の心の色が醜く変化しておるのがわかる。
あやつ、あの笑みの下で一体何を考えておるのだ。
わしの、長年の勘が予感させる――もうすぐ狩り、だと。
うずまく灰色の心は、そう時間が経たぬうちに黒色へと変化するだろう。
だが――紗希がおるのだ。
男は紗希に出会い、心に変化が生じたのだ。もしかすると、狙いは紗希なのかもしれぬ。
『……たかが幼子に、なぜ、悪意が向けられるのだ』
紗希は何も知らず、母親に、男に、無邪気な笑みを見せておった。
◇ ◇
「……ちょっと休みましょう」
しばらく歩きまわっておったが、三人は道端の椅子に腰を下ろした。
母親は疲れた表情で大きなため息を漏らしておる。
一方で、紗希は未だに目を輝かせておった。遊び足りないのだろうな。
「お母さん! 今度はあっちに行ってみようよ!」
「……紗希、座っていなさい」
一言で紗希の表情が見る見ると暗くなる。視線を落とし小さく「はい」と答えた。
その様子を、隣に座る男がじっと眺めておった。……一瞬、口が歪んだようにも見えた。
「……じゃあ僕と一緒に回ろうか。お母さんには休んでてもらって」
「いいの!?」
「ちょっと、伸吾さん……。あなたも歩きまわって疲れてるでしょう? 休みましょうよ」
「君ほどじゃあないよ。君こそ、慣れない場所で疲れてるだろう?」
「まぁ……そうだけれど」
すると男は紗希の手を握り、立ち上がった。
ニッコリと笑みを浮かべ母親を見つめる。
「ゆっくり休むといいよ。少しばかり、紗希ちゃんと回ってこよう。……紗希ちゃんともゆっくり話したかったしね」
「そう……。なら、私はここで待ってるから」
母親は男の浮かべる笑みに釣られ、微笑んで二人を見送った。
紗希も、再び遊べる喜びに笑みを浮かべておる。
「紗希ちゃん、この奥にはねプールがあるんだよ。……行ってみないかい?」
「プール!? 行きたい!」
「よし。じゃあ行こう」
だが、男の心は段々とその濃さを増しておった。
……こやつの心の色が黒になった瞬間、食ろうてやる。
「紗希ちゃん、お母さんのこと好きかい?」
「うん。好きだよ」
「そう。……僕もね、お母さんのこと大好きなんだ」
「そうなんだ! じゃあ紗希と一緒だね!」
「……どうかな。紗希ちゃんは単に好きなだけだろう? 僕は違うんだよ」
「……何が違うの?」
「お母さんと結婚して、会社をより大きくして、より豊かな生活をしたいんだ。君と違って、僕は将来のことを考えているんだよ」
「……将来? おじちゃんは、お母さんと結婚するの?」
「あぁ。するよ。……君には難しいかもしれないけどね、最後に話を聞いてほしいな」
手を繋ぎながら、男は冷たい笑みで紗希を見下ろした。
男は紗希の手を引きつつ、迷うことなく立入禁止の場所へと進んでおる。
……進んだ先に、広い水たまりが見える。周りには誰もおらん。
「……誰もいないね」
「あぁ。良い場所だろう?」
「……おじさん、さっきから変だよ? どうしたの?」
その瞬間――男の心の色が闇のように黒く染まった。
淀んだ醜い色――わしの、一番の色だった。
「それはな、邪魔なお前をようやく殺せるからだ」
「えっ……」
「全てを手に入れるために、お前は邪魔なんだ。だから死ね。世間のことも知らない馬鹿な餓鬼が!」
そう叫ぶと男は紗希を水たまりの中へと突き落した。
小さな飛沫が上がると同時に、バタバタと紗希がもがき始める。
「た、助け、て! ……足、届かない、泳げない!」
助ける素振りもなく、満足そうな笑みを浮かべる男――。
わしはその男の腹を目掛け、牙を突き立てた。
普段ならば透けるわしの身体は――その黒い心に反応し形も持ち、男の肉に食い込んだ。
裂ける肉、噴き出す血飛沫、轟く断末魔。
口の中に広がる肉汁と、黒く崩れていく黒い塊。
それらはわしの口の中で交わり、なんとも言えぬ味わいを生み出す。
腹をごっそり食い千切られた男は、顔をぴくぴくとさせながらも、力なく水たまりの中へとずり落ちた。
水が、その男からじんわりと赤黒く染まってゆく――まるで、男の持つ心が滲み出ておるようだ。
――と、紗希が水たまりの中足掻いておることを思い出した。
せっかくの白い心。こんな男に汚されてはたまらぬ。
「……ゴホッゴホッ!! はぁはぁはぁ……」
掬いあげたものの、すっかり服が赤黒く染まってしまったな。
……仕方あるまい。
「……くーさん」
咀嚼をするわしを見つめる紗希の目は、今にも泣きそうに潤んでおった。
心も……震えておる。
そこへ――。
「う、うわあああ!! き、救急車を呼べ! 警察もだ!!」
後ろから叫び声が聞こえた。
……誰か人間が気付きよったか。まぁ……これだけ派手にやれば気付かれぬわけはないか。
「……紗希!!」
この声は……。
「お母さん!!」
いつの間にか母親も来ておった。……帰ってこぬ二人を心配しておったのか?
母親は紗希に近寄ると、すぐさま抱き寄せた。
「何があったの!?」
「おじさんが……紗希をプールに落としたの……。でも、くーさんが助けてくれたの」
「……くーさん? まさか……あの……」
ガタガタと震えだし、紗希の後ろにおったわしの方を見つめる。
わしは見えんだろうが、咀嚼しておる様子は見えるかもしれぬ。血が……少々飛んでおるからな。
「きゃあああ!!」
そう言うと母親は紗希を突き飛ばし、顔を真っ青にする。
一方で、紗希は何のことかわからず呆然と尻餅をついておった。
「さ、紗希……紗希が……そんな……!」
「お母さん? どうしたの? 紗希はだいじょう――」
「近づかないで!! ……信じないわ、信じられない……目に見えないものは存在しない……!」
そんなことをブツブツと言いながら、何か言い聞かせておるように見える。
が……心は恐怖にガタガタと震えておる。姿が見えんわしが恐ろしいか。
「……くーさんがね、助けてくれたの……。お母さ――」
「変なこと言わないで!! そんなもの存在しない!! ……伸吾さん、どうして……!!」
母親は泣き崩れた。
その横で、紗希は悲しそうに母親を見つめておった。その心は、青く染まっておった。
恐怖で震えることもなく、ただただ、悲しげに心を青く染めた。
◇ ◇
それ以降、母親は紗希をあからさまに避けるようになった。
紗希も幼いならがもそれを察し、前よりも自分を押さえこむようになっておる。
ただ……わしの前では別だ。
「くーさん……」
『なんだ』
広すぎる部屋の中、紗希はぽつんと座りこんでおる。
だが、わしが傍におるためか、白い心のままだった。
「くーさんは、ずっと、紗希のそばにいてくれる?」
『あぁ』
「……くーさん、助けてくれてありがとう。私ね、くーさんのこと、大好きだよ」
『そうか』
わしは、紗希のことを守ろうとしたわけではない。ただ食らいたかった、それだけだ。
だが、紗希は――違うのかもしれない。
紗希はわしを恐れず、友と呼び、好意を寄せる。
ぼんやりとするこの感情がわからぬが、わしは紗希のそばにいたいと思う。
食らいたい、という欲だけではない。
だがそれが何なのか、わからぬ。もしかすると、紗希のそばにおればわかるかもしれぬ。
わしはただ、知りたいと思った。
お読みいただきましてありがとうございました<(_ _*)>
異種間恋愛というものが好物でして、今回は人外×幼女のおはなしを書いてみました。
凶暴な人外が純粋な子に影響され、少しずつ柔らかくなる様を書いてみたかったのですが……うまく表現できているでしょうか(;´∀`A
ちょっと可哀想な紗希ちゃんですが、くーさんが常に見守っているのでこれから先も大丈夫でしょう。
この二人の間に、好き、という明確な恋愛感情はまだ生まれていません。
ですが、いづれ気付くのでしょう。そんな話を、いつか、書いてみたいですね。
ありがとうございました<(_ _*)>