序章 異世界への旅
長く、緑髪のように艶やかな黒髪を背後に垂らしながら少女、菖蒲藍華は扉の前に立ちノックをして扉の奥へと呼びかける。
彼女は外から聞こえる小鳥のさえずりに耳を傾け、窓の外で広げられる小学生の登校する光景に目を向ける。朝の実感をこもらせながら同居人を起こしに行くことが彼女の日課であった。
「紫苑君? 朝だよ。ご飯、もう用意できてるから早く来てね」
「分かった、いつもわざわざありがとう」
部屋の主、浜上紫苑のこの返しを含めたやり取りが彼らの習慣である。藍華も「いいの、好きでやってることだから」と返すのだが彼も改めずに今日まで繰り返してきた。
藍華はある事件を切掛けにこの家に引き取られ、家族同然の扱いを受けてきた。そして、共同生活の中で藍華は彼に淡い恋心を抱いていた。
しかし彼女はその想いを告げられずにいる。同じ屋根の下で共に過ごし続けてきたからだろうか、友人から恋人への一線を超えることにどこか不安と気恥ずかしさを感じ、彼女の恋愛表現は朝のモーニングコールに落ち着き、この行為の意味が紫苑に気付かれることは今の所無い。
「それじゃあ、先に行ってるね」
と言い残し、藍華はその後の紫苑の動きも見ずに居間へ移った。このやり取りは中学入学時からかれこれ3年間続けてきたのだ。流石に彼がこの後二度寝せずに着替えることは分かっている。
居間、テーブルの上には朝食がある。食卓上の献立は簡素な物で、白米に振り掛けのみ。どうやら本日、木曜日の食事当番である藍華には朝早くに用事があるらしく、軽い食事で済ませたかったようだ。
椅子には既に紫苑の母、浜上茜が座っており、藍華を手招きしている。彼の父は居ない。既に仕事に行ったのだろう。
「おはよう、藍華ちゃん。紫苑、起きてた?」
紫苑の母は藍華に声を掛け、藍華は挨拶を返した後「はい、私が呼びに行った頃にはもう起きていたようです」と答える。
「それと、友達に早めに学校に来るよう言われましたので、紫苑君には先に行っていると伝えておいて下さい」
藍華は伝言を頼むとご飯にふりかけを掛け、朝食を急いで食べ始める。彼女は友人に相談事を頼まれていた。少し早めの時間に呼び出す辺りを察するに、あまり大勢には聞かれたくない話なのだろう。
「そう、じゃあ伝えておくわ。何、朝早くから友達と勉強? 真面目ねぇ。紫苑も見習ってくれればいいのに」
紫苑の母は勘違いしているが、藍華は「いえ、ちょっと相談があるそうです」と訂正するとすぐに家を出た。
家を出て暫くすると藍華は地面が僅かに揺れたように感じた。直後、彼女の視界が白に染まり、次に視界が開けた頃には周囲の風景が変貌していた。
付近を歩いていた学生たちは消失し、民家の塀は瓦礫の山となっていた。家屋は倒壊、形が残っている物も廃屋の姿となっている。そして道路は割れ、辺りには砂塵が舞っており、その様はまるでここが文明崩壊後の世界であると主張しているようだった。
「何、これ…………」
藍華は動揺する。当然だ。彼女はこれから学校へ行こうとしていたのだ。決してこのような廃墟に目的があるわけではなく、そもそもこのような場所が自分の住む町に存在するとは考えていないし聞いたこともなかった。
歩きながら白昼夢でも見ているのかと考えたが、目の前の非現実的な風景はしかし、彼女の目には現実にしか見えない。
「誰か…………いないの……」
無人の廃墟を前に、彼女はか細い声を喉から絞り出す。その行為はまるで、この空間に存在する人間がただ一人、自分だけであることを否定したいという彼女の願いのようだった。正常な人間なら拒絶するであろうこの世界に藍華は恐怖し、だが同時に懐かしさを覚えながら受け入れていた。
彼女は、自身の抱いた感情を不思議に思った。しかし、藍華はこの世界に迷い込んでから密かに抱いていた、郷愁に似た想いを頼りに荒廃した世界を歩く。そしてある物を発見した。
鏡だ。それも埃の舞うこの世界に在りながら、一切の曇りを許さない透き通った鏡である。藍華はこれを見つけると吸い込まれるように鏡を見つめていた。
鏡には懐かしさの他、悍ましい恐怖感も覚えたが、彼女は自身の感情には抗えなかった。
「不思議な感じ。ここに居ればお父さん……私の本当のお父さんのことが分かりそうな気がする」
そして彼女はこの荒廃した世界から消失した。
後には誰も残らない。砂塵が舞うだけである。