終章
終章
朝だった。
目を開けると見覚えのある部屋の天井を見上げていて、レオンはここが海賊クロネコの船の中だということに気が付いた。
「おや、目を覚ましましたか」
横で本を読んでいた大神官が話しかけてきた。
レオンは身体のあちこちが痛むのに顔をしかめつつそちらに顔を向けて、尋ねた。
「……ミレーナは」
「食事中ですよ。わたしは――ベリンダとの食事は遠慮です。……昔、三日三晩魚料理を出されたことがありましてね。あれ以来魚が苦手になってしまいまして。今日も、これで一週間目の魚料理らしいのですよ……」
大神官は、ややげっそりした顔でそう答えた。
ベリンダは魚好きなのだ。
「……って、一週間? あれからそんなに経ってるのかっ?」
レオンはがばっと跳ね起きてそう言い、すぐに痛みが襲ってきて呻き声を上げ、ばたーんと大きな音を立てて床に倒れ込んだ。
痛い。
「わわっ、大丈夫ですか? 安静にしていなくては駄目ですよ」
「分かってる」
――大神官に支えられて寝台へ戻る。
そのとき、どたばたと廊下を騒がす足音が聞こえてきた。
「レオンっ」
「今の音はなんなのっ?」
「レオンは無事か!」
ミレーナ、ベリンダ、クラウスの三人だ。
そしてミレーナは、レオンの姿を見るなり、がしっとまた抱きついてきた。
抱きつかれた拍子にまた身体に激痛が走ったことは内緒だ。
首元にミレーナの腕を巻きつけたまま、ひそひそと大神官に話しかける。
「おまえといいクラウスといい、こんなところにいて大丈夫なのか? 団長は海賊なんだが」
大神官は頷く。
「ええ。実はわたしやクラウスがここにいるのは、陛下のご命令なのです。ラドミールが街を破壊して行ったあと、あなたが住民たちを片っ端から治療していったでしょう? ですから人々はあなたの正体が精霊だと気付き、その後の行動に興味を持ったようなのですよ」
「なるほど。それで、ラドミールをねじ伏せた団長や、海賊船から降りてきた天使の姿のミレーナを見て、実はいい海賊だ――って勘違いしたわけだな?」
「その通りです」
レオンはベリンダのほうをちらりと見る。
(団長が、善人だって?)
一応、ベリンダは冷血無慈悲な海賊として有名なのだが――。
「何よ?」
ベリンダが首を傾げつつレオンを見つめてきた。
レオンが「なんでもない」と首を振ると、怪訝な顔をしつつも深くは聞いてはこなかった。
「まあ、元気そうでなによりよ」
そう言って、ぽんぽんとレオンの頭に手を置いた。
ふっと、珍しい笑み。
レオンは少々面食らいながら頷いた。
「――ところで」
ふとクラウスが尋ねてくる。
「ミレーナはさっきから何をしているんだ?」
……クラウスがそう尋ねるのも無理はない。ミレーナは先ほどから「んふふふふ」と笑みを浮かべつつ背中の羽――広場で見たときよりも翼が小さくなっているのは、羽の大きさを自由に変えられるためだ――をぱたぱたさせている。
レオンはこれが親愛表現なのだということを知っている。
特に幼い天使は、こんなふうによく羽をばたつかせるのだ。しっぽを振る犬のようで可愛いとレオンは思っている。
クラウスの問いにミレーナはんふふふふ、と笑ったまま振り向き――。
「恋してます!」
即答した。
覚えていたのか、とレオンは思う。
施設でミレーナが言っていたことだ。
もしレオンが人の姿で目の前に現れたのなら、恋をする、と。
一同が呆気にとられた表情でミレーナを見てきた。
……ついでに、レオンはクラウスから恨みがましい目で見られた。
(おれは悪くないぞ)
そもそもはクラウスがミレーナに絵本を与えたのが原因なのだから。
まあ、レオンもミレーナのことが好きなので、こうやってくっついてこられるのはまんざらでもないのだが。
――しかし、いつまでも睨まれているのは居心地が悪いので、とりあえず話題を変えることにした。
「ええっと……、そんなことより、ラドミールのことはどうなったんだ? 団長が捕まえたんだろ? あれからどうしてるんだ? それに、ミレーナ――いや、ミレーナとおれが入れられていた魔法使いたちの施設のことも」
レオンが尋ねると、ベリンダとクラウスが眉をひそめ、大神官が苦笑した。
なんだ?
三人の態度にレオンは首を傾げる。
ややあって、ベリンダがため息をつきつつ教えてくれた。
「……ラドミールには逃げられたわ。王都騎士団に引渡したあと、騎士どもがへまをしたらしくてね。ラドミールを入れていた牢屋に、抜け道が開いていたそうよ」
レオンは頷いた。
魔物撃退の魔方陣のことを知っていたラドミールのことだ、王都のことはだいたい調べ尽くしていたに違いない。
王都騎士団――あるいは王すらも把握していない隠し通路のことも。
クラウスの顔をちらりと見てみると、ばつが悪そうに顔を逸らしていた。クラウスも王と騎士団の一員なのだ。きっとまた無駄に責任を感じているのだろう。
ベリンダは続ける。
「だから、ミレーナちゃんを天使化計画に巻き込んだ魔法使いどもの居場所も分からないわ。ラドミールから施設の場所を聞き出す前に逃げられちゃったんだもの」
「逃げられたっていっても、施設の場所を知っているのはなにもラドミールだけというわけではないだろう? 一応、騎士様だってあの実験に関わってたんだから、ラドミールに聞けなくても、素直に騎士様に聞いておけばいいじゃないか」
レオンはそう言ってクラウスのほうを見る。
クラウスは――ますます顔を背け、レオンと顔を合わせない素振りを見せた。
「えっと……騎士様?」
おずおずとレオンがクラウスの様子をうかがうと、クラウスはぎくりと肩を上げて身を固めた。
間。
クラウスの動揺の理由を知っているらしいベリンダも大神官も何も言わない。ミレーナのほうはというと本当に何も知らないらしく、レオンと同様に首を傾げていた。
そしてクラウスはゆっくりと振り向き――。
「すまない。忘れてしまったんだ」
ぽつりと、言った。
「え?」
レオンが訝しげな顔でクラウスを見る。
一ヶ月くらい前には、すべて思い出したって言ってたのだ。もしや、まだ何か障害があるのか。――本気でそう心配した。
クラウスは眉をひそめ、また視線を逸らす。
代わりに大神官が説明した。
「どうやら敵に先手を打たれたようです。あのときはクラウスもラドミールの攻撃を受けて満身創痍でしたから、騎士団のほうへ帰して休ませていたんです。そしたらどうも何者かに忍び込まれたらしく、施設での記憶をほとんど消されてしまったらしいのです」
「消された? 前のときは十年分の記憶がごっそり奪われてたのに、今回はおれやミレーナのこともちゃんと覚えてるんだよな?」
頷く。
「私も、ぼんやりとは覚えているんだ。あの施設には確か、記憶を操るのに長けた暗殺者がいた――ような気がする。たぶんその者に封じられてしまったんだろう。……と思うのだが」
「曖昧だな」
「……すまない」
しゅんとクラウスが肩を落とした。
ベリンダは言う。
「魔法なら私が解けたんだけど。相手が暗殺者というだけあって、呪いのたぐいではないらしいのよね。おそらく、暗示かなにか……。手に負えないわぁ」
「面目ない……」
クラウスが小声で謝り、縮こまった。
なんだか可哀想に見えてきた。
大神官は言う。
「――まあ、そんなわけですから、クラウスについては罪を問わないことにします。どうやらミレーナ様への実験や世話以外には関わっていなかったようですし。……魔法使いたちが前回とは違う方法で記憶を消してきたのも気になります」
クラウスが魔法使いたちについて所々覚えているのは、暗殺者がわざとそうしておいたせいかもしれない。
王都騎士団のところへ容易く忍び込み、クラウスのような有能な騎士の記憶まで操ってしまうのだ。――脅しとも受け取れる。いつでも殺せるのだぞ、と。
こんなことなら人世にもっと関心を持っておくべきだったとレオンは後悔した。
あいにくレオンも施設の場所は覚えていないのだ。
魔法使いに捕らえられるまでは人のことを考えたことがなかったから。
「……まあたぶん、それほど心配する事態でもないわね。私もさんざん悪事を働いてるから分かるけど、あっちもうかつに手を出してきたりはしないと思うから。王都騎士団のクラウスといえば有名だもの」
「ラドミールのような馬鹿はいるけどな」
「あれは例外よ」
つまりはひとまず安全だというわけだ。同様の理由でレオンやミレーナのこともうかつには始末できないだろう。レオンが精霊であることやミレーナが天使――正確にはその末裔なのだが――であることは周囲に知れ渡っているから。
レオンはミレーナのほうに目を落とす。
「そういえば、ミレーナちゃんのことも学長に頼まなくちゃいけないわね」
ふとベリンダが言う。
「学長?」
自分の名前が出たことに反応してか、ミレーナがレオンの首に手を回したままベリンダのほうを向く。
首が絞まるのだが。
「そぉよ。私の母校の先生。レオンちゃんとの約束では、ミレーナちゃんを立派な魔法使いに育て上げることだったんだもの。ラドミールの馬鹿がこっちを狙ってこなくなったから、やっと約束が果たせるわ」
「えー」
ミレーナが顔をしかめる。
そしてまたぎゅううっとレオンの首に回している手に力を入れる。
……離れたくないという意思はよくよく伝わってくるのだが、首が絞まって窒息しそうだ。
「ミ、ミレーナ、苦しいんだけど」
「む?」
レオンはミレーナの手を解く。
そして――。
「団長、悪いけど、やっぱりミレーナはおれのそばに置いておくことにする」
言った。
「へえ」
ベリンダが面白そうに笑みを浮かべる。
「前はあんなに嫌がってたのに、どういう心変わりかしら?」
レオンは言う。
「うーん。昔のことを思い出したせいだろうな。――おれは、もう一度会ったら、ミレーナのことを守るって決めてたんだ」
「今もそう思ってるのかしら?」
「今もだ」
「それは本心から?」
ベリンダの言葉に、レオンは首を傾げた。
「当然だろう? おれはミレーナのことが好きなんだから」
どよめき。
「おぉー相思相愛」
「あらまあ」
「……!」
ミレーナがはしゃいだ声を上げ、ベリンダが頬に手を当てて笑みを浮かべ、大神官も少し顔を赤くして苦笑し、クラウスがあんぐりと口を開けてレオンとミレーナの顔を見比べた。
ベリンダが言う。
「いいわ、連れて行きなさい。……でも困ったらちゃんと助けを求めに来るのよ? 私たちは口出ししないから」
クラウスが戸惑った声を上げる。
「待て、私は――」
「父親は大人しく我が子の幸せを祝福してなさいな」
「――――」
がっくりとうなだれた。
……ふと、ミレーナが背中の羽をちらりと見て、ぱたぱたとさせる。
ミレーナが「レオンについて行くのなら、翼は邪魔になるかも」と考えていることが、レオンには分かった。
んーっ、と力を込めて、羽を震わせる。
ばさばさと羽が散り、翼が小さくなっていった。
と。
あれ? とミレーナが首を傾げる。
「どうしたんだ? 翼ならちゃんと縮んでるぞ」
「うん」
ミレーナが頷きつつ、やはり首を傾げている。
ふぬぬーっとまた力を込める。
ぜーぜー。
「れ、レオンー。翼が出てこない」
「えええっ」
レオンとクラウスが同時に叫んだ。
あはははは、とベリンダが声を上げて笑う。
大神官もくすくすと笑いながら言う。
「元の姿に戻れない精霊に、翼を出せない天使ですか。――いいじゃないですか。微笑ましいと思いませんか、クラウス? お似合いの二人だと思いますよ」
「だ、大神官。しかし――」
「心配いりませんよ。翼が出せずとも、一度天使化しているのですから、身体の性質は天使に近くなっているはずです。魔力に耐えられなくなるようなこともないはずですよ」
「しかし――」
ミレーナがレオンの手を離れて、ひょこっとクラウスの顔を覗き込む。
「何か不満が?」
「――いや、なんでもない」
ごにょごにょと消え入るようにクラウスがそう呟いた。
「ミレーナ」
レオンがミレーナを手招きする。
ミレーナがそばへ寄ってくる。
その首元に手をやったレオンは――小さく魔力を放って、ミレーナの首に嵌められていた首枷を、壊した。
がしゃんと真っ二つに割れた鉄輪が床に落ちる。
「おお?」
ミレーナが壊れた首枷に目をやってから、レオンの顔を見つめてくる。
紫の瞳。
レオンはその瞳を見つめ返した。
ふっと笑みを浮かべる。
「レオン?」
ミレーナがレオンの様子に首を傾げる。
レオンはミレーナに言った。
「約束だ」
「?」
首を傾げつつも、ミレーナは頷いた。
――きっと、いつもミレーナのそばにいて、守っていこう。
レオンは心の中で、そう誓った。
完