五章
五章
大地を揺るがすような轟音が続いている。
レオンとミレーナが塔の階段を下りていくと、めちゃくちゃになった廊下と、そこに兵士が倒れているのが見えた。
一人二人という生易しいものではない。
数十人……あるいはもっと。
おそらく止めに入った者を片っ端から薙ぎ倒していったのだろう。
「随分と無茶なことをするな……」
レオンは呟く。
――その呟きに反応して、床に突っ伏していた兵士の一人が呻き声を上げて頭を起こした。
「……誰だ? 無事な者がいるのか……?」
相当ひどい怪我だ。目をやられているらしかった。
「大丈夫か?」
レオンが尋ねると、兵は「ははっ」と軽く笑って言った。「――これが大丈夫に見えるか?」
「……軽口叩けるくらいには無事らしいな」
「ちくしょう、怪我人をからかうんじゃねえよ。もっと労われ、割れ物を扱うように繊細に」
「すこぶる元気じゃないか」
レオンはぽんぽんと兵士の肩を叩いてやった。
――ふと、レオンは気が付く。
顔の半分ほどが血でべったりと覆われているが、この兵には見覚えがあった。
(ああ、あそこだ)
思い出す。
王都に入るときにレオンを見咎めた兵だ。
……実を言えば、軽口を叩いているわりにこの兵の傷の具合がよくないことは、一目見てすぐに分かった。致命傷というわけではなさそうだが、このまま放っておけばこの兵があまりよろしくない状態になることは間違いない。
ここで死なれたら寝覚めが悪いな、とレオンは思う。
なにしろ、ラドミールが怒り狂って暴れているのは、おそらくはレオンのせいだろうから。
しかし。
(今のおれなら、この傷も治せるだろうな)
レオンはそう確信していた。
記憶が戻ったばかりであまり力は引き出せないのだが、ちょっとした傷を治すくらいならば容易くできる。
「すぐ済ませるから、少し待ってくれ」
ミレーナのほうを向いてそう言い、呪文を唱えた。
精霊魔法。
手に魔法を点し、傷口にそれをかざす。
みるみるうちに顔色がよくなってきて、流れ続けていた血も止まったらしいのも見て取れた。
「なんだ……? 痛みが、治まった……?」
兵がゆっくりと目を開く。
そして。
「――な、貴様は……!」
レオンを指差して、声を上げた。
どうやらレオンのことが分かってしまったらしい。
まあ、レオンも、今王都を大いに騒がせている当事者の一人なのだから顔を覚えられていても仕方がない。
ため息。
「そう身構えるなよな……ひとがせっかく助けてやったのに。今はそれどころじゃないだろう? ラドミール――神官はどうした。あいつがここまで来たのにミレーナにたどり着く前に引き返すなんて、普通じゃ考えられないからな。だいたい想像はつくけど……ここで何があったんだ?」
レオンは尋ねた。
兵はレオンの言葉に、そういえば、というようにミレーナのほうに目をやってぎょっとして、レオンとミレーナの顔を交互に見比べた。
「何故、特別牢から――どうやって?」
「それはもちろん、囚われのわたしをレオンが助けに来てくれたからです」
ミレーナが胸を張って答えた。
兵が信じられないものを見るような目つきでレオンを見てくる。
「……見た目は人だが、おれは精霊なんだ。騎士様――いや、クラウスに聞け。あれがおれの身分を証明してくれる」
「……クラウス様と知り合いなのか?」
「ああ。信じなくてもいいけどな」
昔、施設で飼われていたとき――は「クラウス」と呼び捨てにしていたくらいだ。ベリンダに拾われて教えを受けたせいですっかり商人としての考え方が身に着いてしまって、今はもはや呼び捨てにするのに違和感を感じるほどになってしまっているが。
――兵が戸惑った様子を見せる。
迷い。
レオンの口からクラウスの名が出てくるとは思わなかったのだろう。
もう一度、レオンは問うた。
「何があった?」
その問いに、兵が言葉を詰まらせる。――言うべきか言わざるべきか、まだ逡巡しているようだった。
やがて――。
「……ラドミール神官は、最上階の結界を破ることができなかったんだ」
兵はぽつりとそう言った。
「あの神官は、魔法を使ってここまで押し通ってきたようだが、最上階にはここいらの階よりも強力な結界が張ってあった、だから魔法が通じなかったんだ」
兵は続ける。
「しかし魔法が通じないならば素直に牢の鍵を開けて入ればいいだけの話だ。それで俺たちは鍵を渡すよう詰め寄られた。……もちろんすぐに断ったがな。そしたら逆上されて、このざまだ」
「よく生き延びたな」
頷く。
「ああ、途中でクラウス様が駆けつけてくれたんだ。神官を押して、外に出た。だから俺たちは助かった」
やはり、とレオンは思った。
どうやらクラウスはきちんと約束を果たしてくれたようだ。鍵を奪われてミレーナのところにたどり着かれる前に、止めてくれた。
こちらも追いかけなければ。
レオンがそう思って扉のほうを見る。
ミレーナが言う。
「行こうレオン」
「ああ」
頷く。
二人が再び出口に向かって駆けていこうとすると、兵は慌てた様子でレオンの背中に声を投げてきた。
「ちょ、ちょっと待った! 俺はいったい何をすればいいんだ? 意識ははっきりしてるのに身体がまったく動かん。他の仲間を助けたいが、これではどうにもならん。――どうすればいいんだ?」
レオンはちらりと兵のほうを振り向き――。
「知るか」
……素っ気なく答えた。
薄情者! と後ろで兵が叫ぶのが聞こえたが、レオンはとりあえず無視しておくことにした。
塔を出る。
「助けないの?」
ミレーナが聞いてくる。
レオンは。
「……いや、なんとかしてみる」
そう言って、塔のほうを振り返った。
塔の中の気配を探る。
――数十人が、ラドミールの魔法にやられて動けないでいるらしかった。幸いなことに死人は出ていないらしい。かすかな息遣いが、確かにレオンの耳に届いた。
レオンは呪文を唱え、魔力で塔を包み込んだ。
傷が治るようにと心に思って祈る。
空気が和らいだ。
これで、助けが来るまで耐えられるはずだ。
「助かる?」
「さあな。あとは本人次第だ」
レオンはそう言い、ミレーナもその言葉に頷いた。
行こう、とミレーナを促す。
ミレーナは疑いもせずについてきた。
轟音とは逆の方角へ歩いていく。
「……? レオン、そっちは逆方向」
結構な距離を歩いてからやっと、ミレーナは、どうもこれはおかしい、と気付いたようだった。
ばれたか、とレオンは少し残念に思う。
――レオンはミレーナをラドミールのところへは連れて行かず、ベリンダたちのところへ送って預かってもらうつもりだった。
ひそかに事を進められればいいなと思っていたのだが、さすがに無理だったようだ。
「これからおれはラドミールを止めに行くけど、そんなところにミレーナを連れて行くわけにはいかないだろう? おれは、ミレーナを助けに来たんだ。わざわざこちらからラドミールに引き合わせてミレーナを危険な目に遭わせるようなことは、しない」
レオンの言葉にミレーナが不満そうな顔をする。
ミレーナがぼそりと呟く。
「わたしのほうがラドミールよりも強い……」
「……ミレーナ」
たしなめるように、レオンがミレーナの名を呼んだ。
うなだれる。
その表情を見ていると、うっかり気を許してしまいそうな気がしたので、レオンはそちらから視線を外してそっぽを向いた。
ふと。
レオンはかすかに魔力を感じた。
その場所を探り出して上を見上げると、空の遠くに、見覚えのある船が走っているのが見えた。
小型の船。――そこに、ミヤビが乗っていた。
レオンは魔方陣を組んで言霊を送る。
「――ミヤビさん?」
ミヤビはレオンの声に驚いたらしく、一瞬、船ががくんと体勢を崩した。
きょろきょろと辺りを見回したが見つけられないらしいので、レオンが「こっちだ」と言霊を送って方向を知られてやった。
ミヤビは塔の近くにレオンとミレーナの姿を認めると、そばに降りてきて船を止めた。
船は、レオンとミレーナが王都に入ったときのごたごたで、兵によって没収されたものだった。
おそらく副団長が「これは海賊団クロネコの所有物だ」とひそかに脅しをかけて回収しておいたのだろう。
「レオン!」
船から降りてきたミヤビがレオンに声をかけてくる。
「無事だったか」
「ああ。……概ね、だけどな」
レオンは頷く。
「怪我でもしたのか?」
「いや」
「……?」
ミヤビは首をレオンの言葉に首を傾げつつ、詳しいことは聞かずに頷いた。「よく分からないが……いや、無事ならまあいい」
レオンのほうは、ミヤビにどうしてここへ来たのかと尋ねる。
ミヤビが答える。
「私は団長に言われてこの塔の様子を調べに来たんだ。私自身は魔力がほとんどないからよく分からないのだが、団長はこの塔に大規模な精霊魔法がかけられたのを感じ取ったらしい。特別牢の結界も破られたと言っていたな」
「あー、それは……」
――レオンは自分のしでかした事の大きさにどぎまぎと胸を押さえつつ、ミヤビからついっと目を逸らして引きつった笑みを浮かべた。
「?」
ミヤビが不思議そうな顔でレオンの顔を見つめてくる。
ずいっと。
顔を近づけて、凝視。
「レオン――の、偽者、……いや、そうではなさそうだな……。お前は、確かにレオンのようだが……少し雰囲気が変わったか?」
ずばりとミヤビが言い当ててきた。
その通りだ。
記憶が戻ったせいと、それに伴って色々な魔法を使えるようになったこと、――精霊の気をかすかに纏うようになったこと。
ミヤビは魔力がないくせに、故郷で学んだという技で相手の気を読むので、なかなか侮れない。
横からミレーナが口を挟んでくる
「レオンは――もががっ」
説明するのが面倒なので、両手でそれを塞いで、口封じ。
むー、むー、とミレーナが口を塞がれたまま唸る。
「色々思い出したんだよ」
レオンは言う。
「詳しいことはこの件が片付いてから話すから、この場を離れてくれ。団長がこの魔力を感じ取ったなら、教会の連中も駆けつけてくるはずだ」
「ああ、団長もそう言ってたな。様子を見たらすぐに引き返せ、レオンたちをみかけたら一緒に連れてくるように、と命令を受けている。団長の転送の魔法でここの近くまで来たんだ。帰りの分もある。――例の呪文の紙だ」
「その紙を見せてくれないか?」
「ああ」
ミヤビが紙を差し出してきた。
むんんん~っ、とミレーナ。
(こりゃ、こっちの思惑もばれてるな)
レオンは思った。
紙に書かれた呪文からベリンダたちの居場所を割り出し、レオンが自分の力で転送の魔法を組んで、ミヤビとミレーナだけをそこへ送るつもりだった。
ミレーナがじたばたともがいて暴れる。
逃げられそうだ。
「お前らいったい何をやって――」
ミヤビも二人のやり取りに戸惑ったような様子で言う。
それでもレオンは片手を伸ばしてミヤビの手から紙を奪った。
――ミレーナがレオンの手を振りほどいて逃れる。
「レオン!」
ミレーナが怒ったような声でレオンの名を呼ぶ。
そして呪文を唱える。
(眠りの魔法か)
レオンは紙に書かれた文字に素早く目を通し、ミレーナが呪文を唱える前に、転送の魔法を組んで発動させた。
「転送の魔法? レオン、お前――」
ミヤビは信じられないものを見たような顔をする。
「――ミヤビさん。ミレーナを頼む」
レオンは言った。
ミヤビとミレーナはそれぞれレオンに何かを言おうとしていたようだったが、それを伝える間もなく、二人はレオンが組んだ転送陣によってベリンダのところへ転送されていった。
静寂。
レオンはくるりと向きを変える。
そして、クラウスとラドミールを追うために、改めて歩き出した。
***
初めての王都の街は、まったくひどい有様だった。
半壊の建物、崩れた石壁。
落ちてきた石材木材の下敷きになったり、ラドミールの魔法の巻き添えを食ったりして倒れている人々もたくさんいた。
――レオンはそうした人々に適当な治療を施しつつ、先へと進んでいく。
どうやらじりじりと街の中心に近づいていっているらしい。
クラウスが追い詰めていっているのか、あるいはラドミールがクラウスを誘い込んでいるのか――多分後者だろうな、とレオンは思った。……あれでもラドミールは頭のいい男だから、自分の有利な場へクラウスを連れて行こうというのだろう。
クラウスとしてはラドミールを追うしかない。
(無事なのか?)
レオンは少し心配になる。
戦いは続いているので、少なくともラドミールを追いかけ回せるくらいの体力は残っているだろうが。
ドォオンッ!
レオンのもとへ、爆音とともにかすかな風が届いた。
近い。
街の中心へ、レオンは駆けた。
――二人の姿が見えた。
「クラウス、ラドミール!」
レオンは叫ぶ。
二人は振り返った。
「レオンっ」
クラウスも声を上げた。
ラドミールのほうは……レオンを見るや否や、こちらに向かって魔法を放ってきた。
――そういえばラドミールは嫌いなものから片付ける性格だったなと思いつつ、レオンはそれを避ける。
ラドミールは顎を上げて高圧的な態度をとる。
「やはり追ってきましたか、レオン。その様子だと記憶は戻っているようですね? あなたの大事なミレーナはこの場にはいないようですが、いったいどうしたのです? 僕が一番殺してやりたいのはあの小娘なのに。もしかして救い出すのに失敗したのですか?」
レオンは言う。
「失敗したわけじゃない。ミレーナなら、知り合いのところに預けてきたよ。多分、今王都で一番安全な場所に。こんなところにミレーナなんて連れてきたら、おまえはこちらの相手をしてくれないだろう?」
「なるほどね。ははっ、それは残念です」
不気味な笑み。
レオンとクラウスは身構えた。
二対一になったというのに、ラドミールはまったく頓着していないようだった。
全力を出せずとも、レオンはクラウスやラドミールよりも強い――しかも、おそらくこの二人がいっぺんに襲い掛かってきても撃退できるくらいの強さだ――という自信があるのだが、ラドミールのこの様子はどうも気になる。
レオンは考える。
クラウスを誘き寄せたラドミール。
街の中心――広場。
……はるか昔に、ここで天使たちが何か、大規模な術を仕掛けていたような覚えがあるのだが――どうにも思い出せない。
(あのころは天使なんてまだそこらにたくさんいたし、おれは魔法にも興味がなかったからな……)
ラドミールは言う。
「たいていの神官がそうであるように、僕が神官になったのは、天使への憧れが僕を駆り立てているためです。――しかし他の神官たちと僕の違うのは、僕は彼らよりもずっと天使に対する想いが強いというところでしょう。僕が天使化計画に賛同しているのもそのためですし、かつて天使たちが多く集っていた場所――つまりここ王都の、天使たちが残していった仕掛けについても調べ尽くしています」
――ラドミールが特別牢の中で魔法を使えたのもそのためか、とレオンは思った。
嫌な予感がする。
レオンは警戒した。
大神官でさえお手上げだった特別牢の中で、いとも容易く魔法を放って見せたのだ。ラドミールが言っていることははったりなどではない。
思い出さなくては。
天使たちが施した術なのだから、人に害を及ぼすような類のものではないとは思うのだが。
……どうも引っかかる。
レオンは、ラドミールの立っている周りをじっと見つめた。
円。
巨大な魔方陣。
――そう、むしろ人を守るためのものだ。
(この魔方陣は――)
レオンは思い出した。
本来、この魔方陣は、魔獣を撃退するためのものなのだと。
魔獣は、条件を満たせば、身体と魔力の塊である核が比較的簡単に取り出すことができる。
――この魔方陣は魔力を身体から分離するもの。
威力を調節してあるので、普通の者には効かないのだが、レオンやクラウスのような、特殊な場合には――。
「クラウス!」
レオンは叫んで、転送陣を二つ、展開しようとした。
逃げなければ。
そう思ったのだ。
クラウスが振り向く。
転送陣が空中に現れたが――しかし。
「そうはさせませんよ!」
ラドミールが、レオンに向かって魔法を放った。
同時に二つの魔方陣を組んでいたため、レオンはラドミールの魔法に反応することができなかった。
もろに攻撃を食らい、倒れこむ。
形成中だった転送陣の制御が失われ、暴発する。
レオンはとっさに結界を張ってクラウスや街に――そして、不本意ながらラドミールにも――被害が及ばないようにしたが、暴発源の近くにいたレオン自身はまともに衝撃を食らった。
「レオン……!」
クラウスが戸惑ったような顔をして叫ぶ。
「はははっ」
ラドミールが高笑いする。
「あなたが逃げ出すことは予想していましたよ。きっとこの魔方陣のことも知っているだろうと思っていましたからねえ。……しかし、逃がしませんよ。逃げられては困るんですから」
剣を構えたまま、クラウスはラドミールに問う。
「……二対一なのに随分と余裕だな。何を企んでいる。その魔方陣は?」
「なに、魔獣を倒すための魔方陣ですよ。――本来はね」
「本来は?」
クラウスは怪訝な顔をする。
レオンが呻く。
「逃げろ、クラウス。ラドミールはおれたちの魔力を奪い取るつもりだ」
「魔力を奪い取る? そんなことが可能なのか?」
困惑した表情でクラウスが言う。
ラドミールはくつくつと笑って言った。
「ええ。まさしく。――僕が一番殺してやりたいのはミレーナなのですが、今回ばかりはこの場にあの小娘がいないことを感謝していますよ。あれがいると僕に勝ち目はなかったでしょうからね」
――ミレーナには、この魔法は効かないのだ。もちろんラドミール自身にも。
「この魔方陣は、王都に魔獣が攻め入ったときに魔獣の身体から核を分離するために作られたのですよ」
ラドミールは言う。
「対魔獣用に作られた魔方陣ですから、普通の者には効かないのですが――クラウス、あなたのように他人から魔力を受け取った者や、そこのレオンのように魔獣の抜け殻と合成された化け物にとっては、危ないでしょうねえ」
クラウスが目を見開いた。
「……知っていたのか」
レナの魔力を引き受けたことを、だ。
「そんなこと調べればすぐに分かりますよ。あなたは昔、一時期王都を離れていたことがあるそうですね。元々魔法が使えたようですが、帰ってきたら、それまでとは桁違いの魔法を使うようになっていた……。分かって当然でしょう?」
ラドミールはそう言った。
――レオンは二人のやりとりを見ながら思う。
(まずいな)
傷はともかく、魔方陣だ。
魔力が奪われるだけのクラウスとは違い、レオンは、魔獣の抜け殻であるこの身体と精霊としての魔力が不可分となってしまっているのだ。無理やり引き剥がされたりすれば、おそらく――死ぬ。
それなのに、逃げることはできない。
転送陣を組むのにはラドミールに隙を見せてしまうから無理だし、魔方陣は王都全体に効果が及ぶように作られているから、単純に走って逃げるのでは魔法が発動される前までには逃げ切れない。
ラドミールはクラウスが転送陣を使えることを知らないだろうから、クラウスに、ひそかに転送陣を組んでもらうという手も考えられるが――。
レオンは頭の中でそれを却下した。
(……いくら天使の末裔から魔力を分けられたとはいえ、クラウスは転送陣が使いこなせるわけではないからな。クラウスじゃ人一人分の陣を作り出すのがやっとだし、三年前はそのせいで記憶が吹っ飛んだわけだし……)
それに、もしクラウスに転送陣を使わせたとしたら、クラウスは否応なくレオンを逃がしにかかるだろう。
今でさえラドミールに苦戦しているというのに、魔力を奪われたらどうなるか。
だいたい想像がつく。
――レオンは痛みをこらえながら立ち上がった。
かろうじて身体は動くので、隙を見せずにラドミールに攻撃を加えるしかない。
それがレオンの出した結論だった。
「ラドミール!」
レオンは叫んで、魔法を放つ。
「ちっ」
ラドミールは顔をしかめてそれを避け、自らも呪文を唱えて次の攻撃を迎え撃つ。
クラウスもラドミールに向かって魔法を放ちつつ剣を振るい、ラドミールを魔方陣の中心から追いやりにかかる。
「こざかしい!」
怒りを込めた声を上げ、ラドミールが風を呼び起こす。
――砂が舞ってレオンとクラウスが目を閉じている隙に、ラドミールは建物の陰に身を隠した。
「なんのつもりだ? 隠れても無駄だぞ」
レオンは言う。
気配を探れるレオンにとっては、壁などないに等しい。ラドミールが隠れている場所もすぐに分かった。
しかしラドミールは言う。
「うるさいですね、無駄だと思うのならそれで結構。少し黙っていなさい!」
意外な大声。
これでは気配が読めなくとも、クラウスにもラドミールの位置が分かってしまったはずだ。
罠か?
近寄った途端に至近距離から魔法を食らわせるつもりなのか、とも思ったが――。
(……いや)
レオンはすぐに否定した。
かりかりと何かを擦る音がする。
(これは罠というより――)
作戦。
単に、自分の行動を見えなくするための。
――魔方陣はすでに途中まで地面に書き込んであって、ラドミールは、レオンたちに見えないように魔方陣を完成させるために陰に隠れたのだ。
「気をつけろ!」
レオンは警告した。
ごおっと風が巻き起こる。
砂をはらんだ風の刃が、どっと襲ってくる。
とっさに結界を張って防いだが、その隙にラドミールはまた広場の中心――魔方陣の中心に駆け込んでいて、呪文を唱え初めていた。
――しまった。
レオンはラドミールを止めようと思ったが、思いとどまった。
今止めれば魔法が暴走してしまう。……こんな大規模な魔法が暴発すれば、王都など軽く更地になってしまうから、とても止められたものではない。
慌てて転送陣を組む。
逃げるなら今しかなかった。
(間に合うか?)
レオンは焦りつつ呪文を唱える。
普通ならば一瞬で発動する魔法なのに、なかなかうまくいかない。
ラドミールの組んでいる魔法と干渉し合っているのだ。
やがて、空気が変わった。
――魔法が発動する。
レオンは見上げる。
ラドミールは、にやりと笑っていた。
(ああ……)
間に合わなかったのだ。
にやにやと笑っているラドミールの顔を見なくとも分かった。干渉に負けたレオンの転送陣への力の流れを、急速に感じられなくなったから。
次の瞬間。
レオンは心臓を鷲づかみにされるような感覚を覚えた。
悲鳴を上げる。
地面に崩れ落ち、そのまま身体が動かなく――動かせなくなる。
「……レオン!」
クラウスがこちらを振り向いてレオンの名を呼び、剣を構え直してラドミールへ向かって行く。
どうやらクラウスはかろうじて動けるらしい。
なんとか魔法を止めようというのだろう。
――しかし今さらラドミールをどうこうしようと、この魔法は止められないことをレオンは知っている。
地面に刻んである魔方陣を消さない限り、効果は続くのだ。
あるいは三日後、魔法が終わるまで。……もちろんレオンはそんな悠長に待っていられる状態ではないが。
「はっ、先ほどですら苦戦していたあなたが、僕に向かってくるのですか? 身体もろくに動かないでしょうに、よくそんな無茶ができますね」
ラドミールがクラウスの攻撃を避けつつそう言った。
クラウスは唇を噛んで剣を振るう。
重い動き。
息が上がっている。
魔力を失うというのは、身体の一部を奪われるようなものなのだ。
レオンにとっては、命そのもの。
(意識が飛んできたな)
ぼんやりとかすんでくる視界の中で、冷静にそう思う。
――ミレーナはどうしているだろうか。
レオンは考える。
転送陣で無理やりベリンダのところへ送られることになったミレーナは、随分と怒った表情をしていた。きっとまだ怒っているに違いない。
最後に見た顔が怒った顔だというのは、少々残念な気もする。
ベリンダも、今はどこにいるのだろうか? こんな強大な魔法を間近にして黙っているような者ではないはずだから、近くに潜んでいるはずだが。
(それから、大神官にも。とんだ無駄足を食らわせてしまったな)
レオンは思う。
ミレーナを助け出せるような人物に応援を求めるといってどこかへ行った大神官。しかしそれも、レオンが先に助け出してしまったから、あまり意味がない。
(おれ自身の手でミレーナを助け出せたのは、良かったか)
レオンはそう思い、少し微笑む。
――ミレーナを守るという、心の中で決めた、レオンだけの約束。
それが果たせたのだから、まあ満足だ。
あとはベリンダに任せればいい。ベリンダのことだから、無下にはしないだろう。当初の予定ではベリンダが面倒を見ることになっていたのだし。――必ずミレーナを守ってくれるはずだ。
――仰向けに倒れていたレオンは、ぼんやりと空を眺める。
クラウスはいまだにラドミールと戦っているが、とても加勢できる様な状態ではなかった。――指一本動かすこともできないのだ。もう悲鳴すら出ないし、痛みもほとんど感じない。
視界は相変わらずかすんでいるが、よく晴れた空に、巨大な船が一隻浮いているのが見える。
見覚えのある船。――海賊クロネコの船だ。
(ああ、団長だな)
やはり来ていたか、とレオンは思う。
甲板に人が立っている――そのうちの中央の人物がベリンダだ。ベリンダは背が高いので、すぐに分かる。
そのベリンダが、すうっと片手を上げる。
レオンは魔力の流れを感じた。
(……まさか)
ベリンダの次の行動が、レオンには予測できた。
振り下ろし――。
ドォオンッ!
轟音。
魔方陣を巨大な炎の柱が貫いた。
炎は地面を抉って、陣をかき消す。
魔法が効果を失う。
(無茶な。暴発するぞ)
レオンは覚悟した。
――しかし。
いつまでたっても、思っていた爆発は起こらなかった。
(なんだ……?)
もう一度、甲板の上を見てみる。
……ミレーナと大神官が、魔力を使って結界を張り、暴発するのを防いでいるらしかった。
「て、大神官……っ?」
レオンは思わず叫んだ。
――何故大神官が海賊の船に乗っているのだ、とレオンは困惑したが、そういえば、助けに行く人物というのはあまり他人には知られたくないような者なのだと言っていたな、と思う。
まさか、その人物というのが、ベリンダのことなのか。
確かに大神官ともあろう者がベリンダのような大海賊と関わっているなどと知られるのはまずいだろうが。
レオンはクラウスとラドミールのほうに目をやる。
ラドミールは、クラウスを追い詰めていたようだったが、今にも止めを刺さんというところでぴたっと動きを止めていた。
ぎくりと顔を強張らせ、冷や汗をかいている。
呟き。
「は……破壊屋のベリンダ……ッ?」
その言葉に――レオンは、だいたいのことが想像ついた。
ベリンダも昔ラドミールという名の魔法使いに付きまとわれたことがあって、その魔法使いをこっぴどく痛めつけてやったという話を聞いていたから。
その魔法使いというのが、今この場にいるラドミールのことだ。
――レオンはそう確信した。
甲板の上に立っているベリンダも、ラドミールのことに気が付いたようで、指示を出して船を寄せさせると、そのまま甲板から――飛び降りた。
いくつかの魔法を組み合わせているのだ。甲板からは結構な高さがあったが、ベリンダは何事もないかのように、すと……っと軽やかな音を立ててラドミールの眼前に着地してみせた。
「久しぶりね、ラドミール?」
ベリンダが不気味な笑みを浮かべて言う。
ラドミールは引きつった顔をして、ぞっと身を硬くしている。
「ふうん……。私のあとを追っかけ回していたあんたが、神官なんてものになっているとはね。しかも、昔あれだけ懲らしめてやったのに、おめおめと私の前に現れるとはね」
「あ、あなたが勝手にここへ来たんでしょうっ?」
ベリンダの言葉に多少うろたえつつも、指を差してラドミールがそう言った。
しかしベリンダは言う。
「馬鹿なことを言わないでくれないかしら。あんた、私のレオンやミレーナにもちょっかい出してきたそうじゃない。なかなかいい度胸じゃない? 覚悟はできているんでしょうね」
ずいっとベリンダがラドミールに詰め寄る。
ひい……ッとラドミールが情けない声を出して、尻餅をついた。
完全に戦意を喪失してしまったらしい。
クラウスもほっと息をついた。
もう大丈夫だ。
――レオンはそう思い、再び空を見上げる。
船の上。
ミレーナと目が合った。
「レオン!」
甲板から、めいいっぱいの大声でミレーナが叫ぶ。
そして――。
――そこから、飛び降りた。
「ええええっ!」
レオンは慌てた。
空を浮いている船から飛び降りるなど、ベリンダだからできる芸当だというのに。
(無茶な。死ぬぞ。――受け止めないと)
レオンはやっと感覚が身体に鞭打ってよろよろと立ち上がる。
呪文を唱えるが、魔力を引き剥がされかけたせいでうまく魔法が使えない。発動は間に合いそうになかった。
このまま受け止めるしかない……そう覚悟した。
――そのとき。
一同は、純白の翼を目にした。
ミレーナが。
白い大きな翼を背負って、ゆっくりと舞い降りた。
ふわっとレオンの腕の中へ収まり、ぎゅうっと抱き締めてきた。
「て……天使……っ?」
ラドミールが呟く。
ベリンダも言葉が出ないといった顔で、ぽかんと口を開けている。
レオンは――これを、ミレーナの翼を見るのは二度目だ。それほどには驚きはしなかった。
「――天使化が、うまくいったんだな」
ぽつりとクラウスが呟く。
ラドミールはクラウスのほうを向き、問う。
「天使化が? どうして――ミレーナには、天使の羽が移植できなかったというのに。どうやって天使化したというのです……?」
「それは、ミレーナに元々天使の力が備わっていたからだ」
クラウスは言った。
「ミレーナは天使の末裔なんだ。天使の羽を移植するとすぐに剥脱してしまうのも、おそらくそれが原因だ。……天使化計画の実験は失敗だ。所詮、我々の力では天使なんてものなど作れやしなかったんだ」
その言葉を聞いて、ラドミールは呆然と呟いた。
「……ミレーナが天使の末裔? なんということを……僕は天使の末裔を手にかけようとしていたわけですか……」
がっくりとうなだれる。
――ラドミールは、本当に天使のことを熱望しているらしい。
この様子だと、もうミレーナの命を狙ったりするようなことはないだろう。
レオンはミレーナのほうに目を向ける。――ミレーナは相変わらずレオンの首元に抱きついたままだ。
「ミレーナ」
軽く肩を叩きながら、レオンはその名を呼ぶ。
「レオン……」
ゆっくりとミレーナが手を弛める。
真正面からレオンのことを見つめてくる。
紫の瞳。
研究所でレオンがいつも目で追っていた瞳だ。
「――の」
ミレーナは――。
「卑怯者――ッ!」
そう言って、思いっきりレオンに頭突きをかましてきた。
ああ、やっぱり怒ってたな、とレオンは思う。
……ゆらゆらと世界が揺れた。
そりゃあそうだ。一時は本気で死にかけたのだから。頭の中がぐるぐると回って、まともな判断ができるような状態ではなかった。
――しかし、今度こそ本当に大丈夫だ。
レオンはそう思った。
そしてレオンはそのままばったりと後ろに倒れ、気を失った。