四章
四章
街は、一見すると特に変わりない様子だった。
ミレーナのような少女を特別牢に捕らえておくほどのものなのだろうかとレオンは少し疑問に思ったが、街の奥に進み、中央教会に近づくにつれて、その待遇でも納得いくようなものが、見えてきた。
中央教会は天まで届かんばかりの高い尖塔が立っていることで有名だが、その塔が、見えない。
……というか。
教会そのものが、ない。
人だかりの向こうに巨大な石材の塊が見えるが――どうやらそれが、中央教会の無残な残骸であるらしい。
礼拝堂、管理棟、神官たちの宿舎、レオンたちが入れられていた牢を含め、教会の敷地内にある建物はすべて崩落しているのが確認できた。
(そりゃあ……捕まるよな、これじゃあ)
レオンは深々とため息をついた。
建物を壊したのはミレーナではなく大神官なのだが……。
ふと。
「――いたか?」
「いや、見つからない」
少し離れたところで気になる会話が聞こえた。
「この人ごみの中を探すのは無理があるんじゃないか? 相手は背の低い少年だろ? 分かりっこないだろうに……」
「いや、そんなことはないさ。あの少年は使い魔を連れているからな。いくら大神官様が行方不明で結界が弱くなっているとはいえ、ここは王都だぞ? これだけの神官に囲まれているんだ、探せば見つかるはずだ」
――やはり、どうもレオンのことを探しているらしい。
相手はこちらに気付いていないようだが、急いで離れたほうがよさそうだった。
幸い、王都にも海賊クロネコの支部は秘密裏に存在している。頼れば匿うくらいはしてくれるだろうし、今回の事件についてもすでに詳しい情報を持っているかもしれない。
レオンは足早に、こっそりと急いでその場を離れ、ベリンダから以前教えてもらった道をたどっていく。
しかし。
人通りの少ない裏路地に入った、その瞬間。
レオンは何者かにぐわっと肩をつかまれ、建物の壁に強く叩き付けられた。
頭をぶつける。
痛い。
「なにすんだよ!」
レオンがきっ、とその何者かを睨むと、見覚えのある顔がそこにあった。
――王都騎士団の、クラウス。
しかしどうも、前に見たときよりも不機嫌そうな、暗いような、憎しみに満ちた感じの目つきをした――険しい顔。
どういうわけだか、レオンに怒りを向けているらしい。
クラウスの様子にレオンは戸惑う。
「な、なんだ?」
おろおろとレオンが尋ねると、クラウスはこちらに鋭い視線を向けてきた。
クラウスは一気にまくし立てる。
「――レオン! どういうことかきっちり説明してもらおうかっ。……どうしてミレーナが特別牢に捕らえられている? 教会をあんなふうに破壊するなんて、いったい何を考えているんだ? 大神官には会ってないのか?」
「ちょ、ちょっと待てよっ! 騎士様、あんたいったい、何を知ってて何を知らないんだ? 騎士団のところではどんな情報が流れてるんだ。大神官はミレーナのせいで行方不明になったってことにされてるんじゃないのか? おれとミレーナが王都に到着してから一ヶ月間、中央教会の牢屋に閉じ込められていたことは?」
レオンの言葉に、今度はクラウスが戸惑った様子を見せた。
言ってから、しまった、敬語で話すのをすっかりと忘れていた――と思ったが、どうやら
「閉じ込められた? どうしてそんなことが……」
「それは――大神官いわく、おれの正体が実は世にも珍しい人型の魔物で、王都の結界に引っかかったからなんだと」
「ま……、魔物……っ?」
クラウスが目を見開く。
――レオンはクラウスに、王都に入ってからの出来事を話してやった。大神官から言われたこと――ミレーナが天使の末裔であることや、レオンが魔法使いたちによって作られた合成魔獣であることを話した。
ついでに、レオンには実験体にされる前の記憶がないことも。
話の途中から、何故だかクラウスはますます驚いた顔になって、レオンのことをじっと見つめてきた。
ぶつぶつと何か呟く。
「魔法使いの実験体――記憶がない? まさか、……いや、そんなことが?」
「……?」
よく分からない。
レオンは言う。
「とにかく、騎士様はミレーナが天使の末裔だってことは知ってて隠してたんだな? だからおれたちに、大神官に会うように、って言ったんだな」
「……ああ」
クラウスが頷いた。
「もちろん知っているさ。ミレーナは私の娘なのだから」
さらりと言ったその言葉を――。
レオンは危うく聞き流してしまうところだった。
「ええっと、それは……娘みたいなものだ、って意味だよな?」
クラウスが首を振る。
「いいや」
言う。
「私は、ミレーナの実の父親だ」
レオンは呆気に取られた。
「いや……だって……、騎士様、あんた、――そういうようなことができるような性格なんかじゃないだろう? なんでミレーナを天使化計画の実験体なんかに――」
クラウスは顔を伏せる。
「できることなら、私もミレーナを自由にさせたかったさ。しかしそれができないことは初めから分かっていた。天使化計画が、ミレーナにとって重要な研究であることも」
「どういうことだ?」
レオンは問う。
クラウスは答えた。
「……ああ、このことは大神官から聞いていないのか。天使の末裔であるミレーナは、早急に天使化しなければ、十数年後には巨大な魔力に耐え切れなくなって死ぬことになるんだ。――天使化計画の実験体となった者たちと同じように」
「は?」
「天使の末裔と言っても、純血の末裔は存在しない。どうやら天使の身体は地上にはあまり適さなかったらしく、天使同士の子供は生まれていないと言われている。今いる者たちは皆天使と人の混血だ。しかし、人の身体は天使の力に耐えられるようにはできていないから、常に大量の魔力を放出し続けるか――あるいは、天使寄りに身体の構造を作り変えるかしなければならないんだ」
大神官が、ミレーナの母親であるレナのことを、誰よりも大神官になるべきだと言っていた理由が分かった。
強い力を秘めたミレーナ。そしてレナ。
王都の強大な結界を維持するのはかなりの力を使うから、有り余る魔力のはけ口としては最適なのだ。
「でも、天使化計画は未完成の研究なんだろ? 実験体になった奴らはみんな数週間以内に死んだって、ミレーナが言ってたぞ。騎士さまは、どうしてわざわざそんな危険なほうを選んだんだ? 大神官はミレーナを様付けで呼んでたし、本当はミレーナが大神官の地位に就けたんじゃないのか」
「ああ。大神官にはなれただろう。しかし、それでは足りないんだ。ミレーナの力は今の大神官が使っている力よりもはるかに大きな力を持っているから」
クラウスは言う。
「……レナは、私の最愛のひとだった。当時レナは大神官の候補であることを隠していたが、天使の末裔であることは明かしてくれた。その膨大な魔力のせいであまり長くは生きられないと言われたとき、幸いにも私は魔法に関する知識を持っていたから、彼女の魔力の一部を引き受けることにした。しかし――」
ため息。
「彼女の魔力に触れてみて分かった。私が彼女の魔力を引き受けたとて、そう長くは持つまいと。魔力を直接引き受けることは、大神官となって結界を維持し続けるよりもずっと大きな力を消費するのに、だ。――レナはミレーナを生んでしばらくしたら死んでしまったよ。もがき苦しんで」
――ふと。
レオンの耳に、悲鳴が聞こえた。
いや。
幻聴だ。
レオンには分かった。
――昔レオンがいた魔法使いたちの施設でも、天使化計画の実験が行われていて、レオンの耳元で聞こえているこの幻聴は、施設で聞いた実験体たちの叫び声なのだと。
耳に痛い。
レオンは頭を押さえて崩れ込んだ。
クラウスがレオンの様子を気にして手を伸ばす。
「どうした? 大丈夫か――」
――そのとき。
ひゅっと風を切るような音がして、その次には何か鈍い音がした。
レオンが顔を上げるとミヤビがそこにいて、クラウスに向かって剣を振り下ろしたのだということが見て取れた。
何故ミヤビがここに、と思ったが、頭がぐらぐらしていて声が出なかった。
ミヤビはあの街から離れることは滅多にないのはずなのだが。
「ほう、機転が利くではないか」
ミヤビが感心した声で言った。
――クラウスが片腕でミヤビの剣を受けたことに対して、だ。
剣を抜くのには気付くのが遅すぎたらしい。もし剣で受け止めようとしていたら、抜いている途中でばっさりと斬られていただろう。
しかし、腕で剣を受けたのに、血は出ていないようだ。
どうやらとっさに呪文を唱えて、腕を氷で覆ったらしい。
クラウスはがきんっ、と剣を受け流し、ミヤビから距離を取って魔法で氷を溶かす。そして剣を抜いて構える。
「……いきなり何をする。王都騎士団に恨みのある者か? 私になんの用だ」
「別に。貴様に特に用があるわけではない。そちらこそ、我々の仲間にいったいなんの用があるんだ? 王都騎士団の騎士が、こんな路地裏で?」
「仲間……? いや、そういえば貴様の顔には見覚えがあるが――」
クラウスは考え込む。
どうやらミヤビが海賊クロネコの団員であることを知っているらしい。
(そりゃあ、ミヤビさんも手配書が出されてるから、団長や副団長と同じくらい有名だもんな。王都にはあまり来ないけど……知ってて当然か)
レオンはそう思った。
じとっと疑り深い表情でこちらの顔を見てくるクラウスに、レオンはため息をつく。
痛みは収まっていた。
「……ミヤビさん。この騎士様は別に敵ではないから大丈夫だ。……剣を収めてくれ。騎士様も。――そんな顔で見るなよ。おれは別に海賊じゃないからな。あんただって魔法使いに混じっていかがわしい研究をしてただろ? おれはその同業者のせいで記憶を失って、ミヤビさんたちに世話になったんだからな」
クラウスがぎょっとした顔をする。
「それは……すまない」
何故か謝られた。
クラウスは剣を鞘に収め、ミヤビにも頭を下げる。
ミヤビが不思議そうな顔をして尋ねてくる。
「私の素性にはおおよそ見当がついているだろうに……、随分と礼儀正しいのだな。……レオン、この騎士とはいったいどういう関係なのだ?」
「――おれが前に連れてきた、ミレーナの、実の父親だ」
沈黙。
ミヤビはがばっとクラウスのほうを振り返り、顔を近付ける。
じー。
「……?」
じぃー。
「…………」
じぃいーっ。
これまた長い。
クラウスが助けを求めるようにこちらを見てくる。――こういう仕草はミレーナとそっくりだ。
やがてミヤビはクラウスから顔を離して言った。
「ふむ。たしかにあの娘と似ている気がするが……少し若すぎやしないか?」
「それは、魔力を受け取った副作用のせいだ。実際にはそれほど若くはない。大神官だってあの顔で三十を越しているだろう?」
「なるほど」
頷いた。
……レオンには初耳だが。
「しかしともかくレオンはこちらに引き渡してもらうぞ。少し用事があるからな」
そう言って。
ミヤビはレオンに近寄り――。
……どこからか縄を取り出して、ふん縛った。
「あの……ミヤビさん?」
「なんだ」
「どうしておれ、縛られてるんだ?」
「団長の趣味だ」
「え、だ、団長のっ?」
レオンが驚いて声を上げた。
そんな趣味聞いたことないぞ、とレオンは思ってミヤビを見つめたが、ミヤビはレオンの様子には気付かなかったらしく、ためらいなく頷いて言った。
「ああ。陽動作戦だ。お前を騎士団に引き渡して、中で暴れてもらえと言われている。あの娘と一緒に教会をぶっ壊したそうじゃないか。おそらくお前も特別牢に入れられるだろうから、それを逆手に取る」
……そういう意味か、とレオンはほっと息をついた。
どうもやはり縄にかける意味はないような気もするのだが、それは口には出さないことにしておいた。
「ほら、行くぞレオン」
縄を引っ張られる。
「うわ、わ、やめろ、引っ張るなミヤビさんっ。おれは犬じゃないぞ!」
レオンの言葉に何故かクラウスが片手で顔を覆って視線を逸らす。
「……なんだ?」
「いや、すまない。君に申し訳ないと思って」
また謝られた。
どういうことかとレオンが首を傾げていると、クラウスは真剣な表情でこちらを見てきて言った。
「レオン。多分君は――魔物ではないと思う」
じっと見つめる。
やがて。
「――そうかよ」
レオンは素っ気なくそう言った。
「自分の過去が気にはならないのか?」
クラウスが戸惑ったように聞いてくる。
「気になるさ。もちろん。でも今はそれどころじゃないだろう? 長話はごめんだ」
レオンはそう答えた。
「それほど長い話ではないのだが――」
クラウスは言う。
「……いや、分かった。私は騎士団のほうからどうにか特別牢に入れないか探ってみる。さすがにそこの――海賊と一緒にいるところを見咎められたら、言い訳ができないからな」
クラウスの言葉にレオンも頷く。
「ああ。できればラドミールがミレーナのところへ行くのを防いでくれないか? 大神官いわく、教会から取調べに行くのならばラドミールが行くことになるんだと」
「分かった。そちらはなんとかしてみる」
レオンの言葉にクラウスはそう約束して、踵を返した。
……ふと、レオンは少し思い出してクラウスを呼び止める。
「一つ聞いていいか」
「なんだ?」
「レナって、ミレーナや騎士様みたいに、紫色の目をしてるのか?」
「いや……? この目は私の家系に特有な色だから、滅多にあるものではない。髪は、ミレーナと同じ色だが――いや、ミレーナの髪がレナと同じ色なのか――レナの瞳は透けるような淡い水色だ」
「……あれ? そうなのか?」
レオンは少し考え込んで、言った。
「そうか。ありがとう」
なんの話だとクラウスが首を傾げてレオンを見つめてきた。
しかしレオンは、用は済んだだろとばかりに縄を引っ張ってくるミヤビのせいで、それ以上話すことはできなかった。
クラウスがレオンを目で追ってくる。
ミレーナと同じ色の瞳。
ずるずるとミヤビに引きずられつつ、レオンはミレーナが捕らえられているであろう方角へ目を向けた。
特別牢。
その尖塔が、遠くのほうにはっきりと見えた。
***
――ひとまずミヤビの手を離れたレオンは、兵に引っ立てられて廊下を歩いていた。
どうやら服の下に隠しておいた札は見つからずに済んだようだ。
ミヤビがベリンダから預かってきた、呪文の書かれた札だ。特殊な魔法石で書かれていて、紙を破ると魔法が発動する仕組みになっている。
どういう仕組みかは分からないが――ベリンダから意気揚々とした表情で詳しい理論をつらつらと説明されたが、レオンにはさっぱり理解できなかった――特別牢の中でも使えるようになっているという。
……ふと。
「ふーん? それで、レオンという少年をちょうど捕らえたところだ、と」
聞き覚えのある声がした。
ラドミールの声だと、レオンには分かった。
声はだんだん近づいてくる。
……間が悪いものだな、とレオンは思う。
ここでラドミールには会いたくなかった。
「おや、あなたでしたか。ははっ、奇遇ですね? レオン」
ラドミールがレオンの前に立って、言った。
同じ敬語なのに、大神官とは違ってラドミールの言葉はこちらに対して高圧的に聞こえるのだから不思議だ。
「ご苦労様です、この少年は僕が預かります。牢へ連れて行けばいいのですね」
しかも最悪なことに、ラドミールが兵にそう申し出てきた。
頷くな。
レオンはそう思ったが、兵はそうしてはくれなかった。
分かりました、と兵がそう言ってラドミールにレオンを縛っている縄を渡し、その場を離れた。
――ラドミールと二人、牢への通路を歩いていく。
「ミレーナにレオン――どちらも我々の施設にいた化け物の名前ですねえ……。我々のほうのレオンは、三年前にクラウスが処分したと聞いていましたが……ミレーナにくっついているということは、偶然ではないのでしょう? 正体を明かしたらどうです?」
レオンはラドミールに言う。
「……おれは確かにどこかの施設にいたことはあるらしいけど、あいにく、そんときのこたぁ覚えちゃいねえよ」
「記憶喪失ですか?」
ラドミールが疑わしい表情でこちらを見てくる。
「ふうん……どうりでお得意の魔法を使ってこないわけですね。こんな牢、あなたくらいの化け物ならば、容易く壊せるでしょうに」
「化け物化け物って、失礼な物言いだな。おれに何か恨みでもあるのか?」
「いいえ、別に? ただ、ミレーナの味方であるあなたが気に食わないだけです」
「……とんだとばっちりだ」
レオンは深々とため息をついた。
ラドミールはレオンの様子を見て、んー、と唇に人差し指を当てて考え込み、しばらくしてから、にっこりと笑って言った。
「しかし、あなたを見逃すことくらいならしてあげますよ? 僕の目的はあくまでもあの憎きミレーナに地獄を見せてやることなのですから、さっさとあなたには退場してもらったほうがありがたい」
「おれがすんなり承諾すると思ってるのか?」
「まさか」
あっさりと言う。
じゃあ聞くなよ、とレオンは思ったが、また面倒な恨みを買うのも嫌なので、口には出さなかった。
ラドミールは続ける。
「しかし、承諾しなければあなたもひどい目に遭いますよ。実は僕にはこの塔の中でも魔法を使えるような知識があるのですよ。……いくらあなたが化け物であるとはいえ、殺せば面倒なことになるので、そういった事態は避けてほしいのですけどね。少し口裏を合わせてくれるだけでいいのですよ? あなただってなんの抵抗もできずに殺されたくはないでしょう?」
……ラドミールまで特別牢で魔法を使うことができるとは思わなかった。
天使の力について知っている者ならば、少し考えれば結界を無効化させることくらいできるものだとベリンダは言っていたが。
「そうだな、無駄死にだけはしたくないな」
レオンは言った。
ラドミールはレオンの言葉に、にっこりと、しかし蔑むような笑みを浮かべて、レオンの縄に手をかけた。
――その瞬間。
ばっ、とレオンはミヤビによって縛られていた縄を外し、ラドミールの手をつかんだ。
そして、片手で服の裏をまさぐり、ベリンダからもらった呪文の書かれた紙を取り出して口にくわえ――びりっと破った。
ラドミールが警戒して呪文を唱え、反撃してくる。
風が巻き起こった。
……本当に魔法が使えるようだ。
ベリンダからもらった紙から飛び出した魔法は、ラドミールの風にかき消されて不発に終わった。
「ははっ、なんですかそれは?」
ラドミールがせせら笑う。
失敗したと思われているようだ。
――しかし。
「ああ、これ、二段構えだから」
「え」
ぎょっと表情を凍らせたラドミールを尻目に、レオンは半分になった紙をまた二つに破いた。
ごぉっと炎がうねって襲いかかる。
「ぎゃぁああああッ――!」
ラドミールはつんざくような奇声を上げて、ふっと力を失った。
その声にレオンが思わず手を離して耳を塞いだため、ラドミールはそのまま床に倒れこんでしまった。
冷や汗。
あまり騒がれると兵が駆けつけてくるのではないかと心配になってくるのでやめてほしい。
ミヤビはこの魔法は単なる目くらまし用の――殺傷能力のない魔法だと言っていたのだが、こんなに驚かれるとは思わなかった。
「まさか死んじゃあいないよな……」
レオンはぶつぶつとそう呟きながら、しゃがんで様子をうかがってみる。
怪我はないらしい。
――泡を吹いて気を失っているようだった。
ためしに身体をつついてみても、起きる気配はまったくなかった。
(なんなんだ?)
この程度の目くらましならばレオンですら使えるくらいだから、どこででも見られるはずなのだが……。
しかしまあ、気絶してくれたのなら手間は省ける。
レオンは解いた縄でラドミールを縛り上げ、柱の陰に放っておいた。
そして懐からもう一枚、呪文が書かれた紙を取り出し、二つに破いた。
魔方陣が浮かび上がる。
言霊の魔法だ。
これもベリンダが術者一人で魔法の維持ができるように書き上げたものだ。……やはりこれも言葉を送ることしかできないが、しかし今はそれで充分だ。
「ミヤビさん」
レオンはミヤビに呼びかける。
「こっちは大丈夫だった。やってくれ」
言った、次の瞬間。
ドォオオンッ!
遠方で、轟音が響いた。
ミヤビが塔の壁の一部を剣で切り崩して破壊したのだ。
こんな芸当ができるのはミヤビくらいなものだろう。ミヤビいわく、「剣が特別なだけだ」ということなのだが。
しかし、これで兵たちを厄介払いできそうだ。
ばたばたと慌しい足音がして、怒声が飛んでいる。
レオンはしばらくそのままひっそりと牢で足音が過ぎ去るのを待ち、人気が少なくなってから、そっと階段へと続く廊下に抜け出た。
ミヤビのほうは、ひと暴れしたあとにベリンダからもらった呪文の紙で転送陣を組んで逃げる手筈になっているから、それほど心配しなくてもいいだろう。……まあ、たとえそんなものがなくとも、ミヤビはこんなところでおめおめと捕まってしまうような小物でもないのだし。
――それよりも。
「な、なんだ貴様は!」
兵と鉢合わせてしまった。
むしろ自分のほうを心配したほうがよさそうだ、とレオンはため息をついた。
「……おれ、さすがに対人での戦い方は教わってないんだよなぁ」
ぼそりと呟く。
各地を行商して回るレオンだから、一応、獣や魔獣との戦い方は一通りベリンダやミヤビから習っているのだが、人とやり合う術は学んでいない。ベリンダは教えてくれなかったし、レオンも教わる気はなかったのだから。
しかし、ここできっちりとこの兵を止めておかないと、応援を呼ばれて窮地に陥る可能性が高い。
せっかく縄を解いたのに牢屋へ逆戻り、というのはごめんだ。
「何をぶつぶつと言っている? ここは立ち入り禁止だぞ。……それともここが特別牢だと分かっていて来たのか?」
兵がいらいらと剣を抜きながら問う。
どうやらレオンがここに捕らえられていた本人であることには気付いていないようだ。
一か八か、レオンは芝居に撃って出ることにした。
「す、すみません、おれ、王都は初めてなもんで、普通に街を歩いていたら、うっかりと道に迷ってしまって、わけがわからないうちにこんなところにまで入り込むことになってしまったみたいで」
「……迷っただと? そんなこと、あるわけがないだろう。ここは陛下の所有する敷地なんだぞ、貴様のような一般人を我々が黙って見過ごすわけがなかろう。隠し立てをするとためにならんぞ!」
さすがに騙せないか、とレオンは眉をひそめた。
レオンは無言で腰のあたりに手をやって、短刀を取り出して構えた。
刀身に文字が浮かび、鈍く光っている。
三年前にベリンダからもらった剣だ。
レオンが一商人として独立するときに護身用としてもらったもので、刻んである文字は眠りの呪文。――斬れば相手は眠ってしまう仕組みだ。魔獣と戦ったときに幾度か使用している。
対峙しているこの兵も、レオンの剣に魔法がかかっていることに気付いたようで、こちらを警戒してぴたっと動きを止めた。
睨み合い。
この剣で一撃食らわせさえすればいいのだ。
レオンは考え、どうやったらこの兵に傷を負わせられるかを見極めようと、兵の様子をうかがっていると――。
「――あなたは、どうしてそう趣味の悪いものを持っているのです?」
後ろから、声がかかった。
振り向かなくとも誰だかはすぐに分かる。……ラドミールだ。
レオンは少々うんざりした表情をもろに顔に出しつつ、ラドミールのほうを振り向いて言った。
「あんた、もう復活したのか。せっかく縛っておいてやったのに」
「ふん。おかげさまでね」
ラドミールは腰に手を当ててこちらを見下すように言う。
どうしてこう、いちいち偉そうなんだ? とレオンは思ったが、口には出さないことにしておく。
兵はラドミールの顔を知っているようだった。
話をしている二人の顔を訝しげな表情で見比べ、レオンとラドミールがどういう関係にあるのかと首を傾げていた。
「その短剣」
ラドミールがレオンの剣を指差して言う。
「見覚えがありますよ。ええ、ありますとも。まったく、嫌なことを思い出してしまいましたよ。私は昔それと同じ呪文を刻んだ剣で殺されかけたことがあるというのに、よくもそんなものを使えますね」
「いやおれがそんなこと知るわけがないだろ」
レオンは言ったが、ラドミールはそんな声は聞こえないとでも言うように、興奮した様子でレオンを指差して続ける。
「しかもさっきの魔法、あれも甚だ不愉快です! あれで何度悪夢を見たことか……あなたは本当に僕の嫌いなものばかりを持ち合わせていますね……!」
「おれに言われたって――」
「だいたいあなたはですね――」
「聞けよこら」
「人がせっかく好意であなたを生きて帰して差し上げようと言っているのに」
「思いっきり見下してたじゃねえか」
「聞く耳も持たずにあろうことかこの僕を縄で縛り上げて牢屋に放置するなんて、まったく信じられないことですよ! 僕をいったい誰だと思っているんです? 僕こと中央教会のラドミールは、次期大神官にと期待されている逸材であり、あなたのような化け物などこうやって僕と直接話していること自体奇跡に近く――ちょっと、ちゃんと聞いているんですか?」
「さっきから相槌打ってんだろうが――」
「ええい黙らっしゃい、うるさいですよさっきから」
レオンは口をつぐんだ。
理不尽。
置いてきぼりを食らっている兵が、ぽかんとした表情でラドミールを見ている。
ラドミールのほうは兵のことなど眼中にないようで、取り繕うことなくレオンに恨みの言葉を浴びせている。
「あの……神官様?」
やがて兵は意を決して、おずおずとラドミールに尋ねた。
「……おや、いたのですか」
今気付いたとでも言うように、ラドミールが言った。
「あなたも随分と面倒なところに居合わせたものですね。処分しなくてはいけないものが増えて困りますねえ」
「処分……?」
兵はラドミールの言葉に首を傾げたが、レオンにはその言葉の意味が分かった。
ラドミールは、レオンもろともこの兵を殺すつもりなのだと。
呪文。
レオンはこの魔法を知っていた。
展開された魔方陣から風の刃が飛び出してくるのだ。
当たれば全身を切り裂かれる。
それはベリンダに教えてもらったわけではない。
しかしレオンには何故だかそのことが分かって、ほとんど無意識のうちに、ラドミールが魔法を繰り出すのと同時に兵の前に飛び出して呪文を唱えていた。
聞いたことのない呪文――それが、レオン本人の口からすらすらと出てくる。
ラドミールがにやりと笑う。
今度こそ仕留めたと思ったのだろう。
(ああ、そういえばここでは魔法は使えないんだっけ)
レオンもそう思い、やられた、と身を強ばらせた。
――しかし。
放たれた風の刃はレオンたちに届く直前に、なんの前触れもなく消えてしまった。
「な……」
二人が口をぱくぱくさせつつレオンを凝視する。
「せ、精霊魔法……?」
兵が呟いた。
ラドミールもレオンを指さしたまましばらく固まっていたが、やがて顔を赤くして怒りの声を上げた。
「あなた……やっぱり記憶が戻っているんじゃないですか! 僕の魔法が通じないのが分かってて、わざと黙っていたんですねっ? 随分と見下した真似をしてくれますね!」
「いや、記憶が戻ったわけでは――」
「黙りなさい!」
ごおっと風が唸る。
全力かと思うほどの魔法。
息が苦しい。
身体を押し潰されるような感覚。
以前にもこんなことがあったような気がするが……しかし、今はそれを気にしている場合ではない。
(――こんなところで時間を取られているわけにはいかないってのに)
ミレーナはこのすぐ上にいるというのに。
「……い」
レオンは息も絶え絶えにミレーナの名を呟く。
「レ、……ナ」
ふと。
(――あ)
気がついた。
今まで見てきた夢の中の少女の名は、レナではなく――。
「ミレーナ」
レオンが言う。
ラドミールが耳に手を当てて尋ねてきた。
「は? なんです、良く聞こえませんよ……命乞いですか?」
どうやら自らが起こした猛烈な風のためにレオンの声が聞き取れなかったらしい。
レオンは。
ちらりとラドミールを見た。
「ひっ」
悲鳴。
そんなに恐れずとも、襲って食いやしないのに、とレオンは思う。
戸惑った様子の兵のほうを向くと、こちらからも、わけの分からない奇声が上がった。
まあしょうがないか、とため息。
ぐぐぐっと床に身を縮めて――跳躍。
目の前に壁が迫ったが、問題ではなかった。
そのまますり抜ける。
上空へ出て、帰ってきたな、とレオンは懐かしげに辺りを見回した。
王都は、かつて天使たちが多く集まって暮らしていた場所だ。……いや、天使たちが集まっていた場所に王都ができたと言ったほうが正しいか。
そこでレオンも生まれた。
――レオンは塔を見下ろす。
今のレオンには、塔に張ってある結界がはっきりと見えた。
下のほうは元々薄かったらしく、レオンが突き破って出てきた跡がありありと見て取れる。
しかし上のほう、ミレーナがいるであろう最上階は、精巧な編み細工のように、特に念入りに魔法が組まれているらしく、先ほどのようにやすやすと壊せるものではないことはすぐに分かった。
これは天使たちによる結界なのだ。どの文献にも書かれてはいないが、レオンはそのことを知っていた。
レオンは思う。
突破するのは難しそうだが――この中にミレーナがいるのだ、なんとしても助け出さなければならない。そのためにここに来たのだ。自分には多分その力がある。
すっと息を吸う。
――咆哮。
空気がぴりぴりと揺れた。
久々に使った力なのに、自分でも思いもよらないくらい、大きな威力が出た。……しかし、結界を破るにはまだ足りないらしい。
レオンは少し考えて、身体の周りに力を纏い始めた。
塔を見据える。
駆けだした。
突進。
ばしっと鈍い抵抗受けて、結界に阻まれる。全身に、幾多もの鋭い針で突き刺されるような痛みが走る。しかしレオンは引かなかった。
底知れぬ泥をたたえた沼に足を踏み入れるように、レオンはじりじりと結界に身体を沈めていった。
深い。
意識が飛びそうだ。
このまま身を裂かれ続ければ、さすがのレオンでも耐えられない。
駄目か。
レオンは死を覚悟した。
――しかし、幸いなことに、その覚悟は杞憂に終わったようだった。
しばらくすると身体がふっと軽くなり、抵抗もあっさりと消えた。――あとはすんなりと塔の中へ入ることができた。
紫色の瞳と出会った。
「レオン!」
その瞳の主――ミレーナがレオンに駆け寄ってくる。
レオンが頭を垂れると、ミレーナは背伸びをして首筋に手を回し、抱きついてきた。もふもふとした長毛に顔をうずめて、んふふ、と笑みを浮かべる。
頭を下げてなおミレーナが背伸びをしなくてはならないのは、今のレオンの背丈が普通の大人の倍ほどもあるせいだった。
これで犬とはよく言えたものだな、とレオンは思う。
――レオンの正体は、巨大な狼の魔獣の姿をした、精霊だった。
久々に見たこの姿のレオンのことがよほど嬉しいのか、にこにこと引っ付いたまま離れない。
しかし、この姿のままでは言葉を話すことができないので、レオンは元の姿――いや、本来はこちらの姿こそが元の姿なのだろうが――に戻った。
ミレーナが「おおっ?」と戸惑ったような声を上げる。
驚いた顔で見つめてくるミレーナに、レオンは言いたいことが山ほどあったが、しかし体力のほう限界だった。
意識に反して、目蓋が勝手に降りてくる。
休まなくては。――身体がそう訴えかけてきているのだ。
それでもレオンは残された体力を使って、かすかに安堵の笑みを浮かべた。
「ミレーナ」
一言、そう呟いて、しばし目を閉じる。
***
「――精霊?」
声がする。
ミレーナの声だ。
レオンが目を開けて頭を少しだけ動かしてみると、幼いミレーナがクラウスの膝に乗せられて――あるいは自分から喜んで乗っている可能性が高いが――絵本のようなものを広げているのが見えた。
クラウスは頷く。
「そう。魔獣は魔力が尽きると身体を抜け殻として残す。我々はその抜け殻に精霊を押し込んだんだ」
「レオンの中に精霊が入っているの?」
「いいや、どうやらレオンは精霊としての意識を引き継いでいるらしい。いわば――そうだな、我々が精霊であるレオンに魔獣の皮を被せたようなものだ。……罰当たりなことだな。精霊は天使の魔法から生まれたものなのに。こんな勝手なことをしてすまないと思っているが……」
ミレーナがこちらを見てくる。
レオンは一つあくびした。
「気にしてないって」
「そうか……?」
その言葉にクラウスが少々苦笑いしつつ、否定とも肯定とも取れない返事をした。
しかし、ミレーナの言葉は本当のことだ。
数百年前の、天使が滅びるよりも前から生きているレオンにとって、魔獣の身体に閉じ込められる程度のことは些細なことだった。
他の生き物たちは、こんな感覚の中で生きているのかと新鮮な感じすらした。
精霊は肉体を持たないのだ。
――あまり知られていないが、そもそも、人の魔力と天使の魔力というのは、根本的には同じものなのだ。まあ、人の使う魔法も元々は天使が教え伝えたものなのだから、当然といえば当然なのだが。
決定的なのは圧倒的な魔力の量と、魔法の質。
人の魔力では動物の身体を借りなければ意識を発現することはないが、天使の魔力は時を経ると、それがそのまま精霊となる。
だから、レオンにとっては肉体を持つことは珍しい体験であるのだ。
それにここにはミレーナがいる。
レオンはミレーナのことが好きだ。
魔法使いたちの馬鹿な実験に付き合わされて、肉体的な痛み苦痛を味わう羽目になっているのには閉口するが。
「しかし、どうやらレオンは魔獣の身体に定着してしまっているらしい。身体から精霊であるレオンを分離することは難しいそうだ」
「私は今のレオンも好き」
ミレーナの言葉にレオンがぴくりとかすかに耳を動かす。
クラウスがミレーナが読んでいる絵本に目を落として言う。
「じゃあ、もしレオンが人の姿で現れたら?」
「恋をします!」
ミレーナは即答した。
――ミレーナが抱えている絵本は、ヒロインが、人に化けて現れた精霊に恋をするという童話なのだ。レオンも実際に、はるか昔にそういう風変わりな同胞がいたことを記憶している。
クラウスは少し苦笑して、「妬けるなあ」と呟き、ミレーナもクラウスの膝の上で誇ったような笑みを浮かべる。
そんな二人の様子を見ながら、レオンは考える。
ミレーナはこう言うが、しかし今のレオンは人に化けるのはおろか、本来の半分――いや、十分の一の力を発揮することすら、難しそうだった。
この新しい身体にまだ慣れていないのだ。
いくつかの年を経るか――あるいは、何かのきっかけがなければ。
――人の姿か。
レオンは思う。
もし人の姿になるならば、ミレーナと同じくらいの年齢がいい。いつもミレーナを見下ろしているから、もっと背も低く。
レオンはいつか自分が取るであろう姿に思いを馳せる。
場所は、ここではないどこかだ。
ここに囚われる前にしていたように、各地を――ただし人の姿で――巡り、世界を見て回るのだ。
そしてその傍らにはミレーナがいて、いつものようにレオンの名を呼ぶ――。
「――レオン」
ふと。
思いのほか近くで、ミレーナの声がした。
「レオン」
揺さぶられる。
空想に耽っている間に、いつしか目を閉じて眠っていたらしい。
起きなくては。
――レオンはゆっくりと目を開いた。
ぱち。
紫色の瞳がそこにあった。
「レオン!」
ミレーナがはしゃいだ声で言う。
レオンは今の状況を確認した。
――ここは、塔の、特別牢の中だ。レオンが塔の結界を突き抜けてミレーナと再会し、そのまま気絶して――おそらく数分。
外からは爆音が聞こえてくる。
ミヤビが兵たちの気を引いているのか、あるいは一旦塔を飛び出したレオンを追ってきたラドミールが外でまたひと暴れしているのか。
「ラドミール、近所迷惑」
レオンが外を見ていると、ミレーナが顔をしかめてそう言った。
……どうやら後者らしい。
(まだ、なんにも解決しちゃいない)
レオンはため息をつく。
放っておくと街のすべてを破壊していきそうな勢い。……さすがに「自分は関係ありません」と見過ごすわけにはいかなそうだ。
ここからミレーナとともに脱出して、どうにかしてラドミールを王都から引き離さなくては。
レオンは壁際に近づいて結界の様子を見てみた。
結界は、ゆらゆらと揺らいでいる。レオンが無理やりに通り抜けてきたせいで効力が弱まっているらしかった。
「……じゃあ、さっさとこんなところとはおさらばしちまおう」
「おー」
レオンの言葉に、ミレーナはなんの疑問も挟まずにそう応えた。
特別牢の、木の扉に手をかける。
抵抗。
手のひらに少し魔力をこめた。
ばちばちばちっと火花が散り、結界が消えた。
「あー、痛ぇな……」
顔をしかめつつレオンは手のひらを振って呟いた。
びりびりと痺れが残ったが、それもすぐに治まった。
もう片方の手で扉を押すと――すんなりと開いた。
「おおー」
ミレーナがぱたぱたと駆けていく。
「早く行こう、レオン」
ぶんぶんと手を振って言った。
「――ああ」
レオンは頷く。
「行こう、ミレーナ」
そう言った。