二章
二章
深い夜が彼を包んでいた。
足音が二つ、レオンの牢の前で止まった。
そっと静かに牢を開けてするりと入ってきた彼らに、夜目が利かないレオンにもその人物たちがいつもの二人だと分かった。
男と、その娘。
あどけない少女の手がレオンの首に回され、ぎゅっと抱きしめられる。
レオンは心地よく目を閉じる。
――この手が好きだった。
暖かい、小さな手。レオンよりもずっと幼いこの少女に、抱きしめられるのが好きだった。
「さ、お別れを」
男が言う。
少女がこくりと頷いた。
「レオン」
するりと手を解き、レオンの顔をまっすぐに見つめてくる。
「またね?」
レオンは気配を読み取ることができるので、暗闇でも何がどう動いているのかというのはよく分かるのだが、今、少女の顔を見られないのは残念だった。
日の下で見れば、少女の深い紫色の瞳がこちらを見つめているのが見えるはずだったのに。
少女はレオンから離れ、とてとてと男のそばへ寄っていった。
目配せ。
男が頷いてしゃらっと剣を抜く。
思わず飛び掛ろうと身体が反応しかけたが、男が敵ではないことはレオンにも分かっていたので、なんとか理性で押さえ込んだ。
レオンは男が目的のものを斬りやすいようにと頭を床につけた。
剣が振りかざされる。
――がきん、と鎖が断ち切られた。
「むう……、これ以上は斬れそうにないな」
ミヤビの声ではっと我に返った。
ベリンダと別れてミレーナの首枷を外してもらうためにミヤビのところを訪れているところだった。
ミレーナの首枷は首周りぎりぎりの大きさに作られているので首枷そのものを外すことはできないらしい。
しかしせめて鎖は切っておこうとミヤビがじーっとミレーナの首枷の鎖と睨み合いを始めたため、意外と時間がかかったわけで――そのため、レオンはいつの間にかうとうとしてしまっていたのだ。
(……今のは?)
どうやら夢を見ていたらしいが、レオンはなんとなく、これが単なる夢ではないのではないかと感じていた。
牢屋、――そこにレオンはつながれていた。
昔の記憶だろうか?
こんなふうに過去を思い出したのは初めてだ。
おそらくミヤビがミレーナの鎖と格闘していたおかげだろう。夢の中のレオンも、首枷を嵌められて、それを男に外されたようだったから。
「どうにかしようと思えば首枷のほうも壊せないことはないが……ミレーナの首も一緒に斬り飛ばす恐れがあるからな」
恐ろしいことを言う。
ふるふると首を振ってミレーナが遠慮した。
「いい。命は大切に……」
まあしかし少しは動きやすいようになったらしい。ミレーナはミヤビに礼を言ってまたレオンのうしろに隠れた。
「ありがとうミヤビさん。それじゃあおれたちは街に行ってくるから」
「そうか」
ミヤビが剣を収めた。
からんからんと鈴を鳴らして扉を開け、レオンとミレーナは建物を出た。
――すっかり昼時だ。
しかし、まずはミレーナの服を揃えなければならない。
レオンはミレーナの服に目を落とし、さすがに一緒に店に入って料理を食べられるような格好ではないなと思った。なにしろぼろぼろの麻の服一枚しか着ていないのだから、下着で歩いているのと変わりない。
きょろきょろと街を見回し、服を置いている店の場所を思い出す。レオンは服は大事に着るので、自分でも店の位置などすっかり忘れてしまったかと思ったが、意外と覚えていた。
「ミレーナ、こっちだ」
しばらく歩いて、店にたどり着いた。
服を買ってミレーナに与えた。レオンが服を手渡したら、ミレーナがその場で着ている服を脱ぎだそうとしたので慌てて止めなければならなかったが。
今着ている服の上から着るものだと教えると、ミレーナは不服そうな顔をしつつレオンの言う通りにした。あとから「重ね着は動きにくい」と抗議を受けたが、レオンは「慣れろ」と一蹴しておいた。
それから街の中心の市場へ行き、髪飾りを買い求め、ミレーナの髪を結ってやった。
鞄の中から鏡を取り出しミレーナに貸す。
「おおー」
どうやら気に入ったらしかった。
「レオン、レオン。ありがとう」
「はいはい。さっさと鏡を返しなさい」
ミレーナから鏡を取り上げて、レオンはまた歩き始めた。
昼過ぎの、もう少し時間が経つと、食べ物を売っている露店は次々と引き上げていってしまう。
昼食にありつけなくなる前に何か買っておかなくてはならない。
レオンは順々に露店を見て回り――。
ふと。
いつの間にか、何者かに尾行けられていることに気が付いた。
ちらり、と横目でうしろを確認し、男の姿を認めた。
――怪しい者ではなさそうだった。
なにしろ相手はアヘル王国、王都騎士団の衣服をまとっていたから。
王は、数百年前の王国の建国以来続いてきた直系の子孫で、その血の長さが、民に対する温情を示しているとも言える。
品行方正な王の子孫に仕える王都騎士団は、民の信頼も厚い。
王都騎士団はたいていは王族を守っているため王都から出てくるようなことはあまりないので、人々は好き勝手な妄想空想を語り、誠実で美形できりっとしていてうんたらかんたら――という騎士像が広まっている。
王都の騎士とはそれくらい遠い存在なのだ。
その騎士が、今ここにいる。
さすがに鎧甲冑はつけていないが、
(こんな片田舎の小都市にほいほいと現れるようなもんじゃないはずだけど――なんでおれたちなんかを尾行けてるんだ?)
レオンはそう思った。
このままベリンダたちのところへ戻るのはまずそうだ。
海賊クロネコの、末端の支部の一つでしかないあの建物だが、あまりにも有名なベリンダが、今、あそこにはいるのだ。ミヤビ、その他の団員もここらの地方ではそれなりに名があるので、王都の騎士などを連れたままではとても帰れたものではない。
なんとか撒かなくては。
人気の多い場所を選んで歩いてもみたが、撒いても撒いてもしつこく探し出してくるので、あまり意味がなかった。
ため息。
「ミレーナ、団長のところに一人で帰れるか?」
「おそらく可能かと思われ」
「じゃあそうしてくれ。あそこの角を曲がったらそのままの速さで歩いて、おれから離れていって、別の道から先に帰っておいてくれ」
ミレーナが首を傾げながらじっとレオンを見つめる。
何故そんなことを言うのか、という顔。
「返事は?」
「……はーい」
不満そうな顔をしつつミレーナはそう返事をした。
角を曲がり、ミレーナと別れてしばらく歩く。
そっとうしろを見てみると、どうやら謎の騎士をうまくレオンのほうにおびき寄せることができたようで、騎士は距離をとりつつレオンのうしろについてきていた。
レオンは辺りを見回し、今度は人通りが少ない道を探し――。
駆けた。
「……! ちっ――」
騎士が追いかけてきた。
逃げ切れる、と思った。
足には自信があるし、レオンは相手よりも身軽だ。なにしろこの謎の騎士は、軽装をしているとはいえ大きな剣を佩いている。街中を逃げ回っていれば、騎士は疲れて追って来られなくなるだろう。
レオンは騎士を引き離し、再び人ごみに紛れようとしたところで――。
ざくっと足元を何かがかすっていき、突然、冷たい痛みを感じた。それでもどうにか逃げようと少し走ったところで、かくん、と膝が折れた。
何が起こったのかと自分の足を見てみると、刃物で切られたかのような傷がざっくりと開いていた。
意外と傷が深くて動けない。
点々としたたり落ちている血のあとを目で追うと、道の真ん中の、敷石の隙間に、ガラスのようなものが突き刺さっているのを見つけた。
――いや、ガラスではない。
あれは魔法で生成された氷の刃物だとレオンには分かった。
「すまない。うっかり加減を誤ってしまった。手当てをするから傷を見せなさい」
騎士がレオンのそばに来て言った。
どうやらレオンを傷つけた氷はこの騎士が放った魔法であるらしい。
手当てをする、とは随分と奇妙な尾行者だ。
普通ならば警戒するところだが、しかしまあ、どうせ怪我で逃げられないので、レオンは言われた通りにした。
騎士が呪文を唱える。
――治癒の魔法。
(本当に手当てしてるな……)
レオンは訝しげな表情で騎士の顔を見上げた。
青年といえるほどの若さはないが、整った顔立ちは人々が語る王都の騎士像そのものの美形だった。年はレオンよりも一回りほど上――ベリンダと同じくらいの年齢だろう。落ち着いた雰囲気をもつ人物だった。
手当てをしながら騎士が話しかけてくる。
「名は?」
「……レオン」
「レ……オ、ン――?」
一瞬、騎士が頭を押さえて眉をひそめる。
なんだ? とレオンは思ったが、どうやら本人にもよく分からなかったらしい。首を傾げてしばらく考え、怪訝な表情のまま、手を下ろした。
「……私は王都騎士団に所属するクラウス・ヴィルヘルム・シルヴレイだ。見ての通り、魔法が使える。君をひそかに追っていたのは、君から、覚えのある魔力を感じたからだ。――荷を改めさせてもらってもよろしいか」
レオンはぎくりとした。
鞄の中には、ミレーナから得た天使の羽が入っている。
先ほどベリンダに渡した分は、実は半分ほどでしかない。残りはレオンのほうでどうにかしようと思い、持ち歩いていたのだが――。
天使の羽は本来国宝級の財産なのだ。
王都の騎士に見つけられると厄介なことになる。
……とはいえ、この状況でばれないように、というのは無理がある話だ。この騎士クラウスも、レオンが考えあぐねているうちに早々と鞄を開け、天使の羽を見つけ――固まった。
それから、無言のまま険しい顔でゆっくりとこちらを振り向いてきた。
「詳しく話を聞こう」
拒否できそうにはなかった。
***
「一生の不覚だ……」
レオンはぼやいていた。
鬱々と部屋の隅で縮こまっているのは、今レオンがいる場所が牢屋の中で、すでに一週間もそこに閉じ込められているからだった。
一週間前。
クラウスに兵の詰め所に連れて行かれ、羽について調べを受けたのだが――そのときに周りにいた誰かが王都へ連絡を取ったため、意外と大事になってしまったのだ。
――魔法使いの研究で使われたもので本物かどうかは分からない、というようなことを言ってはみたが、物が物なだけに、王都から魔法使いを招いて鑑定するまでレオンは牢屋に入れられることになったのだ。
「すまない」
レオンが牢に入れられるとき、クラウスはそう言った。
どうやらクラウスはレオンを牢に入れるのには反対だったらしい。
何故だかは分からないが、クラウスは単なる行商人でしかないレオンの言うことを無条件に信じている節があった。
責任を感じているのか毎日ちょくちょく会いに来ては「調子はどうか」とか「不自由はないか」とかと尋ねてくる。
これで女だったらもう少し我慢できたものを。
レオンはそんなことを考えながら壁の石を数えて暇を潰していた。
「あんたも災難だったね」
目の前の牢から声がかかる。
「あの美形の騎士さん、最近この街に来たばっかりだったのよ」
にんまりと笑うその顔は、レオンも知る街の有名人だった。
物取りの女。
行商人の露店から食べ物やその他の品を狙う、小物も小物の盗人だが、手癖の悪さは街中に知られている。独立してからもレオンは何度かこの街に行商に来ているので、この女の武勇伝はいくつも知っている。
その女がこうやって牢に入れられているのは、物取りをしているときにうっかり例の騎士クラウスに鉢合わせ、捕まったからなのだそうだ。
女は言う。
「どうやらあの騎士さんはこっちには休暇で来ているらしいね。あんな美形でも結構わけありなのよぉ? ちょっとした病気を抱えていて、治るまで帰ってくるなって言われてここに飛ばされてきたんだとか」
「……なんでそんなこと知ってるんだ?」
「だっていい男なんだもの」
捕まる前に、クラウスに関する噂を集めていたらしい。
女いわく、意外とたくさんの情報が出回っているという話だった。
「あの騎士さん、王都ではかなり有名だったみたいね? 剣の腕では一流で、鉄の鎖をすぱーっと斬っちゃったりするし、おまけに魔法まで使えるときたら、これはもう、最強よね」
「最凶の間違いじゃないか? おれたち、あいつのせいで牢に入ってるんだぞ」
「もちろん、格好いいから許しちゃうに決まってるじゃない」
女は真顔でそう言った。
まあ、クラウスはめったにお目にかかれない王都の騎士なのだ。興味を持っているのはなにもこの女だけではないのだろう。
やがて女は牢から出され、解放された。
ひらひらと牢の外から手を振る女を見てレオンはまた憂鬱になった。
この街はベリンダの縄張りの一つだということもあって、比較的治安が良い。
そのため、牢屋に入れられるのは喧嘩で人を殴って「ちょっと一日頭を冷やせ」と言われるような小物ばかりで、普段は空室が多いのだ。
しかしレオンの話し相手となっていた物取りの女は外に出されたため、今ここにいるのは一人のみ。
――レオンただ一人だけ。
貸しきり状態なわけだが、まったくもってありがたくない。
こんな田舎の街に、こんな馬鹿に立派な牢屋を作ることはないじゃないか、とレオンは思った。
ただの牢屋ではない。
牢屋には結界が張ってあり、外部から内側へも――またその逆も、魔法が通じないようになっているのだとクラウスは言っていた。
一週間も閉じ込められているというのにベリンダからまったく連絡もないのはそのせいだ。魔法が通じれば言霊を使って何か言ってくるはずだ。
「一生の不覚だ……」
レオンはまたぶつぶつと呟いた。
「おれは犯歴のない善良な商人として生きるつもりだったのに……」
ぶつぶつ。
「だいたい、毎日様子を見に来るなら女の子のほうが嬉しいし」
ミレーナのような。
一瞬、レオンの頭の中に髪を結ってやったミレーナの姿が浮かび、ぼっと顔が赤くなった。
ぶんぶんと首を振ってその考えを振り払う。
そもそもミレーナはレオンがここに捕らえられていることすら知らないのだ、ここへ来られるはずがない。
「レオン」
もし来たとしてもレオンがここから出られないことに変わりはない。レオンは脱獄などという馬鹿な真似をして無駄に罪状を増やす気はないので、おとなしく問題が片付くまで待つしかない。
「レオン」
王都からこの街へ来るのには馬でも一ヶ月はかかる。
転送の魔法を使えばはるかに早く来られるが、すでに一週間も経っていることを考えると馬で来ているのだろうな、とレオンは見当をつけていて――。
「……レオン?」
ぬっと、紫色の瞳がレオンの顔を覗いた。
ずざざっと後ずさる。
「ミ……っ!」
その瞳の色に思わずミレーナの名を呼びそうになり、レオンは両手で口を押さえて言葉を飲み込んだ。
「何をそんなに驚いている」
首を傾げつつそう尋ねた紫色の瞳の主は、毎日レオンを訪ねてきている王都の騎士クラウスだった。
ミレーナとクラウスを間違えるとは。
「なんでもありませんよ。……そちらこそおれに何の用ですか、騎士様?」
レオンが平静を装ってそう尋ねると、クラウスは「ああそうだった」と鍵の束を取り出し、レオンの入っている牢を開けた。
驚いた顔でクラウスを見上げると、クラウスは言う。
「あの羽の鑑定が済んだから君を解放しに来たんだ」
「なんだって?」
レオンは聞き返した。
うっかり言葉遣いが荒くなってしまったが、咎められなかった。
クラウスは言う。
「今日王都から鑑定士が来て、あの羽を偽物だと判断したよ。君はあれが魔法使いの研究の廃棄物だと言っていたが、正直我々の力では魔法使いの居場所を特定することはできない。よってこれ以上君をここに留めておくのは無意味だから、牢を開けていい、ということになった」
絶句。
馬鹿な、とレオンは思った。
ベリンダも本物――あるいは極めて本物に近い偽物――だと言っていたあの羽を、どうして王都から招かれた魔法使いがこうも簡単に偽物だと判断するのか。
「その魔法使いってのは本当に、王都から来た奴なのか?」
レオンは尋ねた。
クラウスが眉をひそめる。
「羽のことは王都の中央教会にしか知らせていないんだ。彼らは天使に関しては慎重だから、外部にこのことを漏らしたりはしない。しかし今日ここにやって来た使者は、きちんと事情を知っていた。――偽者のはずはない」
気を悪くしたらしい。
まあ、クラウスも最近まで王都にいて魔法も使っていたのだから、中央教会とも深い縁があるに違いない。その教会から来た魔法使いを偽者呼ばわりするということは、教会の落ち度を指摘しているのと同じことだ。クラウスにとっては不愉快だろう。
ふと。
「しかし彼が疑問を抱くのももっともですよ、クラウス」
横のほうから声がした。
レオンが声のしたほうを振り向くと、見知らぬ男が階段のところに立っていた。レオンに食事を持ってきていた兵士とは明らかに違う――法衣を着た、よく手入れされた長い金髪を持つ男だ。
「どういう意味ですかラドミール神官」
クラウスが男のほうを向いてそう言った。
男――ラドミールはふふん、と笑みを浮かべて階段から降りてきて、懐からすっと一枚の羽を取り出して言った。
「つまりこの僕が嘘をついているという意味です。そこの少年が持ってきたこの羽は、正真正銘、本物の天使の羽ですからね」
「なっ……」
ラドミールの言葉にレオンとクラウスが呆気に取られる。
それからクラウスははっと我に返り、剣の柄に手をかけて構えた。
低い声で問う。
「……中央教会の神官の名を騙っているのか?」
「ははっ。まさか。僕はあそこの神官に間違いありませんよ」
「では何故」
んー、とラドミールが首を傾げた。
じろじろとクラウスの顔を見つめる。クラウスはその視線にたじろぎ、柄に手をかけたまま後ずさった。
たっぷりと時間をかけてクラウスの顔を眺めたあと、ラドミールは言った。
「それって演技ですか?」
「は?」
「こうやって、僕の素性を知らない振りをしていることが、です」
「……は?」
困惑。
レオンにもラドミールの言っていることがよく分からない。
言葉だけを判断すると、ラドミールはクラウスの知り合いのようだが……クラウスの態度を見てみるとそういった雰囲気ではない。本気でラドミールのことを知らないような様子だ。
「ふむ」
頷く。
「まさか本当に忘れているとは」
ラドミールが言った。
「忘れてる……?」
レオンが呟く。
一緒に牢に入れられていた物取りの女は、クラウスは病気のため王都からここへ休養にきたのだと言っていた。
治るまで帰れないのだと。
「噂で言われてる病気ってのは――記憶喪失のことなのか?」
はっとクラウスがレオンを見つめる。
くるり、とラドミールもこちらを振り向いてきた。
「なかなか勘がいいですね。ええまさしくその通り。僕の計算だとクラウスは十年分の記憶を失っているはずですよ」
「どうして分かるんだ」
「クラウスが我々の仲間になったのが十年前だからです」
ラドミールはそう言った。
片手で頭を押さえて膝をつくクラウス。
呻く。
「仲間とはなんのことだ。私の記憶が失われたのは、貴様のせいなのか?」
「まさか。それはあなたの自業自得です。我々のところの決まりでは、去る者に対しては施設の記憶を一切封じることで命を見逃してやろうということになっているのです。それはあなたもきちんと了承したはずですが」
レオンはラドミールの言うことを理解した。
つまり、クラウスはかつては魔法使いとして違法な研究を行っており、ラドミールの言う施設から抜ける際に、記憶を封じられた、ということだ。
(こいつがそんなことをするような性質には見えないけど……)
レオンはクラウスを見上げてそう思った。
この一週間、クラウスと毎日なんらかの会話を交わしたレオンだが、王都の騎士というだけあって、噂に違わず誠実な人物であることはよく分かった。
その、クラウスが。
この気障ったらしいラドミールの仲間だったとは。
――どうやらクラウス自身もそんなことは信じられないらしく、先ほどから口を半開きにしたまま固まって、微動だにもしない。
半ば放心状態。
クラウスのそんな様子を見て、ラドミールがため息をつく。
「……むしろ僕には、あなたが記憶を失ったということのほうが信じられないくらいなのですけどね。――これまで一番、天使の羽に執着してきたあなたが、たかだか実験体一匹が逃げ出したくらいで我々の元を去るなんて。本気で冗談だと思っていましたよ。ですから、これは演技なのか、と尋ねたわけですが?」
「――実験体」
「ええ」
頷く。
「あなたのお気に入りの、ミレーナ・レナのことですよ。僕の美しい顔を傷つけた憎たらしい小娘でもありますけどね」
レオンとクラウスは同時にラドミールの顔を見た。
――ミレーナ?
今ラドミールからその名を聞いて、嫌な予感しかしなかった。
なにしろ人体実験も躊躇わずに行う連中なのだ。しかも今、ラドミールはその手にレオンが持ってきた天使の羽を持っていて――。
はっとレオンは気が付いた。
「つまり、要するに、すっぱりさっぱり分かりやすく言うと、――その羽が偽物だって嘘をついたのは、てめえらの研究用にお持ち帰りしたいからなんだな?」
レオンはびしっとラドミールを指差す。
ラドミールがにやりと不気味な笑みを浮かべ、レオンに向かって「本当に賢い少年ですね、君は」と言ってきた。
正解らしい。
しかし。
「……でもそれは、おれが賢いんじゃなくて、あんたがわざとおれに見抜かせるように話してるからだろう」
レオンは指摘した。
なにもわざわざ牢のところへ降りてきて、自分の鑑定は嘘でした、などとレオンにばらす必要なないのだから。
兵士たちに見つからないようにこっそりとクラウスと話すのが目的で、一介の行商人であるレオンのことなど眼中にない――というわけでもないようだ。――なにしろラドミールはここへ降りてきてから幾度かちらりとレオンに視線をやっていたから。
何か意図があるのだ。
――ラドミールの言動を考えると、単に自分の素性をひけらかしたがっているだけのようにも思えてくるが。
「おれに自分の正体をばらしてどうするつもりだ? 一応言っておくけど、おれはしがない行商人で、その羽はたまたま、偶然に、拾ったものなんだからな。脅しをかけたってこれ以上出てこないぞ」
ベリンダに泣きつけばもう一枚か二枚くらいは出してくれるかもしれないが、とは言わなかった。
レオンの言葉を聞いて、ラドミールは――。
「嫌ですねえ、こうやって教えておけば色々やれることがあるじゃないですか。……例えば、秘密を知られたからには見逃すわけにはいきませんね、一緒に来てもらいましょうか、ふははははっ! とかね?」
にっこりと笑う。
――嫌なことを聞いたな、とレオンは思った。
どういうところが目に留まったのかは分からないが、ラドミールはどうやらレオンをミレーナの代わりの実験体にするつもりらしい。
これでは鴨ねぎだ。
(冗談じゃない)
レオンは魔法使いたちのせいで過去の記憶を失っているというのに、これ以上人生を狂わされることなど、まっぴら御免だ。
「まあそういうわけですけど、どうせあなたが素直について来てくれるとは思っていませんから少し手荒な方法で黙らせることにしましょう。――クラウス、ちゃんと起きています? この少年をおとなしくさせるのを手伝ってほしいのですが。そろそろ我々のことを思い出してくれましたか?」
「……ああ」
ラドミールの言葉に、クラウスは言った。
「すべて、思い出した」
ゆらりと立ち上がって剣を抜く。
レオンはぎくりと身を強張らせる。
出入り口となっている階段にはラドミールが立っていて道が塞がれているし、レオンの入っている牢のすぐ外、手を伸ばせば届く距離にはクラウスが剣を構えている。
こうなってはクラウスに牢を開けてもらったことすら恨めしい。
鍵がかかっていれば開けるときに隙ができて、反撃の一つや二つくらいはできただろうに。
しかも二人は魔法も使える。
この牢は外から中へ――あるいは中から外へ、魔法で攻撃すると結界に拒まれて魔法が跳ね返されてしまうが、この場にいる者が牢の中を攻撃した場合は、結界の干渉はないはずだ。
あいにくレオンは魔法は得意ではない。
身を守るために一通りの魔法はベリンダから教わったのだが、レオンには才能がないらしく、魔法を発動させるのにおそらしく時間がかかるので、実用に堪える使い方はできない。
(いや、目くらまし程度ならできるか……)
この二人に――特にクラウスには――効くとは思えないが、ラドミールを説得して帰ってもらうということはできそうにない。
――他に良い方法も思いつかない。
とにかくやってみるしかないだろうと思った。
詠唱して魔法を発動させようとすれば気付かれる可能性があるので、指でこっそりと印を描いていく。
ふと、クラウスが言う。
「巻き込んですまない、レオン」
ぼそりと、レオンにだけ聞こえるように。
思わずレオンは顔を上げる。
……クラウスが苦い顔で口を結んでいるのを見た。
(ああ)
レオンは思う。
(こいつも、何か事情があって魔法使いに手を貸しているのか)
クラウスがぶつぶつと呪文を唱える。
想像した以上にクラウスは魔法が得意なようで、レオンがまだ印を完成させていないというのにクラウスのほうはすでに魔法を組み終わっていた。
しかしこれは。
この魔法は――。
――転送の魔法だ。
「騎士様、あんた――」
レオンは思わず完成させていない魔法の印を投げ出して、牢を開けてクラウスに声をかけた。
ばちばちっと結界の壊れる音がする。
ヴンッと転送陣が展開された。
「?」
違和感。
転送陣の中心がレオンから少しだけ、離れている。レオンが動いたために失敗したのかとも思ったが、どうも元いた位置とも違う。
一瞬ののち。
転送陣から人が出てきて、その人物にがっしりと手をつかまれた。
これはクラウスの魔法ではない。
何故ならば、転送の魔法は発動者側から指定位置に対象物を送り込むことはできても、指定位置から何かを呼び出すことはできないからだ。
それに。
――転送陣から出てきたのは、ミレーナだったから。
「ミレーナ――っ!」
レオン、クラウス、ラドミールの三人が同時に声を上げた。
ラドミールがミレーナを指差して叫ぶ。
「生きていたのですか、この大罪人ッ!」
「大罪人?」
「あなたは美しいこの僕の顔を魔法で傷つけたでしょう! これは大いなる罪ですっ。僕はあなたを絶対に許しませんよ、ミレーナ!」
「……わざとじゃないもん」
「きぃいいいいーっ、むかつく小娘め……!」
唇をかんで地団太を踏むラドミール。
なにやら罵詈雑言を並べてミレーナを罵り始める。
「逃げよう、レオン」
ミレーナがレオンの腕を引っ張った。
「――ミレーナ!」
クラウスが叫ぶ。
くるりとミレーナはクラウスを仰ぎ見た。
紫色の瞳。
ミレーナの顔を見て、クラウスがほっとしたように呟く。
「良かった、生きていたんだな。良かった……」
その様子を見る限りでは、クラウスがミレーナを単なるお気に入りとして見ているようには見えない。
なにか特別な、もっと大切なものを見るような。
ミレーナはクラウスに話しかけようとしたようだったが、、横から何かが飛んできたため、口を開きかけたところでそれに遮られてしまった。
鋭い石片が床に転がる。
ラドミールが魔法で飛ばしてきたらしい。
「逃がしませんよ、ミレーナ・レナ。それからクラウス、手伝う気がないのならそこをどいていただけませんか。僕の邪魔をするというのならあなたとて容赦しませんよ」
「ラドミール、私は――」
クラウスは言いかけたが。
ぼっとミレーナのほうから火の玉が飛んでいき、ラドミールの真横の壁にぶつかって弾けた。
続いてもう一撃。
「あっ……危ないじゃないですかっ! 何をするのです!」
「いや、邪魔だなと思って」
さらにミレーナがラドミールに向かって魔法を放つ。
壁の一部が崩れる。
ラドミールは慌ててそれを避ける。
「――『来て』」
ミレーナが指差して言った。
ゆらっとラドミールがおかしな動きを見せた。
――いや、違う。
レオンは、ラドミールの法衣の首もとの部分が、ぐいっとラドミールの身体を引っ張って不自然にこちらに引き寄せられたのを見た。
「うわっ、わっ、わぁああああっ」
びったーん、とラドミールが真正面から床に突っ込んだ。
痛そうだ。
「よっし、隙あり」
ミレーナがぐっとこぶしを握ってそう言った。
……レオンはミレーナに手を引かれてラドミールの横をすり抜ける。
「もぉおおお許しませんよっ……!」
呻き声を上げつつ起き上がったラドミールはすぐさまレオンとミレーナに向かってまた魔法を放ったが、痛みのためか、魔法は見当違いのところへ当たったようだった。
もう一度。
今度はレオンの近くの壁をえぐった。
そして三度目。
――しかし今度は、ラドミールの放った魔法は結界の残滓に阻まれてか、二人に届く前に火花を散らせて消えてしまった。
うしろのほうできーっ卑怯者、とか、待ちなさい、とかとラドミールが叫んでいたが、レオンとミレーナは振り返らずに階段を登り、牢をあとにした。
「なんだ君たちは? ここは子供が遊んでいい場所では――」
「すみませんすぐに出ます!」
見張りとして居残っていたのであろう兵士に見咎められたが、レオンは適当に返事をしておいた。
幸いなことに、レオンが牢に入れられていたことを知っている兵士とは鉢合わせなかった。
牢に入れられたときに取り上げられた荷物を探したいところだが――。
「お待ちなさいミレーナァアッ!」
……ラドミールの怒りの声が迫っていたので、あきらめるしかなさそうだった。
ひゅんひゅんと刃物のように尖った石が飛んでくる。
「し、神官様! どうなさいましたかっ」
「どうしたもこうしたもありませんよ、あなたがたは非常に邪魔です、そこをお退きなさい!」
「ちょ、えええええっ」
どうやら止めに入った兵士にまで危害を加えているらしい。
兵舎は騒然とし始めてきた。
出口。
木の扉を押し開けて外に出ると、上から声が降ってきた。
「レオン!」
見上げると、何か重いものがレオン目掛けて落下してきた。
「うわわっ……!」
とっさに受け止め、それがなんであるかを確認した。
取り上げられていたレオンの荷物だ。
羽もきちんと入っているらしい。
「ミレーナを頼む!」
二階の窓から顔を出している人物――クラウスは、レオンに向かって叫んだ。
「どうか、ミレーナを王都へ……、大神官の元へ!」
「大神官?」
中央教会で一番偉い――もっとも天使に近いと噂される人物だ。
しかし、中央教会といえばラドミールもそこから来ているわけで、いまいち信用できないような気もしないではないが――。
ミレーナがレオンの前に出る。
すっと息を吸って。
「了解ですよおとーさん、行ってみるよ」
言った。
レオンはぎょっとしてミレーナを見た。
「おとっ、お……、お父さん……っ?」
確かにレオンも、先ほどはクラウスの瞳を見て一瞬だけミレーナと勘違いしたりもしたが。
(いや、まさか。本物の親なわけがない)
レオンはそう思った。
紫色の瞳は珍しい色ではあるが、まったく見かけないわけではないのだ。
それに、なにしろ自分のいた施設を「家」と称するミレーナのことだ。クラウスも、施設での育ての親とかそういったものなのだろう。
クラウスもミレーナのことを大事にしている様子だし、強く訂正できなかったのに違いない。クラウスの性格からすれば、本当にクラウスがミレーナの本物の親であるならば、ミレーナを魔法使いの実験の道具にしたりするはずがないだろうし――。
ドォオオンッ!
轟音。
どうやらラドミールが暴れているらしい。
「行こう、レオン」
ミレーナがまたレオンの手を握る。
その顔を見ていると、レオンの頭からすっと雑念が消えていって、まあなんとかなるような気がしてきた。
「――ああ、行こうか。ミレーナ」
レオンは頷いてそう言った。