序章
天使化計画
序章
その日は何かが起こるだろうと予感がしていた。
遠くにかすかな足音と話し声を聞いて、ミレーナは彼らが自分を処分しに来たのだと分かった。
じゃら……と首枷の鎖を揺らして顔を上げ、冷たい部屋の扉を見上げる。
――ミレーナ・レナ。
白く長い髪に、深い紫の瞳。
幼さが残る顔立ちは人形のように整っていて美しいが、ボロボロになった白い服の破れ目には二つの傷跡が覗いている。
背中のほうの――ちょうど肩甲骨のあたりだ。
実験体として飼われているミレーナは失敗作だった。
天使化計画。
大昔、神は天使を地上に遣わして人に魔法を授けたという。
地上に留まった天使たちは人々を統べた。
争いのない平和な時代。長らく続いたその時代は、しかし天使たちが死に絶えたことによって終わりを迎えた。人よりもずっと長くを生きる天使だが、寿命はもちろんあって、天命には抗えなかった。
天使たちの死後、世界は乱れた。争いの末にいくつかの大国ができたが、天使たちの統治に比べればままごとのようなもの。
人々は天使を焦がれている。
――その天使を復活させようというのがこの計画。
最後の天使が死んでから数百年が経つが、天使たちの羽は神体として各地に祀られていた。この羽には力が宿っており、触れている物にも力が移ることが分かっている。また、そうやって聖具となった物には羽の力を増幅させる力があることも。
羽を人の身体に移植すれば天使が作れるのではないか?
この計画はとある大魔法使いが抱いたそんな考えを具現化したものだ。
もちろん大っぴらに試すことはできない。どこの国でも戦争以外で魔法で人を傷つけることは禁止されているのだから。
深く、深く。
人目に付かない僻地で、一部の魔法使いたちはこっそりと、この実験を行っていた。
実際、羽を移植された実験体には翼らしきものが生えた。外観は天使と呼べなくもない姿になった。……たいていの実験体は移植されてから数週間ほどで巨大な魔力に耐え切れなくなって死んでしまうのだが。
ミレーナもそうやって天使の羽の移植を受けた実験体の一人だった。
ここに閉じ込められて、かれこれ十年が経つ。
それほど長い間ここにいるのは、ここ最近まで移植を受けていなかったから――ではなく、ミレーナは、移植を受けても羽が脱落してしまうからだった。かれこれ七、八回の移植を受けているが、羽の定着も魔力の変化もない。
「……ラドミール! 待ってくれ、ミレーナの担当は私だ! 私はまだミレーナを手放す気など――」
「ですから、甘いと言っているのです、あなたは。ミレーナに初めて天使の羽を移植してから八年が経つのですよ? ここまで変化がないのでは先は見えたも同然でしょう? あの小娘はいくらか魔法も使えるようですから、抵抗されないうちに殺しておいたほうがいいのです。つい二週間前も、ミレーナの魔法のせいで僕は顔に怪我を負わされたのですよ!」
会話が部屋の中まで聞こえてきた。もう近くまで来ているらしい。
ミレーナは物心付く前にここに連れて来られたため、ここで飼われていることも、羽の移植を受けることもあまり気にしていない。
うっかり人を傷つけてしまったのは悪意からではない。ここの施設の魔法使いが使っていた魔法にとても興味を引かれ、自分も使ってみたいと思いったのだが、制御も何も行わないまま魔法を放ってしまったため、惨事となったわけだ。抵抗したわけではない。
しかし、そんなことを言っても信じてはもらえないだろうな、とミレーナは思った。
――ここから逃げなければならないな、とも。
飼われているのは構わないが、殺されるのはごめんだ。
「ところで、本当に眠っているんですか」
「それは――。例の暗殺者のあの者が、食事に眠り薬を混ぜたらしいから――」
「そうですか。では部屋に入ったら全力で攻撃します」
「ラドミール――」
どうやって逃げるか。
ミレーナは考えて、考えて……ふと思い出した。
以前に何度か、物質を転送する魔法を見たことがある。本来は数人の魔法使いが魔方陣を組んで発動させる大掛かりな魔法だが、今のミレーナにはやってのけられる気がした。
がちゃっと、扉の取っ手を押し下げる音がした。
「――『止まって』」
ミレーナは命じた。
扉が少し開いたところで止まる。
「……! ミレーナ……ッ!」
部屋の外で声が上がる。がちゃがちゃと金属音がするのは、ミレーナのせいで動かなくなった扉を強引に押し開けようと試みているためらしかった。
「退いてください、魔法で扉を吹き飛ばします!」
外でぶつぶつと呪文を唱える声が聞こえる。
その隙にミレーナは魔方陣を展開した。
ヴンッと少し耳障りな音がして、緑色の光が部屋に溢れた。
「まずい、ラドミール、止めろ!」
「止めろって、今それをしようとしているのですよ――」
「違う、詠唱を止めろと言っているんだっ。障壁を張れ、巻き込まれるぞっ」
ごぉっと風が渦巻いた。
ミレーナは呪文を唱えながらふと、座標をどうしようかと思った。
なにしろずっとこの施設で暮らしてきたのだ。外の世界のことなどほとんど何も知らない。――飛んだ先が海の中だったりしたら嫌だな、とミレーナは思った。施設の実験室の一つに小さな水泳場があるが、ミレーナはそこで溺れかけたことがあった。
ばんっ。
扉が風で開いた。
転送の魔法に集中していたため、先ほどの命令が解けてしまったらしい。
部屋の外の二人と目が合った。
「ミレーナ……!」
その姿を認めると、一人がすかさずミレーナに向けて魔法を放つ構えをした。こちらはラドミール。
もう一人は――。
昔はよくミレーナの遊び相手になってくれた者だ。この施設の中で、唯一の味方。――その人物が、驚いたように目を見開いて、こちらを見ていた。
まさかミレーナがこんなふうに逃げ出すとは思わなかったのだろう。しかしむざむざとおとなしく殺されてやるわけにはいかない。
素早く座標を決めた。
神任せ。
あとは自分の運にかけるしかない。
「ミレーナ!」
ラドミールも呪文を唱える。
「やめろっ、暴発させるつもりか!」
もう一人が止めに入り、ミレーナに向けていた腕をひねり上げた。本来は数人で構築する魔方陣をミレーナ一人で組み上げているのだ、今ミレーナに攻撃すれば魔法が暴走して施設ごと吹き飛ぶところだった。
キィィンッ。
甲高い音がして、光が増す。
――転送陣が完成した。
ミレーナはもう一度二人を見る。
「ごめんね」
お世話になりました。
心の中でそっとそう呟いて、ミレーナは――、飛んだ。
***
アヘル王国――その山中を、レオンは歩いていた。
(今夜は野宿することになりそうだな)
沈み行く夕日を見つめながら、そう思った。
レオンは各地を行商して回っているのだが、今日は道中でうっかり薬草の群叢を見つけてしまい、夢中になっているうちにこんな時間になってしまっていた。次の街まではまだ長いので、歩いても夜までにたどり着くことは難しい。
「だから山に入るのはまずいと思ったんだよなあ……」
レオンはそうひとりごちて寝床になりそうな場所を探し始めた。
こんなふうに山の中で売り物になりそうなものを見つけて野宿する羽目になるのは、なにも今回が初めてというわけではない。レオンは野生の勘のようなものが働くらしく、ありがたいのだか迷惑なのだかよく分からない目によく遭う。
「こんな日は夜中に雨が降ったりなんかするから、注意しなくちゃ――」
レオンはそう言って空を見上げ――。
「……な」
固まった。
呆気にとられ、口をぱくぱくさせる。
――宙に転送陣が展開されていた。
ただの転送陣ならばそう珍しいものではない。魔法使いというものは総じて面倒くさがりな連中が多いらしく、研究に使ったあとの不要物などを、転送陣を使って廃棄することがままあるから。この廃棄物は他の魔法使いにとってはお宝になることがあるらしく、レオンの知り合いにもそうやって一儲けした者がいる。
しかしそれは、地上に現れるのが普通だ。
こうやって空中に転送陣が組まれた例など見たことがない。
(まさか非常ぉーに危ない合成魔獣が飛び出してくるとかじゃないだろうな)
廃棄されるのはなにも無機物ばかりではない。転送陣からドラゴンが出てきて街が一つ滅んだなどという話はよく聞くことだ。
わざわざこうやって空中に組まれているということは、獰猛な鳥かなにかが飛び出してくるのではないのか。――レオンはそう疑った。
しかし、ともかくここから離れたほうがいいことは確かなようだ。
なにしろレオンのいる場所は転送陣の真下だったのだから。何が出てくるにせよ、ここにいれば廃棄物の下敷きだ。
キィィンッ。
――空気を切り裂くような音がした。
転送陣の中心からゆっくりと何か黒いものが現れる。かなり巨大な構造物。
いや、正確には構造物の一部と言ったほうがいいだろう。建物の一角をえぐって切り出したような壁のかたまり。
それが、転送陣から出きった瞬間、「そういえば重力なんてやつがあったっけな」とでもいうかのように、突然に、レオンに向かって――落ちてきた。
「のわぁあああああっ」
降ってくる石材を必死に避けながら逃げ惑う。
ぼとぼとと雨のように落ちてくるそれは、空中に転送されたためか崩れて破砕されているようだ。しかし一つ一つの断片は人の胴体ほどの大きさがあるので、もちろん当たれば危険だ。
建物ごと降ってきてその下敷きになるよりはましだとは思うが、……しかし。
(いつまで降り続くんだこれはっ)
レオンはそう思った。
落下物を避けつつ空を見上げる。
これほどまで大掛かりな魔方陣で、しかもこの量の転送。
転送が止まる気配がなければ、転送陣の領域から出たほうが早い。だから魔方陣の範囲を確認しようと思ったのだが――。
レオンはまた転送陣を見つめて、ぎょっとした。
外側に向かって走りだそうとしていたレオンは、自分見ているものが信じられず、思わず立ち止まる。
どうやら建物の壁はもう落ちて来ないようだったが。
――明らかに。
人らしきものが。
転送陣から出て――。
「……あ?」
その真下に立っていたレオンに向かって、落ちてきた。
(よ、避けないと……っ、いや、これって人だろ? 助けなかったら、おれ、人殺しになるんじゃ……!)
どうすればいいのか分からずに戸惑うレオン。
しかし転送陣は結構な高さに展開している。崩れた壁の石材よりは軽いとはいえ、魔法使いでもないレオンに人一人分の重さを受け止められるわけもなく、無理をすれば共倒れになってしまう。
見捨てよう。
そう決心して、レオンはその人物に向かって叫んだ。
「ごめん! おれ、助けられそうにない!」
ふと。
ぱちっとその人物が目を開いて、レオンのほうに顔を向けた。
紫色の瞳だった。
「レ……」
その人物が呟く。
「……オ、ン……?」
「え?」
風に流されて聞こえづらかったが、確かに、その人物がレオンの名を言ったのを聞いた気がした。
その言葉に、レオンはまた動きを止める。
見れば、まだあどけなさの残る少女だ。おそらくはレオンと同じくらいの年齢の、銀髪の少女。
可愛い。
しかも、レオンの好みの顔だった。
一瞬ぽっと顔を赤く染めてからふと我に返る。
(って、しまった)
うっかり気をとられて逃げ遅れてしまった。
レオンはその人物の顔を間近に見た。
どうせ逃げても間に合わないので、一か八か、助かる可能性にかけてその少女に手を伸ばす。
その少女は。
レオンのほうに手を伸ばして――。
ぱっと、大空に純白の翼を広げた。
驚きに目を見開いているレオンをよそに、少女の身体はふわりと風を受け、レオンの腕の中にすっぽりと納まった。




