儚咎
今から幾千もの夜を隔てた古のお話です。王都から遠く離れた沙漠のオアシスにハーブという小さな町がありました。小さな町でしたが、周りで様々な薬草が採れるのでキャラバン(隊商)の鈴の音が絶える日のないほど重要な交易所になっていました。
そこにスウが住んでいました。彼女は町に3つしかない薬屋の娘です。一人娘のスウは薬屋を継ぐために薬師になろうと思っていました。薬師になるには特別な勉強が必要でした。ハーブの町には学校はありません。それで町の子供達は神殿で、神官に勉強を教えてもらうことになっていました。
スウに薬草学を教えていたのは、ウィステリアという、正神官になって間もない若い神官でした。
その夜、スウは軽い興奮で寝付かれずにいました。一体何があったのでしょう。実は、ウィステリアさんに初めて名前を呼んでもらえたのです。スウは薬草学以外に、天文学と歴史を習っていたのですが、今まで名前を呼んでもらえたのは天文学を教えてくれる女神官のライラだけだったからです。何故かというと一緒に習う人の数が多いうえに、スウは集団の中に入ると埋もれてしまうような子だったからです。だから、名前を呼んでもらえたのが嬉しかったのです。
「この分だと明日の調合師の試験も簡単に受かりそう」
スウはくすっと笑って毛布を被りました。調合師というのは、薬師の指示で薬草を調合する仕事で薬師への道の第一歩なのです。
それでもはす向いの酒場の灯がおちる頃にはすっかり眠りの女神の腕に抱かれたようです。町も夜風がかき鳴らすライアー(竪琴)の静かな調べに耳を傾けているようでした。
突如その静けさを恐ろしい獣の咆哮が切り裂きました。一瞬にして町中が目を覚ましました。けれどもその吼え声はあまりにも恐ろしく人々は体を動かすことができずに毛布の下で震えていました。
声の主は神殿の方から町の門の方へ移動しているようでした。声が通り過ぎていった後に人々は神官戦士達の怒号を聞きました。
「魔獣だ! 魔獣が出たぞ!」
「莫迦な、魔獣は魔界の獣だぞ! 招喚なしでこの世界に現れる筈が……」
「誰かが招喚したんだッ」
「我々神官の中に禁を犯して魔獣を招喚した者のがいるというのか!」
スウの耳には今まさに追いつめられた魔獣と神官戦士の声が聞こえてきました。神官戦士達は呪文を唱えています。魔獣を在るべき世界に還す呪文です。
刹那、スウは窓が破られる音を聞きました。スウは見ました。
……闇の中で爛々と紅く輝く双眸と光る牙をもつ獣――魔獣を。
「助けて!」
そのスウの叫びは音にはなりませんでした。
その時、神官戦士達は初めて追いつめた魔獣がスウの部屋に飛び込んだことを知ったようでした。
魔獣は暫くスウを睨んでいましたが一際大きく吼えると飛びかかってきました。その時、神官戦士達が部屋の扉を開けたのです。しかし間に合いません。スウは無我夢中で何かを手につかみ、魔獣に投げつけました。それは粉々に砕け、魔獣は中に入っていた液体を浴びました。
すると不思議なことに魔獣はとけてしまったのです。スウと神官戦士達は真夏の陽を浴びた氷のように融けていく魔獣を惘然として見つめていました。
こうしてハーブの町の魔獣騒ぎは終りました。後から調べるとスウが魔獣に投げつけたものは薬を調合する時に使う聖水を入れる水差だったことが判りました。魔獣を招喚した神官はその夜のうち罪人として王都へ護送されていきました。
町に静けさが戻りました。けれどもスウは胸の中に嵐を抱えていました。スウは調合師になれなかったのです。それは試験に受からなかったからではありません。試験は行われなかったのです――試験官であるウィステリア神官がいなかったからです。魔獣を招喚した神官というのは、他でもなくウィステリア神官でした。
スウは沙漠の砂嵐の中の旅人のようなものでした。自分が何処にいるのかも、そして、何処へ行くのかもスウには見えませんでした。
それでも、スウは神殿へ出かけました。その道程だけでも、スウの耳にウィステリア神官の様々な醜聞が入ってきます。平和な小さな町で起った魔獣騒ぎは確かに人々を熱狂させました。でも、スウの中にはそんな人々への怒りだけがつのっていくのです。
そして、それは、歴史の時間に爆発しました。隣りの子がスウにこう囁いたのです。
「あの人ね、女の人に『みついで』いたんだって、そしてお金が足りなくなって、お金をかりていた人を魔獣で……」
スウは自分の中で何かが弾けるのを感じました。
「無責任な噂で人を傷つけるのはやめて!!」
気がつくとスウは神殿の裏の丘に座りこんでいました。砂の感触が掌に優しく、見上げた空はこの上なく澄みきっていました。
ふとスウの瞳から涙が零れました。スウは左手でふきとりました。すると次々に涙が零れ落ち、そしてそれは留処なく流れました。
「どうかしたの?」
誰かがスウに声をかけました。見ると、女神官のライラでした。
「私、もう、薬師になれないかもしれない、薬草学の本をめくろうとするだけで、涙がとまらなくて……」
スウはライラに抱きつき、ライラはスウの背中を優しくなでました。
「ねえ、スウ、私と一緒に、都に行ってみない?」
「……」
スウは黙っていました。ライラは続けます。
「私、今回の事件の報告書を都の大神殿に届けるよう、神官長様に言われているの。その時、スウも行こう。薬師が駄目なら神官になりなさい。あなたにはその素質があるわ」
ライラはスウを真直ぐに見つめます。
「あなたが魔獣に投げた水差の水、あれは聖水じゃなかったの。魔獣を追い払ったのは、あなた自身の力だったのよ」
スウはぶるっと震えました。ライラはそれに気づきませんでした。
「明日の朝、発つから、その気なら用意をして、町の外門の所に来て」
そういうとライラは仕事があるから、と行ってしまいました。
スウはただ、膝をかかえて、流れる雲を眺めていました。
明くる朝、ライラは町の門に人影を見ました。スウでした。
スウはライラを見ると走ってきて、息を弾ませながら言いました。
「ライラさん、私決めたわ。都へは行かない。私、やっぱり薬師になりたいから!」
その時、太陽は今日最初の光をスウに投げかけました。
FIN