願い事
まだ使っていなかった願い事は
君のために
三学期が始まった。無事に退院した千歳と変わらず登校する勇也。発作の件で更に絆を深くした二人は周りが憧れるほどお似合いのカップルとして噂の的となった。
冷え込む一月の風は千歳の身体には悪いと思い、勇也は持参してきたコートを彼女に羽織らせた。少し戸惑いながらもその行為に微笑む。
「三学期か……。入院していたからかあんま実感ねぇな」
「そうだねぇ。面白い行事なんかないし。ねぇ、今度学校デートしない?」
「お前、何でもかんでもデートってつければ気が済むのか?」
「勇也と一緒なら何でもデートなんでしょ?私は学校でちょっと違う気分を味わってみたいの。だめ?」
自分と二人きりでいたいという彼女の言葉を拒否する理由は何もない。勇也は苦笑に似た表情を千歳に向けて、返事の代わりに溜め息をついた。
「お前には敵わないな」
「彼女に勝とうなんて百年早いよ、勇也。じゃぁ、今日の放課後待ってるから」
「って、今日かよっ!」
当たり前でしょと叫ぶ彼女を遠目に、更に溜め息を一つ。最近彼女はこういったわがままを何度か言う。前にもないとは言い切れないが、明らかに増えてきている。
それに思いあたるフシを考えて、目を細める。病気を知った彼は少からず彼女の行動に敏感になっていく。
「デート………か。それよりも何よりも大切なものがあるだろう?」
小さく放った言葉は誰の耳にも届くことはなく、ただ彼の心に響いただけだった。
放課後、千歳の教室に顔を出した勇也は流れ出てくる生徒を見すごして、彼女を探す。教室の角の席に腰をかけた千歳はぼーっと黒板を眺めている。誰もそれに気に止める者はいなく、全員すぐに教室から消えてしまった。
勇也の存在に気付いていないのか、千歳は未だにぴくりとも動かない。
「学校なんて……上辺だけの馴れ合いしかないんだね」
何を思ってか、淋しそうに言った自分の言葉に自嘲した。綺麗な長いまつげを揺らして、目を閉じる。頭の中に何を思い浮かべているのか、それは勇也にもわからない。うっすらと滲み出る涙はそのまま頬を伝い、膝に落ちる。
「上辺じゃない扱いをしてくれたのは………勇也だけだった」
思いがけないことに目を見開く。ゆっくりと開かれた彼女の瞳は不安そうに揺れて、溜まっている涙を落とす。
「大切な者を、見つけなければよかった」
あの時屋上で二人が会わなければ一体どのような人生を送っていたのか。そんな仮想を考えてもわかりはしない。だが、一つだけ言えるのは『愛』と言う感情を互いに持つことはなかったということだ。
勇也は音も立てずに教室に入る。それに気付いてか、彼女の瞳はまた閉じられる。
「そうすれば、哀しむことも苦しむことも、いざという時…ないのに」
「じゃぁ、千歳は俺に会いたくなかったのか?」
濡れた頬を指で拭う勇也。少しだけ顔を上げて、彼女は首を振る。
「会えてよかった。勇也がいなかったら私、夢を持つことなんてできなかったから」
「なら、何でそんな哀しいこと言うんだ?」
濡れたまつげを上げて、じっと彼を見つめる。同じくらい哀しそうな表情を向ける勇也は瞬きもせず見返す。
頬から伝わる体温は彼女には心地好くて。
感じる視線は身体を火照らせた。
「ごめんなさい。頑張るって約束したばっかなのに…。いつも、弱気になるの」
「なればいい。不安なら泣いて、辛いなら愚痴吐いて、悔しいなら怒鳴り散らせばいい。千歳は今まで強敵を前に一人で強がっていた。だけど、今は俺がいる。一人じゃないんだ。だから、強がることないし、一人で泣く必要もない。全て俺にぶつければいい」
「そんなことできない。勇也は悪くないもん。私の苛立ちに付き合う必要なんかない」
視線をそらす彼女に嘆息を漏らして、彼女の熱い顔を上に向かせた。そらされていた視線は不意に合って、彼女の動きを止めさせた。唇に感じた柔らかくて、温かなものはすぐに離れて。次見た時は千歳の顔は真っ赤。
「じゃぁ、先に退院した俺が持つ特権である願い事。気持ちが楽になるなら関係がなくても俺に全てぶつけること。いいか?」
「どうして…」
「俺は千歳の笑顔が見れれば幸せになれるから」
ささやかれた言葉は彼女の心臓を鳴らした。新たに頬を伝う涙は今度は哀しみのものではなく、喜びに彩られた綺麗な水。勇也が感じていたもの。それはいつ訪れるかわからない死に対しての拭いきれない彼女の不安。わがままは思い出を増やすため。その行動の意味を正確に読み取って彼はまた彼女の心を救う。
「ありがとう」
どうしても守りたいものは
それは、僕の大切な
彼女です
十話目です。いつの間にここまで書いたのですね。一話一話が短いのであっという間な感じがします。
そろそろ後半にさしかかりたいと思います。二人の行く末をどうか見守って下さい。
三亜野雪子