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駅前の塾は今流行りの個別指導の塾らしかった。小学生から高校生まで幅広い年齢層の生徒がばらばらと出入りしているそこを、卓哉は少し離れたところから見守っている。
一度家に帰ってから卓哉はネオン煌めく駅前へとやって来て、ミナちゃんなる人物がいつ出て来るか、と先程からそこに立っていた。個別指導なのならもしかしたら今日はいないかもしれなかったが、いるかもしれないと思うといても立ってもいられなかったのだ。
職はすぐになくしてしまうだろうが、とりあえず社会人として責任は取らなければ。そう戦地に赴く軍人か何かのような悲壮な面持ちで塾の入口を睨む卓哉に、 奇異の視線を向ける者もいないでもなかったが、忙しなく歩き去る大抵の都会人は有り難いことに卓哉の存在を大して気に留めていないようだった。
ここに立ってから一時間余り。考えれば考えるほど緊張や何やら、筆舌に尽くし難い思いに襲われて、卓哉は無意識に懐を探った。緊張から震える指先で何とかタバコを一本取り出して慣れた仕種で火をつけたところで、親しみを込めて卓哉の名を呼ぶ声がした。
「あれ? 卓哉君じゃない」
その声に卓哉が声の主を見れば、ぎょっとする。片手を小さく振って、すぐ傍にあの女性がいた。卓哉を見上げて来る顔に浮かんでいるのは極々穏やかな表情で、まさに知人を見かけたから声を掛けただけらしい。
ミナは白のブラウスに黒のジャケットとスカートという出で立ちで、見上げて来る顔立ちは薄く化粧をしているのも相俟って記憶より多少大人びて見えた。
「メアド教えたのに。直接会いに来てくれたんだ?」
どうやら携帯にミナの連絡先が登録されていたらしいと知り、卓哉は苦笑した。二日間全くそのことに思い当たりもしなかった自分がどれだけ混乱していたかを思い知った自嘲の笑みだ。
「ってか先に帰っちゃったから脈がないのかと思っ、卓哉君?」
ミナを正面から見た途端、卓哉は口の中が渇いたのを感じた。相当自分は緊張しているようだと思いながらミナの左手を取るとミナは卓哉の名を呼ぶ。
「その……だな」
「うん?」
「――俺は金曜すごい酔ってて、酔った勢いという奴で君に手を出してしまい、だからといって覚えてないのは理由にならないと思うし……その、まだ子供の君にとんでもないことをしてしまった責任はきちんと取ろうと思う」
話を聞いていたミナの表情が段々訝しげなそれに変わっていくのを見て、卓哉はミナが何か言う前にと早口でまくし立てた。
「俺は多分仕事を懲戒免職とかにされると思うが、最悪バイトだろうがやって何とか君を養って行けるだけの努力をしようと思う」
そして卓哉は勢いよく頭を下げた。
「だから結婚を前提にお付き合いをさせてもらえないだろうか」
しん、と静まり返る空気に、卓哉は恐々とした。何も言い出さないミナが心中でどう思っているのか分からないことがこれほど恐ろしい。
ややあってから、ミナがぽつりと感情のない声で言った。
「そっか、忘れちゃったんだ? そっかそっか」
その声に卓哉はそら恐ろしさを覚えたが、その前にミナがにこりと笑った。満面の笑みには先程までの怒りなどかけらも見えず、それがまた妙に恐ろしい。
「いいよ、結婚しても。酒の失敗しないでくれるのなら。学生結婚とかって憧れるし」
酒の失敗の辺りが妙に刺々しいのは卓哉の気のせいではないだろう。その辺りは卓哉も頭を下げて反省の意を示すしかない。
そこでミナが一息区切った。
「ただ、」
何か言いさしたミナの言葉を、しかし遮るようにいくつもの声がミナに掛けられる。近所の中学の制服姿がいくつもミナの背を抜き様声を掛けていく。
「あれ、ミナちゃんじゃん!」
「ミナちゃんさよならー」
「あれ、ミナちゃん彼氏とデート?」
「あんた達ねぇ、先生ってつけなさい。あと人の私生活詮索する暇があったら勉強しろー」
そんな彼等の背中にミナが声を投げ掛ける。返された返事だけは優等生だったが、その声に全くミナの言い付けを守る気がないことは明白だった。
「はーいミナちゃん先生」
一連のやり取りをつい呆然と見つめていた卓哉に、ミナは振り返ると悪戯っぽく笑う。
「私、卓哉君が思っているより年上なんだけどいいかな?」