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不思議だ、と敏樹は思った。麻衣と話しているとそんなことを今まで思ったこともなかったのに、この故郷が愛おしく思えてくる。
しかも話の相手が、この故郷をよく知る老人らなどではなく、自分と同年代の少女。ここに住んでいるのだからこの町をよく知っているという意味では適切な相手だが、若い人間にはどちらかというと文化を軽んじる傾向があるので、敏樹は妙におかしかったのだ。
勿論、他人の考えていることが分かるはずもなく、何故笑われたのか分からないままそんな敏樹を不思議そうに見ている麻衣に、敏樹は手を差し出した。その敏樹の仕草に、またも麻衣は首を傾げる。傾いた首の角度が急になって、それすらも敏樹には面白く感じられた。
麻衣の一言一言が、否、麻衣の一挙手一投足が既に敏樹の意識の全てを絡め取ろうとでもしているかのように、敏樹の興味を惹いてやまない。
「?」
「メアド、教えてほしいな」
女嫌いな敏樹であるが、興味がさらさらないわけではない。年頃なだけにそれなりに関心はある。そして今まで話したことから思うに、麻衣なら女子でも普通に話して行けそうな気がしたのだ。
敏樹は麻衣から下される判断を今か今かと待った。
だが。
「あ、そういうのはお断りで」
麻衣のにこやかな笑顔に、敏樹は人生初のナンパが失敗に終わったことを知った。
家の前の坂を上がり、角をいくつも曲がる。そこまで歩く間にも首筋を流れるように汗が伝うが、そんなことは麻衣には気にならなかった。いつものことだ。
やがて駅が近くなり観光名所として有名なこの町にやってきた観光客とおぼしき人間の姿がちらほら見え始める。
地元の人間はそれが観光客かそうでないか、何となく嗅ぎ取ることが出来る。纏う空気の違いだろう、麻衣も擦れ違う人間の放つ空気で彼女らが他所から来たことを感じ取った。
ふと麻衣は昨日出会った青年を思い出した。ふらふらと近所を目的もなくさ迷っていれば、見覚えがない、しかし地元の雰囲気に溶け込んだ青年に声をかけられ たのだ。女性二人に囲まれて迷惑そうな顔をしているところから見るに、麻衣に待ち合わせをしていた友人か何かの振りをしてほしいらしいのを知る。
麻衣の苗字を呼び、そして観光客とは違った雰囲気を放つ青年に、小学校か何かの同級生だったかもしれない、と適当に当たりをつけて麻衣は近づいた。女性二人も麻衣を彼女か何かと勘違いしてくれたようでさっさと離れて行き、二人だけが残された。
そこで麻衣は青年と話し、そして青年が麻衣を妹と勘違いしていたことを知ったのだ。やはり知らない人だったか、と自分の記憶違いでなかったことに少しの安堵を覚えながら、佐々木敏樹という名の彼につい妹のことについて詳しく聞いてしまった。
話しているうちに好意をもたれたかアドレスを聞かれたが、麻衣はそれを拒絶した。妹のことを聞きたくてあれこれ話したが、麻衣自身は敏樹には悪いが興味がなかった。
実際昨日あれだけ話したというのに、麻衣の脳裏でいくら頑張っても佐々木敏樹という青年は朧げにしか思い描けない。髪は黒くて、眼鏡や何やらはしていなかったはず。
背は高くて、目鼻立ちは確か……そうそう、あそこに立っている人のような感じだったような。
そこで視界に入った男性の姿にうんうん、と頷こうとした麻衣は直後目を丸くした。昨日出会った妹の同級生だという青年がそこに立っていたのだから驚かないはずがない。だというのに青年は少しもそんな様子は見せず、寧ろ麻衣を見てほ、とした表情さえ浮かべている。
「よかった、早速会えた」
その言葉に麻衣は嫌な予感がした。主に敏樹が発した早速、のあたりにだ。
まさか麻衣が通るのを待っていたりしたのでは。いつ通るのか分からない相手に対してするだけ無駄な行為の気もするが、しかし全くないとも言い切れない。
麻衣は地元の人間なのだから、行動範囲はこの辺りからあまり離れない。数日張っていれば会う確率は高いだろうという予測は簡単に立てられるはずだ。実際に実行するのは余り考えにくいが。
「昨日の俺の何が悪かったのかよく分からないけど、初めて素敵だと思えた女の子を簡単に諦めたくないんだ」
続いた敏樹の言葉は、麻衣の中に生まれた疑惑を打ち消してくれるものではない。
「そうなんだ、あははは……」
突如存在を主張しだした頭の痛みを払拭すべく、麻衣にはただ渇いた笑いを漏らすことしか出来なかった。もうこの顔をうっかり忘れることだけはないだろう、と麻衣は思った。これほど濃いキャラクターを忘れられるはずがない。
女性達からナンパされるくらいそれなりに整った顔をしているのに、まさか中身がストーカー一歩手前だとは。昨日敏樹をナンパしていた女性達にはこの本性を見せればよかったのに。そうしたら何を言わずとも勝手に幻滅をしてくれていたことだろう。
さて、どうしようか、と麻衣は考える。敏樹と眼が合うとにこりと微笑まれたのでさっと視線をずらす。怖い怖い。すっごく怖い。
こういう手あいは相手にしないのが一番だと聞いたことがあるが、しかし相手にしなかったところで何か色々と都合よく解釈をしてきて身の危険しか感じないような。
ひとまず、なんとか夏中乗り越えればいいのだ。夏を乗り越えれば、流石に学校は違うしもう縁は切れる。ストーカーじみたこの行為も終焉を見せるだろう。
そう心に決めて引き攣った笑顔を敏樹に向けた麻衣は、これから自分が夏休みの間どれほど激しくアプローチをされることになるのか幸運にもまだ知らない。
そして、既に目前の男が大して親しくもないはずの亜依を経由して麻衣のアドレスを手に入れてしまっていることも、夏休みが終わっても敏樹からのアプローチが全く終わりを見せないことも、今はまだ知らないのだった。