初夜の筆談
呆然とした婿選びからあっという間に時は過ぎ去り、婚儀を終えた夜。
リコウの邸、詳しくは寝室、その寝台の上に末姫はいた。お互い向かい合って座りながら、二人の間に横たわるのは沈黙である。夫婦であるという形がここまで整っていながら「どうしたものか」とリコウは嘆息する。
姫を降嫁するに相応しい家柄であったのも功を奏し、末姫がリコウを選んだその日に婚約はあっさりと認可された。リコウは独身であったし恋人もおらず、障害のなさ過ぎる結婚はすべてがとんとん拍子だったのだ。
ここまで来て往生際の悪いことは言うまい。既に腹は括った。末姫を貰い受けるに当たっての利益も不利益も折り込み済みだ。どんな理由かは知らないが、末姫がリコウを伴侶として選んだのなら出来得る限りそれに応えよう。それくらいの気構えは出来ている。
「末姫殿、」
話しかけようとしてリコウは一瞬ためらった。声を持たない末姫の意思伝達手段は、なぜか阿吽の呼吸で意思の疎通ができているらしい侍女か筆談に頼る。初夜の寝室に侍女がはべるわけもなく、寝台の上で筆記用具を広げられない。リコウが迷った少しの隙に末姫は寝台を降り、燭台の置かれた机に向かった。いつでも筆談が出来るように配慮された筆を取り、リコウへ振り向く。
(気の利かない娘ではない)
むしろ相手の気配に敏感な性質をしている。これまでもリコウの意図を先回りして準備していることが幾度かあった。
「末姫殿。なにゆえ私を選んだのです」
今さらながら聞いておきたいことだった。末姫はきょとんとした顔で首を傾げると、筆を走らせる。
≪あなたが私に興味がないからです≫
「は?」
予想外の言葉にリコウは再び声を詰まらせるが、気にせず末姫は筆を取った。
≪立場も人格も含めてあなたは末姫に興味がない≫
ですよね? と小首を傾げる様は可愛らしいが、リコウは末姫が何か得体の知れないものに見えた。興味がなかったのは当たっているが、さすがに娶った妻に無関心を貫くほど薄情ではないつもりだ。
「そして何より」と書きかけ、そこで初めて末姫は筆をためらった。一呼吸の後、一気に筆を滑らせる。乱れのない美しい手跡だ。
≪あなたは誰よりも良い香りがします。あなた自身が持つ清廉さが好ましい≫
つ、と差し出された紙面を見てもリコウは何と返せば良いのか分からなかった。そういえば見合いの日に侍女が何かを言っていた気がする。清廉潔白だ何だと誇大表現された釣書に対して「真偽が知りたい」と。
それにしても香りとは一体何のことだろう。
夜着の袖口に鼻を当ててかいでみるが特に変わった香りはしないように思う。頭を捻るリコウの袖を引いて、末姫は新しい紙を差し出した。
「末姫様……」
リコウは文面を驚いた目で見ると、不意に肩の力を抜いた。末姫は真剣な顔でリコウを見ている。自然と笑みがこぼれた。そういえば今宵は初夜なのだな、と当たり前のことを思う。
「私は妻に無体を強いる夫ではないつもりです。誓いますよ。早死にするつもりもありません」
≪あなたにこの身を預けても良いでしょうか。そして私と末永く共に生きてくださいますか≫
そう書かれた紙を机に置き、リコウは妻となった娘をそっと見下ろした。
「あなたは私の香りを好ましく思うのですか」
末姫はリコウを見上げたまま、こくりと頷いた。長い睫毛が縁取る、黒く濡れた瞳は真摯だ。何だか良くは分からないが、好きだというなら問題はない。
「ならばもっと近くに来ればよろしい。今日から夫婦なのですから」
リコウが軽く広げた両腕の中へ、末姫はためらうことなく納まった。細い身体を密着させ、リコウの胸元に鼻をすり寄せている末姫はひどく嬉しそうだ。ああ、とリコウは顔を伏せ、柔らかな髪に頬を寄せる。
良い香りがするのはこの娘の方だな、と一人笑んだ。