2.いさかい
男の言葉は、意味がわからなかった。アーベとベダは神々の子で、それだけのはずなのに。
「恵み、と守り。言葉の音は似てる? けど」
イルはつぶやいた。世界には、精霊の力が満ちている。ウ・ウェレもビルトも、精霊の名前だ。戦が起きた時、戦士たちは猛々(たけだけ)しき大地の女神リーア・カに、そして麗しき面たる太陽の神ロハイに祈る。そうしてウ・ウェレとビルトに幸運を願って、戦支度をする。彼らもまた、戦士に力を授けるリーア・カとロハイの子どもたちだから。
結婚する時にもウ・ウェレとビルトは引っ張りだされる。結婚生活がかたく守られ、子孫が繁栄するように。アーベとベダはリーア・カとロハイの一番上の子どもだが、ウ・ウェレとビルトは村人たちに親しまれやすい神々の子どもたちなのだ。
「神々と精霊たち」
村に入る道の途中で立ち止まり、イルは山を仰いだ。あの男、エーイ・ワン。巡礼者は精霊と親しく語らうものだと言われているが。
「でも、テーラ……って?」
その名には、聞き覚えがなかった。
村に戻る途中の道で、苦手な相手に出会った。
「あら。嫌なものを見ちゃった」
顔をしかめ、こちらを見ているのは、ラニ・ムー。カン・マの第一の夫ソル・コにより生まれた、二番目の娘である。つややかな褐色の肌に、見事な白い巻き毛、赤みがかった黄色の瞳。ラニは美しかった。そうして父親が第一の夫である事から、いばり散らしていた。クジャクカササギのようにうぬぼれやで、いつも自分が物事の中心にいなければ気が済まない。イルにとっては同じ母から生まれた姉にあたるが、彼女から家族として扱われた事はない。イル自身も、相手を姉と思った事などなかった。
「汚らしいラッタがこんな所で、何をしているの。そんなみっともない姿で、よく外を歩けるものね。おお嫌だ。変な匂いがするわ」
大げさに言って、鼻をつまんでみせる。未婚である事を示すラニの三つ編みには、様々な飾りが編み込まれていた。飾り玉はもちろん、リボンがいくつも、ひらひらと垂れている。ほっそりとした指は綺麗に手入れされており、身にまとう衣服も刺繍のたくさん入った贅沢なものだ。成人の証である短剣は腰帯にさしてあるが、鞘にも柄にも色とりどりの飾り玉がぶら下がり、短剣と言うより装飾品にしか見えなかった。最近の自慢である革靴には、派手な模様が染め抜かれている。これ一つにゴル羊三頭が引き換えになった。靴一足に貴重な羊を三頭も引き渡すなんて、と古老たちは顔をしかめていたが、ラニも父親のソル・コもどこ吹く風だった。ソル・コの血筋は裕福なのだ。村長の跡継ぎになるかもしれない娘に、相応しい身なりをさせて何が悪い、と言って。
跡継ぎには第二の夫、ザイ・マ・コによるケナ・ムーがほぼ決まっている。けれど二人は決して、認めようとはしなかった。ザイ・マ・コは美しいが貧しく、後ろ楯たる血筋を持たない人物だったからだ。古き血筋で財力のあるソル・コの娘が、なぜ下につかねばならない。ソル・コはそう言い続け、今も、ラニを次期長にしようとしている。そんな父親に育てられたラニは、子どものころからわがままに育ち、鼻持ちならない性格の人物になっていた。
つぎあてだらけで体にもあっていない、古ぼけた衣服をまとうイルを見て、ラニは馬鹿にしたような顔で笑った。
「本当にみっともない。見捨てられた四番目の夫の子どもなんて、こんなものね。あたしは良かったわ。今も長に愛されるソル・コの娘なんですもの。この幸運を、麗しきロハイに感謝するわ」
せせら笑いながら言う。ラニからの嫌がらせはいつもの事なので、イルは相手にせず、さっさと通り過ぎようとした。するとラニが、「お待ち」と言った。
「籠の中にあるものは何? お見せ」
「あんたに関係ない」
籠に覆いをかけておけば良かった。そう思って体の影に隠そうとしたが、それより早くラニは、手を伸ばして引っ張っていた。古ぼけた籠はその力に耐えきれず、あっという間に持ち手が引きちぎられた。そのまま籠を奪われる。
「水晶花! まあ、この時期に!」
奪い取ったラニは、中身を見て歓声をあげた。きらきら光る花びらは貴重なものだ。花の時期が終わってしまった今では、特に。
(自分のものにするつもりだ)
はしゃぐラニを見て、イルは思った。ほぞを噛む思いだった。ラニは今まで何度となく、貴重なものや珍しいものを人から取り上げ、自分のものにしてきた。父親に死に別れた幼い子どもの形見の品でさえ、気に入ったからと言って取り上げたのだ。小さな飾り玉のついた腕輪だったが、乱暴に扱われて壊れてしまい、ほどなくして捨てられた。全てを見ていたメルがこっそりと取り戻し、できる限りの修繕をしてその子に返してやったのを、イルは見ている。ラニは赤ん坊の口からでさえ、ミルクを取り上げかねない人間なのだと、その時にイルは思った。
だから、用心しなければならなかったのに……!
「返して!」
イルは叫ぶとつかみかかった。ラニはさっと籠を上げると、イルの手が届かないようにした。
「汚らしいあんたが、こんな綺麗なもの、持ってて良いと思っているの? こういう美しいものは、あた
しにこそ相応しいわ。だからあたしがもらってあげる。ありがたいと思いなさい!」
笑いながら籠をかかげ、駆けだす。イルは後を追いかけた。
「返して! あたしが見つけたのよ! 返してよ!」
せっかく、メル・ムーの為に見つけてきたのに。そう思うと、目の前が真っ赤になりそうなほど腹が立った。ラニは笑いながら走っている。栄養のあるものを食べている彼女は、体つきもしっかりしていて、足も速かった。最低限のものしか食べて来なかったイルとでは、元々の体力も違う。このままでは、引き離されてしまう事は確実だった。
イルは焦った。そうして思い切り助走をつけて踏み込むと、ラニに飛び掛かった。ラニはぶざまな悲鳴を上げると、ひっくり返った。籠が手から転がり落ちて、中身がぶちまけられる。イルは急いで、こぼれ落ちた花びらをかき集めた。透きとおる花のかけらがぶつかりあって、ちりちりと音を立てた。
「このラッタ! 何て事をするの!」
そうしていると、怒り狂ったラニに金切り声を上げられた。
「このあたしによくも、こんな事……ちょっと! その花をよこしなさい!」
「嫌よ! これはメル・ムーの為につんできたのよ。あんたなんかに渡さない!」
「薄汚いラッタが……!」
怒りのあまり顔を歪めたラニは、手を振り上げた。思い切りひっぱたかれて、イルの小さな体は吹っ飛んだ。
それでも、水晶花のかけらは離さなかった。
「寄越しなさいよ!」
ラニはわめいた。イルに飛びかかって殴ったり、引っかいたりする。イルは体を丸めると、胸元に水晶花のかけらを抱え込んだ。絶対、ラニなんかに渡すものか。
蹴飛ばされて髪を引っ張られ、地面を引きずり回されたが、イルはかけらを離さなかった。そうしていらだったラニが手を離し、もう一度ぶとうとした時。隙をついて体当たりをした。ラニは再び、ぶざまな悲鳴を上げてひっくり返った。綺麗な服が泥だらけになり、髪飾りが曲がってだらしなく垂れ下がる。散々な姿だった。いつもなら、ラニのそんな姿を見たなら、大喜びをしていただろう。でも今はそんな時間はない。イルは立ち上がると、ラニに背を向け、逃げ出そうとした。
しかし、逃げられなかった。
「なんの騒ぎだ!」
ラニを追いかけている内に、イルは村の中央まで来ていたのだ。二人が騒いでいたのは、村長の家の真ん前だった。やって来たのは、ソル・コと彼の腰巾着の男や女たち。それに村長のカン・マだった。
途端にラニが、しおらしい態度を取る。
「ああ、お父さま! お母さまも! お助け下さい」
そう叫ぶと、父親の元へ行って泣き崩れる。
「わたくしは、何もしていないのに! ただロハイのお恵みで、美しい花を見つけただけですのに! それをねたんだあのラッタ、父親がおらず、素性も定かでないあの者が、わたくしの見つけた水晶花を盗んだのです。
お母さま。偉大なる村長、カン・マよ。どうかわたくしに返すよう、あのラッタに言い聞かせて下さいまし」
全員の目が、イルの方を向いた。
イルは、唇を噛みしめた。
熱中症の後遺症? か、体力が戻りません。いつもより短くてすみませんm(__)m




