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幼馴染モノにハマった俺が『一生このまま』と言ったら、幼馴染が引退宣言をしてきた

作者: ニイ
掲載日:2026/10/24

その漫画を渡されたとき、俺は正直、迷惑だと思っていた。


「いいから読め、日向。お前に足りないのはこれだ」


 昼休み、柏木は紙袋を俺の机にどさっと置いた。中身は単行本が五冊。表紙では制服姿の男女が並んで笑っている。


「何これ」


「幼馴染もののラブコメ。全十巻。続きは五巻まで読んでから貸す。一気に渡すと潰(つぶ)れるからな」


「幼馴染って、あれだろ。朝起こしに来たり、弁当作ってくれたりする」


「それは序の口(じょのくち)だ。いいから読め。読めば分かる」


「俺、ラブコメって読んだことないぞ」


「お前、少年漫画しか読まないだろ。たまには違うのも読め」


「そうだけど」


「それに、お前は一度ハマると早いからな。小学生のとき、少年漫画の技を真似して、傘で川の水を斬(き)ろうとしてただろ」


「……あれは忘れてくれ」


 柏木は妙に真剣な顔をしていた。普段は何を聞いてもへらへら流すやつなのに。


 俺は渋々(しぶしぶ)柏木から漫画を受け取り、持ち帰ることになった。


 俺は、漫画を読まないわけじゃない。小学生の頃は、少年漫画ばかり読んでいた。ラブコメは一冊も読んだことがない。ただ、借りたものを開きもせず返すのは気が引ける。だから今度の日曜の夜、風呂上がりに一巻だけ開くことにした。一巻だけ。寝る前に、本当に一巻だけ。


 一ページごとに手が止まった。バトルも修行もなく、誰も死なない。それなのに、なんでこんなに先が気になるんだ。なんだこの間は。なんだこの目線は。三ページ戻って、同じコマをもう一度眺める。次の巻に手を伸ばすたびに、先に深呼吸が要った。


 次に顔を上げたとき、カーテンの隙間が白んでいた。


 五巻、すべて読み終わっていた。


 膝の上には、最後に読んだ五巻が開いたままになっている。右手が震えていた。呼吸が浅い。心臓がうるさい。


 主人公と幼馴染は、お互いの気持ちに気づかないまま、毎朝同じ道を歩いて、同じ教室で弁当を食べて、同じ夕焼けの下を帰る。それだけの話だ。それだけのはずの日常が、気づいたら全部、どうしようもなく尊かった。


「……尊い」


 声に出したら、もう一度来た。


 そのとき、ふと思った。朝、起こしに来る。弁当を作ってくれる。帰り道がだいたい一緒。


 あれ。


 俺、全部持ってないか。


 窓の外で、ぱっと灯りがついた。二メートルも離れていない隣の家の二階。白石小春の部屋だ。小春は陸上部で、朝練のある日は起きるのが早い。カーテン越しに、寝ぼけた影がのそのそ動いている。


 小学生の頃からずっと、そこにあった灯りだった。


 俺は窓を開けた。十月の朝の空気が少し冷たくて、どこかで金木犀(きんもくせい)が匂っている。


 その窓に向かって、俺は無言で手を合わせた。


「……ありがとうございます」


 誰に言っているのか自分でも分からなかった。たぶん、世界とか、神様とか、そのへんだ。


 七時前にチャイムが鳴った。


 玄関を開けると、小春が立っていた。ショートの髪に朝練帰りのジャージ。毎朝のことだ。俺の母さんに頼まれたとかで、うちに上がって俺を叩(たた)き起こすのが、中学から続く小春の日課になっている。


 その小春が、ドアの前で固まった。


「……え」


「おはよう、小春」


「湊が、起きてる」


「うん」


「熱ある?」


 小春は本気で心配そうな顔で、俺の額に手を伸ばしてきた。冷たくて、少し硬い手のひらだった。


「ない。ない、ありがとう、本当に」


「何が?」


「全部」


「全部って何」


 俺はもう一度手を合わせた。小春が一歩、後ろに下がった。


「ちょっと、やめて。怖い」


「ごめん、でも言わせてくれ。小春がいてくれて、俺は本当に」


「分かった。分かったから、とりあえずこれ」


 小春は目を逸らしたまま、鞄から包みを取り出した。弁当箱だ。毎日のことで、俺の分もなぜか小春が作っている。


「目の下すごいことになってるけど、徹夜?」


「漫画を読んでた」


「漫画? あんたが?」


 弁当を受け取った瞬間、手の中の温かさに、また胸の奥がぎゅっとなった。


 弁当まで。


「小春」


「何」


「俺は決めた」


「何を」


「この関係を、一生大事にする」


 小春はたっぷり三秒、俺の顔を見た。それから、ぷいと顔を背けて言った。


「……朝から、意味わかんない」


 耳が少し赤かったのは、朝の風が冷たかったせいだろう。


 十月の空は高くて、世界は尊かった。


◇


 昼休み、柏木に感想を伝えた。


「五巻まで読んだ」


「もう読んだのか」


「一晩で」


「……お前、顔が違うな」


 柏木は満足そうに頷いて、それ以上は何も聞かなかった。語り合いたい気持ちはあったが、俺が全巻を読み終えるまで感想は取っておくそうだ。ネタバレ厳禁らしい。


 放課後、俺は校門の脇で小春を待った。


 陸上部は六時前に終わる。待ち合わせをしたことはない。ただ、気づけば小春が部活を終えて出てくる頃に、俺も校門に着くようになっていた。それが当たり前だと思っていた。昨日までは。


 制服に着替えた小春が、髪をまとめ直しながら出てきた。


「あれ、湊。まだいたの?」


「待ってた」


「え」


「待ちたかったから」


 小春は一瞬、変な顔をした。それからマフラーに顔を埋めた。


「寒いの? 今日、そんなに冷えてないけど」


 いや、寒いわけじゃないんだが。


 並んで歩き出す。うちの高校から家までは、川沿いの堤防(ていぼう)道を通る。夕方のこの時間は、道の端から端まで、全部オレンジ色になる。


「ねえ、湊、今日ずっと変だよ」


「変じゃない」


「変だよ。朝から拝むし、休み時間もずっとぼんやりしてるし」


「ぼんやりしてたんじゃない。噛(か)みしめてたんだ」


「何を」


「小春と、幼馴染であることを」


 小春は黙って、堤防の草を蹴った。


 俺は構わず続けた。


「朝言った漫画、あれが幼馴染の話だったんだ」


「ああ、徹夜で読んだっていう」


「そう。最初は気乗りしなかった。でも読んだら止まらなくて」


 俺は、できるだけ分かりやすく、五巻ぶんの熱量を伝えようとした。


 主人公は、幼馴染がずっと近くにいすぎて、何も気づかない。幼馴染のほうは、毎朝起こしに行くことで、何かを必死に守っている。二人とも言葉にしない。でも、その言葉にしないまま続いている日常が、どうしようもなく尊い。


「へえ」


「へえ、じゃなくて」


「いや、聞いてるよ。で、結局その二人は何がしたいの?」


「何がしたいとかじゃないんだ。そこにいる、というのが」


 空が、燃えるように赤かった。川面に夕日が反射して、俺は少し目を細めた。


「俺、気づいたんだ」


「何に」


「朝起こしてくれて、弁当を作ってくれて、帰り道も一緒で。当たり前だと思ってたけど、全部、すごいことだったんだって」


 隣で、小春の足音が止まった。


 俺も立ち止まって、振り返った。


「小春」


「……なに」


「小春は、最高の幼馴染だ。だから、一生このままでいよう」


 自分でも驚くほど、すんなり言えた。胸のつかえが、すとんと取れた気がした。これが「尊さが言葉になる」という感覚なのか。


 夕日を背にして、小春が俺を見ていた。


 逆光(ぎゃっこう)で、表情がよく見えなかった。一瞬、本当に一瞬だけ、その口元から笑みが消えた気がした。


 それから、小春は笑った。


「……うん、そうだね」


 いつもの笑顔だった。ただ、少しだけ、いつもより遅れてついてきたような笑顔だった。


 きっと夕日が眩(まぶ)しかったのだろう。俺は納得して、また歩き出した。


 並んで歩きながら、俺は嬉しくて仕方がなかった。ちゃんと伝わった。この気持ちを、小春と共有できた。


 背中の後ろで聞こえる小春の足音は、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。


◇


 その夜、私は部屋のベッドに倒れ込んで、天井を見上げていた。


 一生このままでいよう。


 最高の幼馴染だ、と湊は言った。


 頭の中で、夕日を背にした湊の顔が何度も再生される。嬉しそうだった。本当に嬉しそうで、満足そうで、なんなら感動していた。


 湊は、昔からそうだ。何かに夢中になると、次の日には全身がそれになる。少年漫画を読んだ翌日は、傘を構えて土手で叫んでいた。


 だから今回も、たぶん、あの漫画に影響されただけなんだと思う。


 悪気がないのは分かっている。むしろ、あれは湊なりの最大級の愛情表現だ。それも分かっている。


 でも。


「……最高の、幼馴染」


 声に出してみた。


 幼馴染。小学校に上がる前から、窓ひとつ挟んで十何年。朝起こして、お弁当を作って、帰り道を一緒に歩く。私が好きでやってきたことを、湊は全部まとめて「幼馴染」という箱に入れて、大事に棚へ仕舞おうとしている。


 一生このまま。


 つまり、これ以上は、ない。


 足が止まったのは、夕日が眩しかったからじゃない。あの瞬間、はっきり分かってしまったからだ。私は十何年かけて、その箱の中で、立派な幼馴染をやりきってしまったんだ、と。


 起き上がって、窓のカーテンをそっと開けた。


 二メートルも離れていない向かいの窓に、湊の部屋の灯りがついている。机に向かって、何か分厚いものを広げているのが見えた。たぶん、あの漫画だ。


 いつから好きだったのか、私は自分でもよく覚えていない。


 ただ、中二の秋のことは覚えている。


 記録が伸びなくて、走るのが嫌になった日。誰とも話したくなくて、一人で土手に座っていたら、湊が来た。何も聞かず、何も言わず、私の隣に座って、雑誌を読み始めた。


 三十分くらい、ずっとそうだった。


 最後に私が「帰る」と言ったら、湊は「おう」とだけ言って、立ち上がった。それだけだった。それだけなのに、あの日から、私の中で湊は、ただの幼馴染じゃなくなった。


 向かいの窓が、からりと開いた。


 湊が顔を出した。気づいていたのか、偶然なのか、分からない。


「小春」


「……なに」


「おやすみ」


「うん」


「今日はありがとな」


「何が」


「全部」


 湊は笑って、親指を立ててみせた。


 反則だ、と思った。ああいう顔をするから、嫌いになれない。


「おやすみ、湊」


 窓を閉めた。そのままカーテンも引いて、ずるずるとその場に座り込む。


 膝を抱えて、三分くらい黙っていた。


 それから、スマホを取り出した。


 メモ帳を開いて、何も書いてない画面を見つめる。指が少しだけ震えた。


 幼馴染というのは、居心地がいい。起こしに行く理由も、お弁当を渡す理由も、帰り道を並んで歩く理由も、「幼馴染だから」で全部済む。安全で、ずっと続けられる。


 でもそれは、そこから先へは行けない関係でもある。


 湊にとって、私は一生「このまま」の存在でいい。


 じゃあ、私は。


 私は、嫌だ。


 私は、湊の幼馴染でいたくない。


 画面の上に、ひとつずつ文字を打ち込んでいく。


「朝、起こしに行かない」


「お弁当を作らない」


「家でだらだらしない」


「呼び方を変える」


 最後の一行を、少し迷ってから打った。


「幼馴染を、やめる」


 保存ボタンを押すと、画面が短く震えた。


 窓の向こうでは、湊の部屋の灯りが、まだついていた。


◇


 三日後の朝、俺は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


 ベッドの上で姿勢を正して、息を整える。


 二巻に、ああいう場面があった。主人公が寝たふりをして、幼馴染に起こされるのを待つ。「あと五分」と言って布団にもぐると、幼馴染が仕方なさそうに肩を揺すってくれる。あれは、いい。


 俺は布団を頭までかぶって、目を閉じた。


 七時になった。


 チャイムは鳴らなかった。


 七時五分になった。


 階段を上がる足音がして、ドアが開いた。母さんだった。


「あんた、何してるの。起きてるの?」


「……寝てる」


「起きてるじゃない。小春ちゃん、今日は朝練の準備で先に行くって連絡あったわよ」


「連絡?」


「あんたにも送ったって言ってたけど」


 スマホを見ると、六時台に一件、通知が来ていた。「今日から朝は一人で行くね」と、そっけない一行。


 俺は布団の中で、しばらく固まっていた。


 朝のイベントが、消えた。


◇


 学校に着くと、校門で小春と鉢合わせした。


「おはよう、日向くん」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「……ひなた、くん?」


「うん。同じクラスだし、いつまでも呼び捨てじゃ変かなって」


「変じゃない」


「変だよ。もう高二なんだから」


 小春は、いつもの笑顔で言った。


 俺は教室まで、無言で歩いた。呼び方が、変わった。ずっと「湊」だったのに。いや、正確には「みーくん」だった時期もあったが、それは小学生の頃の話で、高校に入ってからは普通に「湊」と呼んでくれていたはずだ。


 昼休み、俺は机の上に何も出さずに待っていた。


 小春は弁当を持っていなかった。代わりに、購買(こうばい)の袋を提げてやってきた。


「焼きそばパンとコロッケパン、どっちがいい?」


「……どっちでもいい」


「じゃあ、コロッケね」


 隣の席に座って、小春は自分の焼きそばパンを開けた。普通に話しかけてくる。部活の話、先生の話、昨日のテレビの話。いつも通りだ。いつも通りなのに、手元に弁当箱がないだけで、世界がひとつ欠けている。


「小春、弁当は」


「今日はパンの気分で」


 そう言って、小春は焼きそばパンにかぶりついた。


 俺は、コロッケパンを持ったまま、考えた。


 三巻だ。


 三巻には、幼馴染がしばらく素っ気なくなる回があった。主人公は何も分かっていないまま、少しずつ距離ができていく。あれは、あの流れだ。


「……なるほど」


「何がなるほどなの」


「いや。こっちの話」


◇


 私は焼きそばパンを飲み込んで、それから、心の中でガッツポーズをしようとした。


 できなかった。


 朝、家を出るとき、湊の家の前を通った。窓のカーテンが開いていて、ベッドの上で湊が布団にもぐっているのが見えた。私が起こしに行かなかったら、どうなるんだろう、と思った。


 結局、通知を一件送っただけで、素通りした。それが精一杯だった。


 呼び方を変えるのも、すごく緊張した。「日向くん」と口にした瞬間、舌が絡(から)まって、危うく噛みそうになった。


 それなのに。


 隣で、湊は、コロッケパンを持ったまま、満足そうな顔をしている。


 何を考えているんだろう。


「ちょっと寂しい」とか「どうしたの」とか、そういうことを言ってくれれば、少しは手応えがあるのに。湊はただ、何かを理解したように、一人で頷いている。


 全然、効いてない。


 メモ帳に書いた作戦は、四つ。一つ目と二つ目と四つ目は、今日で全部実行した。残るは三つ目と、その先だ。


 私は焼きそばパンの包みをくしゃっと丸めた。


◇


 放課後、俺は柏木を捕まえた。


「相談がある」


「お、どうした」


「幼馴染が、距離を置こうとしている。たぶん」


 柏木は、飲んでいた紙パックのジュースを吹き出しそうになった。


「たぶん、とは」


「朝、起こしに来なかった。弁当もない。呼び方が変わった。名字に君付けだ」


「お前、それ全部、自分で数えて言ってるのか」


「三巻の展開だと思う」


 柏木は、窓の外を見た。それから、ゆっくりと俺のほうに向き直った。


「日向」


「ん」


「それ、まだ序盤の展開だぞ」


「序盤?」


「お前が読んだのは、五巻までだろ。三巻のあれは、ちょっとした山場にすぎない。もっと先がある」


「もっと先って、何があるんだ」


「言わない。ネタバレ厳禁だ」


 柏木は妙にいい笑顔で、ジュースのストローをくわえた。


 俺は、たぶんこいつは何か知っているんだろうな、と思った。でも、それ以上は教えてくれなかった。


 その夜、スマホが震えた。


 画面を見ると、小春からのメッセージだった。


「日曜、暇? 映画、行かない?」


 俺は、画面を三回見直した。


 映画。


 休日に、二人で。外で。


 四巻だ。


 四巻に、そういう場面があった。


◇


 日曜の朝、俺は駅前の時計台の下で待っていた。


 家は隣同士なのに、待ち合わせをしている。


 四巻にも、そういう場面があった。同じ町内に住んでいる二人が、わざわざ別々に家を出て、駅前で待ち合わせる。あれは、デートの始まりの儀式だ。


「おはよ、日向くん」


 小春が来た。


 白いニットに、膝丈のスカート。見たことのない格好だった。髪も、いつもより丁寧に結ばれている。


「……おう」


「何、その顔」


「いや。似合ってる」


 小春は一瞬固まって、それから「急に何」と言って、そっぽを向いた。


 映画館は、日曜の朝なのに混んでいた。


 選んだのは恋愛映画だ。雨の駅で別れた二人が、数年後にもう一度出会う話らしい。小春が選んだ。小春は普段、アクション映画しか観ない。


 席に着くと、小春が小さな声で言った。


「ポップコーン、一個でいい?」


「いい」


 二人で一つのポップコーンを持って、暗くなった館内に座る。


 予告が終わって、本編が始まった。


◇


 私は、画面をほとんど見ていなかった。


 隣に湊がいる。肘掛けの上、数センチ先に湊の腕がある。ポップコーンの容器は、ちょうど二人の真ん中。手を入れるタイミングを、ずっと窺(うかが)っている。


 そして、その瞬間は来た。


 同時に手を伸ばしたせいで、指先が触れた。


「……四巻」


 湊が、小声で呟(つぶや)いた。


「え?」


「あ、いや。何でもない」


 何が四巻なんだろう。私は慌てて手を引っ込めた。心臓がうるさい。


 横目で見ると、湊は真剣な顔でスクリーンを見つめている。映画に集中しているのだ。私の手が触れたことなんて、まるで気にしていない。


 そのまま一時間半、私は一度もスクリーンを直視できなかった。


 エンドロールで、湊が泣いていた。


「……え」


「ごめん、続き、気になって」


「泣くの、そこ?」


「あの、あの二人が、最後に傘を」


 湊は袖で目をこすった。私は思わず笑ってしまって、それから、ちょっとだけ悔しくなった。


◇


 昼を食べて、次に向かったのは水族館だった。


 俺は水族館に来たことがなかった。いや、小学生の遠足で一度行ったかもしれないが、覚えていない。


「水族館って、意外と暗いんだな」


「そりゃ、魚が見やすいようにでしょ」


 小春はそう言って、水槽の前で足を止めた。大きな水槽の向こうを、銀色の魚の群れが一斉に向きを変える。


「綺麗」


「すごいな。あれ全部、同じ動きしてる」


「魚だもん」


「いや、尊い」


「何が?」


「群れで一緒に動いてるのが」


 小春は呆れたような顔をして、でも、少し笑っていた。


 クラゲの部屋は、さらに暗かった。壁一面にクラゲが浮かんでいる。青い光に照らされて、ふわふわと漂う。


「これ、触りたくなるね」


「刺されるぞ」


「触らないよ」


 小春は、俺の少し後ろを歩いていた。


 そのとき、小春の指先が、ほんの少しだけ俺の手に近づいた気がした。


 俺は気づかず、水槽に顔を近づけた。


「見て、小春。この一匹だけ、全然違う方向に行ってる」


「……うん」


「あいつ、大丈夫かな」


「大丈夫だよ、たぶん」


 小春は、手をポケットに入れた。


◇


 最後に行ったのは、駅前のゲームセンターだった。


「ここは普段通りだな」


「え?」


「いや。なんか落ち着く」


 水族館とも映画館とも違う、薄汚れた床とチカチカした光。小学生の頃から、二人でよく来た場所だ。


 クレーンゲームの前で、小春が俺の袖を引いた。


「あれ、取って」


「あの、でかいやつ?」


「できるでしょ」


「いや、俺そんなに上手くない」


「知ってる。だから面白いんじゃん」


 結局、二千円使って取れなかった。小春は、横で腹を抱えて笑っている。


「何だよ、笑いすぎだろ」


「だって、あんたの顔、必死すぎて」


「じゃあお前がやれ」


 小春は財布から百円を出して、あっさり一発で景品(けいひん)を落とした。


「……ずるい」


「勝負は勝負」


「陸上部は反射神経(はんしゃしんけい)ありすぎだ」


 エアホッケーでは、二人とも本気になった。結果は五対五の引き分けで、決着がつかなかった。


「もう一戦」


「やる」


 気づけば、俺は声を出して笑っていた。


◇


 ゲームセンターの出口で、私は立ち止まった。


「どうした?」


 湊が振り返った。


 照明の下で、少し汗をかいて、いつもの笑顔で笑っている。


 私は、朝からの作戦のことを、ずっと忘れていた。


 映画で緊張して、水族館で空回りして、それなのにゲームセンターで、何も考えずに大笑いしていた。この、薄汚れた床の上で。


 これでいいんじゃないか、と思った。


 いつもの二人でいて、いつも通りに笑って。この空気のまま、ある日突然、恋人になれるのではないか。


 そう思ってしまった。


「小春」


「……なに」


「今日、楽しかった」


「うん」


「やっぱり、小春といるのが一番落ち着く。いつも通りが一番いいな」


 湊は、心からの笑顔で言った。


「これからも、ずっと幼馴染でいような」


 世界が、ぱたんと閉じる音がした気がした。


 私は笑った。笑ったと思う。


「……うん」


 夜、ベッドの中で、私は決めた。


 月曜に、ちゃんと言おう。


◇


 月曜の昼休み、小春に屋上へ呼び出された。


 屋上には、他に誰もいなかった。風が強くて、フェンスの向こうには秋の空が広がっている。


「話って何?」


 小春は、フェンスの前に立っていた。振り返って、まっすぐ俺を見た。


 いつもの顔じゃなかった。


「日向くん」


「……はい」


「私、もう幼馴染やめるから」


 風が止まった気がした。


「……え」


「ごめんね。急に言って」


「やめる?」


「うん。もう、幼馴染は終わり」


 小春は、きっぱりとそう言った。


 それは、紛れもなく、幼馴染の引退宣言だった。


 俺は、屋上のコンクリートの上で、立ち尽くした。


 どうして。


「どうして……」


◇


 午後の授業の内容は、一つも覚えていない。


 気づけば放課後になっていて、教室にはほとんど誰も残っていなかった。窓の外では、陸上部がトラックを走っている。その中に小春の姿を探しかけて、俺は目を逸らした。


「日向」


 柏木が、鞄を肩にかけて立っていた。


「……なんだよ」


「顔、死んでるぞ」


「小春に、幼馴染をやめるって言われた」


 柏木は何も言わず、鞄を開けた。中から取り出したのは、五冊の単行本だった。


「六巻から十巻だ。第二部、全部貸す」


「今は、そんな気分じゃ」


「今読め」


 柏木は、いつになく真面目な顔をしていた。


「お前、五巻までしか読んでないだろ。あの漫画は、そこから先が本番なんだよ」


「本番?」


「幼馴染が、どうして幼馴染をやめたいと思うのか。その話だ」


 俺は黙って、本を受け取った。


 表紙の二人は、五巻までと同じ顔で笑っていた。


「じゃあな」


 柏木はそれだけ言って、先に教室を出ていった。


◇


 帰り道は、一人で堤防を歩いた。


 いつもなら隣に小春がいる道だ。今日は部活が終わる時間を待たずに、校門を出た。待っていいのか、分からなかった。


 川面が夕日で赤く染まっていた。あの日と同じ夕焼けなのに、隣が空いているだけで、色が違って見えた。


 家に着くと、母さんが台所から顔を出した。


「おかえり。小春ちゃんは?」


「……部活」


「そう。今日はカレーよ」


 夕食を食べた。味はしなかった。風呂に入って、髪も乾かさないまま、部屋に戻った。


 机の上には、鞄から出した五冊が積んであった。


◇


 窓の向こうの小春の部屋には、灯りがついていた。


 それを視界の端に置いたまま、俺は最初のページをめくった。


 読み終わるまで、一度も顔を上げなかった。


 最後のページを閉じたとき、俺はしばらく動けなかった。


 五巻までの自分が、ずっと勘違いしていたことが分かった。


 あの漫画の主役は、幼馴染でいたい主人公だと思っていた。でも違った。本当に描かれていたのは、毎朝その人を起こしに行っていた、幼馴染のほうの気持ちだった。


 何も言わない日常の中で、一番多くのことを言っていたのは、言わなかったほうの人だった。


 俺は、そこを読んでいなかった。


 読んだ気になっていただけだった。


 本を机に置いて、天井を見上げた。


 頭の中で、この数日が、勝手に巻き戻された。


 朝、起こしに来なかった小春。


「日向くん」と、言いにくそうに呼んだ小春。


 焼きそばパンの包みを、くしゃっと丸めていた小春。


 映画館で、ポップコーンに手を伸ばして、慌てて引っ込めた指。


 水族館のクラゲの前で、ポケットに入った手。


 ゲームセンターの出口で、立ち止まった背中。


 そして、堤防の夕日の中で、笑顔が遅れた、あの顔。


 足が止まったのは、夕日が眩しかったからじゃなかった。


「一生このままでいよう」。


 俺は、あれを一番の愛情表現だと思っていた。でも、あの人にとっては、たぶん、逆だった。


 さらに、思い出した。


 あの朝、チャイムが鳴らなかったとき。俺はベッドの中で、これは三巻の展開だと思っていた。でも本当は、あのとき、胸の奥にぽっかりと穴が空いていた。


 あれは、尊さなんかじゃなかった。


 ただの、寂しさだった。


 起こしに来てくれなくて寂しい。弁当がなくて寂しい。「湊」と呼ばれなくて寂しい。


 俺は、小春が隣にいる朝が好きだった。


 幼馴染という言葉が好きだったんじゃない。あの漫画の中の誰かでもない。


 小春が、好きだった。


「……なんだ、そりゃ」


 声が、情けないくらい震えていた。


 十何年、隣にいて、漫画の続きでやっと、気づいたのか。


 窓の外では、小春の部屋の灯りがまだ点いていた。


 カーテン越しに、細い影が動いている。もう寝る時間だというのに、起きているのだろう。


 あの影に向かって、俺が言うべき言葉は「一生このまま」じゃなかった。


 俺は、立ち上がった。


 机の上に、一巻から十巻までを順番に並べる。


 少しだけ、考えた。


 そして、スマホの目覚ましを、いつもより一時間早くセットした。


◇


 翌朝、俺は五時五十分に窓を開けた。


 十月の朝の空気は冷たくて、澄(す)んでいた。どこかで金木犀の匂いがした。


 向かいの窓には、すでに灯りがついていた。朝練のある日の小春は、起きるのが早い。カーテンの向こうで、影がのそのそ動いている。


 俺は息を吸って、窓から身を乗り出した。


「小春!」


 カーテンが止まった。


 しばらくして、向かいの窓が、おそるおそる開いた。


 寝ぐせのついた小春が、顔を出した。ジャージ姿で、片手に歯ブラシを持っている。


「……何。朝から」


「起こしに来た」


「私、もう起きてるんだけど」


「知ってる」


「じゃあ、何」


「起こしたかったから」


 小春は、歯ブラシを持ったまま固まった。


 俺は、窓枠をつかんだ。二メートルの距離が、やけに遠く感じた。


「昨日、柏木から続きを借りて、全部読んだ」


「……続き?」


「あの漫画。幼馴染のほうの気持ちが、全部書いてあった」


「ちょっと、待って。何の話」


「俺、間違えてた」


 小春の目が、少しだけ見開かれた。


「『一生このままでいよう』って言っただろ。あれは、違った」


「……」


「幼馴染をやめるって言われて、分かった。俺は、幼馴染が好きだったんじゃない」


 声が、思ったより震えた。


「小春が、好きなんだ」


 窓の向こうで、小春の手から歯ブラシが落ちた。


 からん、と音がして、下の庭に転がっていった。


「幼馴染は、やめなくていい。やめないでほしい」


「……」


「でも、そこに、もう一個足してほしいんだ」


 俺は、できるだけ分かりやすい言葉を探した。


「幼馴染のまま、恋人になってほしい」


◇


 私は、窓枠にしがみついたまま、動けなかった。


 目の前で、湊が顔を真っ赤にして、下手くそな告白をしている。


 寝ぐせがついている。パジャマのままだ。こんな時間に、窓越しに、近所中に聞こえそうな声で。


 漫画でも、こんな告白は見たことがない。


「……それ、漫画に影響されただけじゃなくて?」


 自分でも、意地の悪い聞き方だと思った。


 湊は、少しも目を逸らさなかった。


「そうかもしれない。きっかけは、絶対そうだ」


「正直だね」


「でも、小春が好きなのは、漫画より前からだった。気づくのが、漫画のおかげになっただけだ」


 息が詰まった。


「……ずるいよ、湊」


「え」


「そういうこと、急に言うの」


 声が震えて、止まらなかった。目の奥が熱くなって、視界がにじんだ。


「私、昨日の夜、ずっと考えてたんだよ。もう一緒にいるのやめようって。もう無理かもしれないって」


「ごめん」


「『一生このまま』って、何。あれ、本当に傷ついたんだから」


「ごめん。本当に、ごめん」


「遅い」


「うん」


「何年も、待ったんだから」


「……うん」


 湊は、窓の向こうで、泣きそうな顔をしていた。


 私も、笑いながら泣いていた。頬を伝う涙を、袖で乱暴にこする。


 息を吸って、吐いた。


 それから、小学生の頃以来、呼んだことのなかった名前を口にした。


「みーくん」


 湊の目が、まん丸になった。


「……こはる」


 声がうわずっていた。鼻をすする音がして、湊の目がみるみる潤んでいく。


「俺、今、すごい、嬉しくて」


「ちょっと待って」


「え」


「泣くの、まだ早い」


 私は、窓から身を乗り出して、手のひらを突き出した。


「まだ、返事してないでしょ」


「あ」


 湊の動きが止まった。


「ちゃんと聞いて」


「はい」


 湊は、背筋を伸ばした。さっきまで泣きそうだった顔が、一瞬で直立不動(ちょくりつふどう)になる。


 その様子がおかしくて、また少し笑ってしまった。それから、ゆっくり息を吸った。


「私も、ずっと好きだった」


「……」


「いつからかは、覚えてない。でも、自覚したのは中二の秋。土手で隣に座ってくれた日から、ずっと」


「覚えてたのか、あれ」


「覚えてるよ。ジャンプ読んでたよね」


「……読んでた」


「だから、いいよ」


 私は、涙を拭(ぬぐ)いて、まっすぐ湊を見た。


「恋人になる。幼馴染のまま」


 湊は、しばらく固まっていた。


 それから、ゆっくりと両手を合わせた。


「……ありがとうございます」


「だから、拝まないでって」


「あ、朝練」


 私は、はっとして、慌ててポケットからスマホを取り出した。


「顧問(こもん)に、遅れるって連絡しとく」


「いいのか」


「いいの。今日だけ特別」


◇


 その日の朝、私は一人で家を出なかった。


 玄関を開けると、ちゃんと湊が待っていた。ちゃんと起きて、ちゃんと制服を着て。寝ぐせは、まだ少し残っている。


「おはよう、小春」


「おはよう、みーくん」


 並んで歩き出す。


 土手道は、まだ朝日で金色に染まっていた。川面がきらきら光って、風が冷たくて、金木犀の匂いがした。


「あのさ」


「ん」


「お弁当、明日からまた作ってくれる?」


 私は、横目で湊を見た。


「やめるって言ったのに」


「うん、ごめん」


「作るよ。彼女だから」


 湊は、一瞬きょとんとして、それから顔を真っ赤にした。


「……尊い」


「それは、口に出さなくていいから」


「でも、尊い」


「もう。みーくんのバカ」


 私は、くすくす笑いながら、歩く速度を少し落とした。


 半歩後ろじゃなくて、隣に並ぶために。


 朝の風の中で、私たちの影が、並んで長く伸びていた。

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