幼馴染モノにハマった俺が『一生このまま』と言ったら、幼馴染が引退宣言をしてきた
その漫画を渡されたとき、俺は正直、迷惑だと思っていた。
「いいから読め、日向。お前に足りないのはこれだ」
昼休み、柏木は紙袋を俺の机にどさっと置いた。中身は単行本が五冊。表紙では制服姿の男女が並んで笑っている。
「何これ」
「幼馴染もののラブコメ。全十巻。続きは五巻まで読んでから貸す。一気に渡すと潰れるからな」
「幼馴染って、あれだろ。朝起こしに来たり、弁当作ってくれたりする」
「それは序の口だ。いいから読め。読めば分かる」
「俺、ラブコメって読んだことないぞ」
「お前、少年漫画しか読まないだろ。たまには違うのも読め」
「そうだけど」
「それに、お前は一度ハマると早いからな。小学生のとき、少年漫画の技を真似して、傘で川の水を斬ろうとしてただろ」
「……あれは忘れてくれ」
柏木は妙に真剣な顔をしていた。普段は何を聞いてもへらへら流すやつなのに。
俺は渋々柏木から漫画を受け取り、持ち帰ることになった。
俺は、漫画を読まないわけじゃない。小学生の頃は、少年漫画ばかり読んでいた。ラブコメは一冊も読んだことがない。ただ、借りたものを開きもせず返すのは気が引ける。だから今度の日曜の夜、風呂上がりに一巻だけ開くことにした。一巻だけ。寝る前に、本当に一巻だけ。
一ページごとに手が止まった。バトルも修行もなく、誰も死なない。それなのに、なんでこんなに先が気になるんだ。なんだこの間は。なんだこの目線は。三ページ戻って、同じコマをもう一度眺める。次の巻に手を伸ばすたびに、先に深呼吸が要った。
次に顔を上げたとき、カーテンの隙間が白んでいた。
五巻、すべて読み終わっていた。
膝の上には、最後に読んだ五巻が開いたままになっている。右手が震えていた。呼吸が浅い。心臓がうるさい。
主人公と幼馴染は、お互いの気持ちに気づかないまま、毎朝同じ道を歩いて、同じ教室で弁当を食べて、同じ夕焼けの下を帰る。それだけの話だ。それだけのはずの日常が、気づいたら全部、どうしようもなく尊かった。
「……尊い」
声に出したら、もう一度来た。
そのとき、ふと思った。朝、起こしに来る。弁当を作ってくれる。帰り道がだいたい一緒。
あれ。
俺、全部持ってないか。
窓の外で、ぱっと灯りがついた。二メートルも離れていない隣の家の二階。白石小春の部屋だ。小春は陸上部で、朝練のある日は起きるのが早い。カーテン越しに、寝ぼけた影がのそのそ動いている。
小学生の頃からずっと、そこにあった灯りだった。
俺は窓を開けた。十月の朝の空気が少し冷たくて、どこかで金木犀が匂っている。
その窓に向かって、俺は無言で手を合わせた。
「……ありがとうございます」
誰に言っているのか自分でも分からなかった。たぶん、世界とか、神様とか、そのへんだ。
七時前にチャイムが鳴った。
玄関を開けると、小春が立っていた。ショートの髪に朝練帰りのジャージ。毎朝のことだ。俺の母さんに頼まれたとかで、うちに上がって俺を叩き起こすのが、中学から続く小春の日課になっている。
その小春が、ドアの前で固まった。
「……え」
「おはよう、小春」
「湊が、起きてる」
「うん」
「熱ある?」
小春は本気で心配そうな顔で、俺の額に手を伸ばしてきた。冷たくて、少し硬い手のひらだった。
「ない。ない、ありがとう、本当に」
「何が?」
「全部」
「全部って何」
俺はもう一度手を合わせた。小春が一歩、後ろに下がった。
「ちょっと、やめて。怖い」
「ごめん、でも言わせてくれ。小春がいてくれて、俺は本当に」
「分かった。分かったから、とりあえずこれ」
小春は目を逸らしたまま、鞄から包みを取り出した。弁当箱だ。毎日のことで、俺の分もなぜか小春が作っている。
「目の下すごいことになってるけど、徹夜?」
「漫画を読んでた」
「漫画? あんたが?」
弁当を受け取った瞬間、手の中の温かさに、また胸の奥がぎゅっとなった。
弁当まで。
「小春」
「何」
「俺は決めた」
「何を」
「この関係を、一生大事にする」
小春はたっぷり三秒、俺の顔を見た。それから、ぷいと顔を背けて言った。
「……朝から、意味わかんない」
耳が少し赤かったのは、朝の風が冷たかったせいだろう。
十月の空は高くて、世界は尊かった。
◇
昼休み、柏木に感想を伝えた。
「五巻まで読んだ」
「もう読んだのか」
「一晩で」
「……お前、顔が違うな」
柏木は満足そうに頷いて、それ以上は何も聞かなかった。語り合いたい気持ちはあったが、俺が全巻を読み終えるまで感想は取っておくそうだ。ネタバレ厳禁らしい。
放課後、俺は校門の脇で小春を待った。
陸上部は六時前に終わる。待ち合わせをしたことはない。ただ、気づけば小春が部活を終えて出てくる頃に、俺も校門に着くようになっていた。それが当たり前だと思っていた。昨日までは。
制服に着替えた小春が、髪をまとめ直しながら出てきた。
「あれ、湊。まだいたの?」
「待ってた」
「え」
「待ちたかったから」
小春は一瞬、変な顔をした。それからマフラーに顔を埋めた。
「寒いの? 今日、そんなに冷えてないけど」
いや、寒いわけじゃないんだが。
並んで歩き出す。うちの高校から家までは、川沿いの堤防道を通る。夕方のこの時間は、道の端から端まで、全部オレンジ色になる。
「ねえ、湊、今日ずっと変だよ」
「変じゃない」
「変だよ。朝から拝むし、休み時間もずっとぼんやりしてるし」
「ぼんやりしてたんじゃない。噛みしめてたんだ」
「何を」
「小春と、幼馴染であることを」
小春は黙って、堤防の草を蹴った。
俺は構わず続けた。
「朝言った漫画、あれが幼馴染の話だったんだ」
「ああ、徹夜で読んだっていう」
「そう。最初は気乗りしなかった。でも読んだら止まらなくて」
俺は、できるだけ分かりやすく、五巻ぶんの熱量を伝えようとした。
主人公は、幼馴染がずっと近くにいすぎて、何も気づかない。幼馴染のほうは、毎朝起こしに行くことで、何かを必死に守っている。二人とも言葉にしない。でも、その言葉にしないまま続いている日常が、どうしようもなく尊い。
「へえ」
「へえ、じゃなくて」
「いや、聞いてるよ。で、結局その二人は何がしたいの?」
「何がしたいとかじゃないんだ。そこにいる、というのが」
空が、燃えるように赤かった。川面に夕日が反射して、俺は少し目を細めた。
「俺、気づいたんだ」
「何に」
「朝起こしてくれて、弁当を作ってくれて、帰り道も一緒で。当たり前だと思ってたけど、全部、すごいことだったんだって」
隣で、小春の足音が止まった。
俺も立ち止まって、振り返った。
「小春」
「……なに」
「小春は、最高の幼馴染だ。だから、一生このままでいよう」
自分でも驚くほど、すんなり言えた。胸のつかえが、すとんと取れた気がした。これが「尊さが言葉になる」という感覚なのか。
夕日を背にして、小春が俺を見ていた。
逆光で、表情がよく見えなかった。一瞬、本当に一瞬だけ、その口元から笑みが消えた気がした。
それから、小春は笑った。
「……うん、そうだね」
いつもの笑顔だった。ただ、少しだけ、いつもより遅れてついてきたような笑顔だった。
きっと夕日が眩しかったのだろう。俺は納得して、また歩き出した。
並んで歩きながら、俺は嬉しくて仕方がなかった。ちゃんと伝わった。この気持ちを、小春と共有できた。
背中の後ろで聞こえる小春の足音は、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。
◇
その夜、私は部屋のベッドに倒れ込んで、天井を見上げていた。
一生このままでいよう。
最高の幼馴染だ、と湊は言った。
頭の中で、夕日を背にした湊の顔が何度も再生される。嬉しそうだった。本当に嬉しそうで、満足そうで、なんなら感動していた。
湊は、昔からそうだ。何かに夢中になると、次の日には全身がそれになる。少年漫画を読んだ翌日は、傘を構えて土手で叫んでいた。
だから今回も、たぶん、あの漫画に影響されただけなんだと思う。
悪気がないのは分かっている。むしろ、あれは湊なりの最大級の愛情表現だ。それも分かっている。
でも。
「……最高の、幼馴染」
声に出してみた。
幼馴染。小学校に上がる前から、窓ひとつ挟んで十何年。朝起こして、お弁当を作って、帰り道を一緒に歩く。私が好きでやってきたことを、湊は全部まとめて「幼馴染」という箱に入れて、大事に棚へ仕舞おうとしている。
一生このまま。
つまり、これ以上は、ない。
足が止まったのは、夕日が眩しかったからじゃない。あの瞬間、はっきり分かってしまったからだ。私は十何年かけて、その箱の中で、立派な幼馴染をやりきってしまったんだ、と。
起き上がって、窓のカーテンをそっと開けた。
二メートルも離れていない向かいの窓に、湊の部屋の灯りがついている。机に向かって、何か分厚いものを広げているのが見えた。たぶん、あの漫画だ。
いつから好きだったのか、私は自分でもよく覚えていない。
ただ、中二の秋のことは覚えている。
記録が伸びなくて、走るのが嫌になった日。誰とも話したくなくて、一人で土手に座っていたら、湊が来た。何も聞かず、何も言わず、私の隣に座って、雑誌を読み始めた。
三十分くらい、ずっとそうだった。
最後に私が「帰る」と言ったら、湊は「おう」とだけ言って、立ち上がった。それだけだった。それだけなのに、あの日から、私の中で湊は、ただの幼馴染じゃなくなった。
向かいの窓が、からりと開いた。
湊が顔を出した。気づいていたのか、偶然なのか、分からない。
「小春」
「……なに」
「おやすみ」
「うん」
「今日はありがとな」
「何が」
「全部」
湊は笑って、親指を立ててみせた。
反則だ、と思った。ああいう顔をするから、嫌いになれない。
「おやすみ、湊」
窓を閉めた。そのままカーテンも引いて、ずるずるとその場に座り込む。
膝を抱えて、三分くらい黙っていた。
それから、スマホを取り出した。
メモ帳を開いて、何も書いてない画面を見つめる。指が少しだけ震えた。
幼馴染というのは、居心地がいい。起こしに行く理由も、お弁当を渡す理由も、帰り道を並んで歩く理由も、「幼馴染だから」で全部済む。安全で、ずっと続けられる。
でもそれは、そこから先へは行けない関係でもある。
湊にとって、私は一生「このまま」の存在でいい。
じゃあ、私は。
私は、嫌だ。
私は、湊の幼馴染でいたくない。
画面の上に、ひとつずつ文字を打ち込んでいく。
「朝、起こしに行かない」
「お弁当を作らない」
「家でだらだらしない」
「呼び方を変える」
最後の一行を、少し迷ってから打った。
「幼馴染を、やめる」
保存ボタンを押すと、画面が短く震えた。
窓の向こうでは、湊の部屋の灯りが、まだついていた。
◇
三日後の朝、俺は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
ベッドの上で姿勢を正して、息を整える。
二巻に、ああいう場面があった。主人公が寝たふりをして、幼馴染に起こされるのを待つ。「あと五分」と言って布団にもぐると、幼馴染が仕方なさそうに肩を揺すってくれる。あれは、いい。
俺は布団を頭までかぶって、目を閉じた。
七時になった。
チャイムは鳴らなかった。
七時五分になった。
階段を上がる足音がして、ドアが開いた。母さんだった。
「あんた、何してるの。起きてるの?」
「……寝てる」
「起きてるじゃない。小春ちゃん、今日は朝練の準備で先に行くって連絡あったわよ」
「連絡?」
「あんたにも送ったって言ってたけど」
スマホを見ると、六時台に一件、通知が来ていた。「今日から朝は一人で行くね」と、そっけない一行。
俺は布団の中で、しばらく固まっていた。
朝のイベントが、消えた。
◇
学校に着くと、校門で小春と鉢合わせした。
「おはよう、日向くん」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……ひなた、くん?」
「うん。同じクラスだし、いつまでも呼び捨てじゃ変かなって」
「変じゃない」
「変だよ。もう高二なんだから」
小春は、いつもの笑顔で言った。
俺は教室まで、無言で歩いた。呼び方が、変わった。ずっと「湊」だったのに。いや、正確には「みーくん」だった時期もあったが、それは小学生の頃の話で、高校に入ってからは普通に「湊」と呼んでくれていたはずだ。
昼休み、俺は机の上に何も出さずに待っていた。
小春は弁当を持っていなかった。代わりに、購買の袋を提げてやってきた。
「焼きそばパンとコロッケパン、どっちがいい?」
「……どっちでもいい」
「じゃあ、コロッケね」
隣の席に座って、小春は自分の焼きそばパンを開けた。普通に話しかけてくる。部活の話、先生の話、昨日のテレビの話。いつも通りだ。いつも通りなのに、手元に弁当箱がないだけで、世界がひとつ欠けている。
「小春、弁当は」
「今日はパンの気分で」
そう言って、小春は焼きそばパンにかぶりついた。
俺は、コロッケパンを持ったまま、考えた。
三巻だ。
三巻には、幼馴染がしばらく素っ気なくなる回があった。主人公は何も分かっていないまま、少しずつ距離ができていく。あれは、あの流れだ。
「……なるほど」
「何がなるほどなの」
「いや。こっちの話」
◇
私は焼きそばパンを飲み込んで、それから、心の中でガッツポーズをしようとした。
できなかった。
朝、家を出るとき、湊の家の前を通った。窓のカーテンが開いていて、ベッドの上で湊が布団にもぐっているのが見えた。私が起こしに行かなかったら、どうなるんだろう、と思った。
結局、通知を一件送っただけで、素通りした。それが精一杯だった。
呼び方を変えるのも、すごく緊張した。「日向くん」と口にした瞬間、舌が絡まって、危うく噛みそうになった。
それなのに。
隣で、湊は、コロッケパンを持ったまま、満足そうな顔をしている。
何を考えているんだろう。
「ちょっと寂しい」とか「どうしたの」とか、そういうことを言ってくれれば、少しは手応えがあるのに。湊はただ、何かを理解したように、一人で頷いている。
全然、効いてない。
メモ帳に書いた作戦は、四つ。一つ目と二つ目と四つ目は、今日で全部実行した。残るは三つ目と、その先だ。
私は焼きそばパンの包みをくしゃっと丸めた。
◇
放課後、俺は柏木を捕まえた。
「相談がある」
「お、どうした」
「幼馴染が、距離を置こうとしている。たぶん」
柏木は、飲んでいた紙パックのジュースを吹き出しそうになった。
「たぶん、とは」
「朝、起こしに来なかった。弁当もない。呼び方が変わった。名字に君付けだ」
「お前、それ全部、自分で数えて言ってるのか」
「三巻の展開だと思う」
柏木は、窓の外を見た。それから、ゆっくりと俺のほうに向き直った。
「日向」
「ん」
「それ、まだ序盤の展開だぞ」
「序盤?」
「お前が読んだのは、五巻までだろ。三巻のあれは、ちょっとした山場にすぎない。もっと先がある」
「もっと先って、何があるんだ」
「言わない。ネタバレ厳禁だ」
柏木は妙にいい笑顔で、ジュースのストローをくわえた。
俺は、たぶんこいつは何か知っているんだろうな、と思った。でも、それ以上は教えてくれなかった。
その夜、スマホが震えた。
画面を見ると、小春からのメッセージだった。
「日曜、暇? 映画、行かない?」
俺は、画面を三回見直した。
映画。
休日に、二人で。外で。
四巻だ。
四巻に、そういう場面があった。
◇
日曜の朝、俺は駅前の時計台の下で待っていた。
家は隣同士なのに、待ち合わせをしている。
四巻にも、そういう場面があった。同じ町内に住んでいる二人が、わざわざ別々に家を出て、駅前で待ち合わせる。あれは、デートの始まりの儀式だ。
「おはよ、日向くん」
小春が来た。
白いニットに、膝丈のスカート。見たことのない格好だった。髪も、いつもより丁寧に結ばれている。
「……おう」
「何、その顔」
「いや。似合ってる」
小春は一瞬固まって、それから「急に何」と言って、そっぽを向いた。
映画館は、日曜の朝なのに混んでいた。
選んだのは恋愛映画だ。雨の駅で別れた二人が、数年後にもう一度出会う話らしい。小春が選んだ。小春は普段、アクション映画しか観ない。
席に着くと、小春が小さな声で言った。
「ポップコーン、一個でいい?」
「いい」
二人で一つのポップコーンを持って、暗くなった館内に座る。
予告が終わって、本編が始まった。
◇
私は、画面をほとんど見ていなかった。
隣に湊がいる。肘掛けの上、数センチ先に湊の腕がある。ポップコーンの容器は、ちょうど二人の真ん中。手を入れるタイミングを、ずっと窺っている。
そして、その瞬間は来た。
同時に手を伸ばしたせいで、指先が触れた。
「……四巻」
湊が、小声で呟いた。
「え?」
「あ、いや。何でもない」
何が四巻なんだろう。私は慌てて手を引っ込めた。心臓がうるさい。
横目で見ると、湊は真剣な顔でスクリーンを見つめている。映画に集中しているのだ。私の手が触れたことなんて、まるで気にしていない。
そのまま一時間半、私は一度もスクリーンを直視できなかった。
エンドロールで、湊が泣いていた。
「……え」
「ごめん、続き、気になって」
「泣くの、そこ?」
「あの、あの二人が、最後に傘を」
湊は袖で目をこすった。私は思わず笑ってしまって、それから、ちょっとだけ悔しくなった。
◇
昼を食べて、次に向かったのは水族館だった。
俺は水族館に来たことがなかった。いや、小学生の遠足で一度行ったかもしれないが、覚えていない。
「水族館って、意外と暗いんだな」
「そりゃ、魚が見やすいようにでしょ」
小春はそう言って、水槽の前で足を止めた。大きな水槽の向こうを、銀色の魚の群れが一斉に向きを変える。
「綺麗」
「すごいな。あれ全部、同じ動きしてる」
「魚だもん」
「いや、尊い」
「何が?」
「群れで一緒に動いてるのが」
小春は呆れたような顔をして、でも、少し笑っていた。
クラゲの部屋は、さらに暗かった。壁一面にクラゲが浮かんでいる。青い光に照らされて、ふわふわと漂う。
「これ、触りたくなるね」
「刺されるぞ」
「触らないよ」
小春は、俺の少し後ろを歩いていた。
そのとき、小春の指先が、ほんの少しだけ俺の手に近づいた気がした。
俺は気づかず、水槽に顔を近づけた。
「見て、小春。この一匹だけ、全然違う方向に行ってる」
「……うん」
「あいつ、大丈夫かな」
「大丈夫だよ、たぶん」
小春は、手をポケットに入れた。
◇
最後に行ったのは、駅前のゲームセンターだった。
「ここは普段通りだな」
「え?」
「いや。なんか落ち着く」
水族館とも映画館とも違う、薄汚れた床とチカチカした光。小学生の頃から、二人でよく来た場所だ。
クレーンゲームの前で、小春が俺の袖を引いた。
「あれ、取って」
「あの、でかいやつ?」
「できるでしょ」
「いや、俺そんなに上手くない」
「知ってる。だから面白いんじゃん」
結局、二千円使って取れなかった。小春は、横で腹を抱えて笑っている。
「何だよ、笑いすぎだろ」
「だって、あんたの顔、必死すぎて」
「じゃあお前がやれ」
小春は財布から百円を出して、あっさり一発で景品を落とした。
「……ずるい」
「勝負は勝負」
「陸上部は反射神経ありすぎだ」
エアホッケーでは、二人とも本気になった。結果は五対五の引き分けで、決着がつかなかった。
「もう一戦」
「やる」
気づけば、俺は声を出して笑っていた。
◇
ゲームセンターの出口で、私は立ち止まった。
「どうした?」
湊が振り返った。
照明の下で、少し汗をかいて、いつもの笑顔で笑っている。
私は、朝からの作戦のことを、ずっと忘れていた。
映画で緊張して、水族館で空回りして、それなのにゲームセンターで、何も考えずに大笑いしていた。この、薄汚れた床の上で。
これでいいんじゃないか、と思った。
いつもの二人でいて、いつも通りに笑って。この空気のまま、ある日突然、恋人になれるのではないか。
そう思ってしまった。
「小春」
「……なに」
「今日、楽しかった」
「うん」
「やっぱり、小春といるのが一番落ち着く。いつも通りが一番いいな」
湊は、心からの笑顔で言った。
「これからも、ずっと幼馴染でいような」
世界が、ぱたんと閉じる音がした気がした。
私は笑った。笑ったと思う。
「……うん」
夜、ベッドの中で、私は決めた。
月曜に、ちゃんと言おう。
◇
月曜の昼休み、小春に屋上へ呼び出された。
屋上には、他に誰もいなかった。風が強くて、フェンスの向こうには秋の空が広がっている。
「話って何?」
小春は、フェンスの前に立っていた。振り返って、まっすぐ俺を見た。
いつもの顔じゃなかった。
「日向くん」
「……はい」
「私、もう幼馴染やめるから」
風が止まった気がした。
「……え」
「ごめんね。急に言って」
「やめる?」
「うん。もう、幼馴染は終わり」
小春は、きっぱりとそう言った。
それは、紛れもなく、幼馴染の引退宣言だった。
俺は、屋上のコンクリートの上で、立ち尽くした。
どうして。
「どうして……」
◇
午後の授業の内容は、一つも覚えていない。
気づけば放課後になっていて、教室にはほとんど誰も残っていなかった。窓の外では、陸上部がトラックを走っている。その中に小春の姿を探しかけて、俺は目を逸らした。
「日向」
柏木が、鞄を肩にかけて立っていた。
「……なんだよ」
「顔、死んでるぞ」
「小春に、幼馴染をやめるって言われた」
柏木は何も言わず、鞄を開けた。中から取り出したのは、五冊の単行本だった。
「六巻から十巻だ。第二部、全部貸す」
「今は、そんな気分じゃ」
「今読め」
柏木は、いつになく真面目な顔をしていた。
「お前、五巻までしか読んでないだろ。あの漫画は、そこから先が本番なんだよ」
「本番?」
「幼馴染が、どうして幼馴染をやめたいと思うのか。その話だ」
俺は黙って、本を受け取った。
表紙の二人は、五巻までと同じ顔で笑っていた。
「じゃあな」
柏木はそれだけ言って、先に教室を出ていった。
◇
帰り道は、一人で堤防を歩いた。
いつもなら隣に小春がいる道だ。今日は部活が終わる時間を待たずに、校門を出た。待っていいのか、分からなかった。
川面が夕日で赤く染まっていた。あの日と同じ夕焼けなのに、隣が空いているだけで、色が違って見えた。
家に着くと、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり。小春ちゃんは?」
「……部活」
「そう。今日はカレーよ」
夕食を食べた。味はしなかった。風呂に入って、髪も乾かさないまま、部屋に戻った。
机の上には、鞄から出した五冊が積んであった。
◇
窓の向こうの小春の部屋には、灯りがついていた。
それを視界の端に置いたまま、俺は最初のページをめくった。
読み終わるまで、一度も顔を上げなかった。
最後のページを閉じたとき、俺はしばらく動けなかった。
五巻までの自分が、ずっと勘違いしていたことが分かった。
あの漫画の主役は、幼馴染でいたい主人公だと思っていた。でも違った。本当に描かれていたのは、毎朝その人を起こしに行っていた、幼馴染のほうの気持ちだった。
何も言わない日常の中で、一番多くのことを言っていたのは、言わなかったほうの人だった。
俺は、そこを読んでいなかった。
読んだ気になっていただけだった。
本を机に置いて、天井を見上げた。
頭の中で、この数日が、勝手に巻き戻された。
朝、起こしに来なかった小春。
「日向くん」と、言いにくそうに呼んだ小春。
焼きそばパンの包みを、くしゃっと丸めていた小春。
映画館で、ポップコーンに手を伸ばして、慌てて引っ込めた指。
水族館のクラゲの前で、ポケットに入った手。
ゲームセンターの出口で、立ち止まった背中。
そして、堤防の夕日の中で、笑顔が遅れた、あの顔。
足が止まったのは、夕日が眩しかったからじゃなかった。
「一生このままでいよう」。
俺は、あれを一番の愛情表現だと思っていた。でも、あの人にとっては、たぶん、逆だった。
さらに、思い出した。
あの朝、チャイムが鳴らなかったとき。俺はベッドの中で、これは三巻の展開だと思っていた。でも本当は、あのとき、胸の奥にぽっかりと穴が空いていた。
あれは、尊さなんかじゃなかった。
ただの、寂しさだった。
起こしに来てくれなくて寂しい。弁当がなくて寂しい。「湊」と呼ばれなくて寂しい。
俺は、小春が隣にいる朝が好きだった。
幼馴染という言葉が好きだったんじゃない。あの漫画の中の誰かでもない。
小春が、好きだった。
「……なんだ、そりゃ」
声が、情けないくらい震えていた。
十何年、隣にいて、漫画の続きでやっと、気づいたのか。
窓の外では、小春の部屋の灯りがまだ点いていた。
カーテン越しに、細い影が動いている。もう寝る時間だというのに、起きているのだろう。
あの影に向かって、俺が言うべき言葉は「一生このまま」じゃなかった。
俺は、立ち上がった。
机の上に、一巻から十巻までを順番に並べる。
少しだけ、考えた。
そして、スマホの目覚ましを、いつもより一時間早くセットした。
◇
翌朝、俺は五時五十分に窓を開けた。
十月の朝の空気は冷たくて、澄んでいた。どこかで金木犀の匂いがした。
向かいの窓には、すでに灯りがついていた。朝練のある日の小春は、起きるのが早い。カーテンの向こうで、影がのそのそ動いている。
俺は息を吸って、窓から身を乗り出した。
「小春!」
カーテンが止まった。
しばらくして、向かいの窓が、おそるおそる開いた。
寝ぐせのついた小春が、顔を出した。ジャージ姿で、片手に歯ブラシを持っている。
「……何。朝から」
「起こしに来た」
「私、もう起きてるんだけど」
「知ってる」
「じゃあ、何」
「起こしたかったから」
小春は、歯ブラシを持ったまま固まった。
俺は、窓枠をつかんだ。二メートルの距離が、やけに遠く感じた。
「昨日、柏木から続きを借りて、全部読んだ」
「……続き?」
「あの漫画。幼馴染のほうの気持ちが、全部書いてあった」
「ちょっと、待って。何の話」
「俺、間違えてた」
小春の目が、少しだけ見開かれた。
「『一生このままでいよう』って言っただろ。あれは、違った」
「……」
「幼馴染をやめるって言われて、分かった。俺は、幼馴染が好きだったんじゃない」
声が、思ったより震えた。
「小春が、好きなんだ」
窓の向こうで、小春の手から歯ブラシが落ちた。
からん、と音がして、下の庭に転がっていった。
「幼馴染は、やめなくていい。やめないでほしい」
「……」
「でも、そこに、もう一個足してほしいんだ」
俺は、できるだけ分かりやすい言葉を探した。
「幼馴染のまま、恋人になってほしい」
◇
私は、窓枠にしがみついたまま、動けなかった。
目の前で、湊が顔を真っ赤にして、下手くそな告白をしている。
寝ぐせがついている。パジャマのままだ。こんな時間に、窓越しに、近所中に聞こえそうな声で。
漫画でも、こんな告白は見たことがない。
「……それ、漫画に影響されただけじゃなくて?」
自分でも、意地の悪い聞き方だと思った。
湊は、少しも目を逸らさなかった。
「そうかもしれない。きっかけは、絶対そうだ」
「正直だね」
「でも、小春が好きなのは、漫画より前からだった。気づくのが、漫画のおかげになっただけだ」
息が詰まった。
「……ずるいよ、湊」
「え」
「そういうこと、急に言うの」
声が震えて、止まらなかった。目の奥が熱くなって、視界がにじんだ。
「私、昨日の夜、ずっと考えてたんだよ。もう一緒にいるのやめようって。もう無理かもしれないって」
「ごめん」
「『一生このまま』って、何。あれ、本当に傷ついたんだから」
「ごめん。本当に、ごめん」
「遅い」
「うん」
「何年も、待ったんだから」
「……うん」
湊は、窓の向こうで、泣きそうな顔をしていた。
私も、笑いながら泣いていた。頬を伝う涙を、袖で乱暴にこする。
息を吸って、吐いた。
それから、小学生の頃以来、呼んだことのなかった名前を口にした。
「みーくん」
湊の目が、まん丸になった。
「……こはる」
声がうわずっていた。鼻をすする音がして、湊の目がみるみる潤んでいく。
「俺、今、すごい、嬉しくて」
「ちょっと待って」
「え」
「泣くの、まだ早い」
私は、窓から身を乗り出して、手のひらを突き出した。
「まだ、返事してないでしょ」
「あ」
湊の動きが止まった。
「ちゃんと聞いて」
「はい」
湊は、背筋を伸ばした。さっきまで泣きそうだった顔が、一瞬で直立不動になる。
その様子がおかしくて、また少し笑ってしまった。それから、ゆっくり息を吸った。
「私も、ずっと好きだった」
「……」
「いつからかは、覚えてない。でも、自覚したのは中二の秋。土手で隣に座ってくれた日から、ずっと」
「覚えてたのか、あれ」
「覚えてるよ。ジャンプ読んでたよね」
「……読んでた」
「だから、いいよ」
私は、涙を拭いて、まっすぐ湊を見た。
「恋人になる。幼馴染のまま」
湊は、しばらく固まっていた。
それから、ゆっくりと両手を合わせた。
「……ありがとうございます」
「だから、拝まないでって」
「あ、朝練」
私は、はっとして、慌ててポケットからスマホを取り出した。
「顧問に、遅れるって連絡しとく」
「いいのか」
「いいの。今日だけ特別」
◇
その日の朝、私は一人で家を出なかった。
玄関を開けると、ちゃんと湊が待っていた。ちゃんと起きて、ちゃんと制服を着て。寝ぐせは、まだ少し残っている。
「おはよう、小春」
「おはよう、みーくん」
並んで歩き出す。
土手道は、まだ朝日で金色に染まっていた。川面がきらきら光って、風が冷たくて、金木犀の匂いがした。
「あのさ」
「ん」
「お弁当、明日からまた作ってくれる?」
私は、横目で湊を見た。
「やめるって言ったのに」
「うん、ごめん」
「作るよ。彼女だから」
湊は、一瞬きょとんとして、それから顔を真っ赤にした。
「……尊い」
「それは、口に出さなくていいから」
「でも、尊い」
「もう。みーくんのバカ」
私は、くすくす笑いながら、歩く速度を少し落とした。
半歩後ろじゃなくて、隣に並ぶために。
朝の風の中で、私たちの影が、並んで長く伸びていた。




