小説を書く上での「正解」とは何か?
固定化されたルール上での最適解は、すでに多くの分野で、AIが人間のそれを大きく凌駕し始めている。頭脳集団である将棋の棋士たちですら、AIが出すスコアを元に日々、最善手を検討している。ルールが、さまざまな無駄な思考を削ぎ落し、思考を効率化する。
さて、小説を書く上での「ルール」とは、いったい何か?
作者と読者のコミュニケーションは「作者が作り出すルール」によって成立するわけであるが、読者の興味を喚起させるには、いったいどのようなルールの設定が正しいのか?
ルールは、プレイヤーである読者の知性に合わせる必要がある。対象年齢が低ければ、より分かりやすく、高ければ、自律思考を促すような含意のある言葉で、それを表現する。同じ状態を表現するにしても、言葉使いもガラリと変わる。
だが、素人作家の大半は、何となくで書き始める。「きっと読者は分かってくれるだろう」と「読者層の想定」もせず、出会いの「運」に期待し、けっきょく「ここの読者は見る目がない」とぼやく。
これは、コミュニケーションにおける作者側のルール設定の不備、いや不在であるわけだが、ここに対する反省が出来る素人作家は非常に少ない。
では、どう設定すべきか?
やはり「読者」に対する意識である。
誰に向けて、語りかけているのか。
相手の理解力と興味は、どこに向いているのか?
それらを踏まえた上で、ようやく「自分の小説の世界」への招待状を送ることができる。
小説を書く人間には、各々、主張したい何かがある。
しかし、その主張を成立させるための「足場=ルール」を丁寧に作らないと、対話は途中で瓦解する。
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さて、ここで「なろう」における一般ルールを少し考えてみよう。
投稿サイトにおける作品は、ストリート・パフォーマーと同じだ。出会い頭にガツンと一撃、「読者の足を止める何か」を用意する必要がある。冒頭をダラダラと書き始めてもよいのは、すでに「固定客」のいる投稿者だけ。一定数以上の顧客がいないのなら、「冒頭を魅せるテクニック」は不可欠である。
「ルール設定」の大幅なショートカットを試みるのなら、やはり「テンプレート」が有効だ。すでに多くの人間たちが作り上げた「共通ルール」が数多く存在し、多くの説明を省くことができる。ただし、これにも「毒」はある。
テンプレート作品の多くは、大幅に読み飛ばされる。
お決まりの設定に、お決まりの展開。
ルールとしては「オセロ」にも近い単純さが、読者からも求められており、「テンプレート破り」にすら、やはりすでにルールが存在する。このルールは主張の強い作者ほど、自分で自分の首を絞める設計となっている。最初から「ガチガチの枠組み」が存在する以上、そこで求められるのは「読者に対する従順さ」であるからだ。テンプレート作品への適性は、自分が「奉仕者気質」かどうかで判断すればいい。
なろうでの戦術は、いかに自分のエゴと読者との「妥協点」を探すかに尽きる。なろうは評価ポイントを神とする「宗教国家」だからだ。まったく別の思想や宗教は、ここでは求められていない。目指すべきは「異端の会派」程度の新規性であり、それ以上を求めるのであれば、ここは貴方の戦場ではない。いくら「読者数」自体が多くとも、ここには明確な「文化」があり、それは極めて厳格で、ある者には退屈な戒律によって、成り立っているとも言える。
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「自由度」を考えるのであれば、「戦場」を考える必要がある。皆が野球を楽しんでいる球場で、独りボールを持ってフェンスに向かって走り出しても、喜んでくれるのは一万人にひとりふたりの野球教の異端者だけ。ボールを持って走りたいのであれば、ラグビーか、アメフトの会場に行くべきである。客の数が野球ほどはいなくても、そちらでの方がよほど賞賛もされる。
自分が「何を書きたいのか」が「作家性」であり、すべてを読者に合わせるのは、ただの職人である。少なくとも、小説家になろうのようなサイトは、ラノベ作家になるためのサイトであって、小説家を目指すのであれば、戦場の設定としては間違っているとも言える(あ、またなろうの話に戻ってしまった)。
読者のいない創作は、虚しい。
証人のいない作品は、存在しないのと同じだからだ。
他人とのコミュニケーションが苦手だから、小説を書いているという人もいるだろう。しかし、コミュニケーションは、どこまでも付きまとう。そういった人が取れる戦術は、おそらく「同類からの共感」の誘発くらいであるが、自分のハリネズミ性の言語化が出来る頃には、おそらくコミュニケーションの問題も解決してしまっているという問題もある。
(ん、脱線しまくってるな。そろそろ〆たいのに)
ええと、小説を書く上での「正解」の話だったか。主題は。
正解は、作者と読者のルールと、その妥協点の設定。
そんなところか。
これを最初から意識して書き始めない限りは、おそらく「長編」は成立しない。短編ならワンアイデアで走ることも出来るが「世界観の構築」までには至らない。世界観の構築には、読者との共犯関係が必要であり、読者はまた客でもある。一度掴んだ読者を逃がさないためには、読者を飽きさせないおもてなしと、忍耐力の見極めも必要となってくる。
小説を書くという行為は、演劇などのように直接、客の反応が見れない以上、想定する読者は出来るだけ「飽き性」に設定するのが、正解かもしれない。奉仕者にまでなる必要はないが、最低限度の「配慮」は持っていて然るべきある。
それでも、何もかもを自分の好き勝手に書きたいというのであれば、優秀な「プロモーター」を探すべきかもしれない。読まれない作品には、当然、価値もつかないのだから。
「自分だけが分かる言葉」は、言葉として成立していない。




